多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説71
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
シートの中でタオはその窓に過ぎ去る田園風景をもはや見る余裕さえなかった。曇り空の白濁の下のあまりにも穩やか過ぎた色彩。そのこちらにタオは薄く閉じた瞼にかすかな痙攣をあたえてシートに深く靠れるしかなかった。
口の奧に、喉を何度か締め付け、喉に喉を噛みつかせているかのように、それ、頸筋の皮膚がうごめくのをわたしは時に見た。
此の時、わたしは彼女の異変の理由を知っていた。精神的な理由だ。事の詳細は彼女の爲に、あなたには言わないでおく。後にわたしたちが見る《變化》とはかかわりのないものだと思う。違うかもしれない。わたしにもわからない。
東京駅で乘りかえるに、彼女はシートに埋もれたままに行った。
——さきに、行って。
——なんで?
——歩けないよ。さきに、
——それは無理だろ?
わたしは云った。彼女に手助けしようとしたとき、タオは自分で立って自分で歩いた。腰を抱いて、タオを連れた。タオはなんどか不自然に立ち止まり、そのつど私たちは人にぶつかり駆ける。
わたしたちの周りに不審の気配が匂うのは明らかだった。それも又タオを追い詰めるには違いなかった。
駅でトイレを探した。
タクシーで新宿へ行って、そのままホテルに入った。タクシーの中で、短くはない時間の中にタオは運転手に流暢な日本語で自分のことを話しかけて倦まなかった。彼はタオが憧れの日本再訪に歓喜する、軽く躁がかった南国女性の陽気と思ったに違いない。わたしはタオの笑い声を聞き、その話声を聞いた。
時間はすでに三時を過ぎていた。
チェックインのフロント前でタオは一変した。レセプショニストに彼女は明らかに、初歩の日本語さえしゃべれない初学者のしどろもどろを公開した。
レセプションの女はタオにいたわりの微笑をくれた。彼女にはそれ以外に術はなかった。彼女はあわれな、過剰に緊張した後進国の貧しい女を見ていた。彼女はすでに憐れみと慈愛の人になりおおせた。
部屋の中で、タオは私がルームキーを差し込む前の暗闇にトイレを探し、そして籠った。
嘔吐する麁い息が聞こえた。ドアのむこうに空気さえ荒ららぐ饐えた気配があるような、そんな実感がわたしの鼻に芽生えた。
ややあって、シャワーの音が聞こえた。
わたしはベッドに身を投げた。
タオが一度窓の外を見た。
しばらく見、確認するようにも見、振り返りかけ、再び見、振り返りかけ、見、遂に振り返って、そして、蘭は聲のないまま唇とほほでだけ笑った。
軈て飛び込むようにベッドに身を投げて、軋んだ寝台に私にからみついた。
蘭は腕に、腹に、太ももに、わたしの体温を感じた。
蘭は目を閉じた。
耳を澄ましているようにもわたしには想えた。
シャワーの音が止まって、纔かな時間があって、タオがバスタオルで体をふきながら外に出た。絡みついて眠る蘭をは放置した。むしろこの時にはタオは落ち着いていて、彼女は髪も洗ったようだった。
——日本だね…
ドライヤーで髪を乾かしながら、そしてタオは鏡を見ながら言った。
テーブルに投げ出されたバスタオルが、零れ落ちる寸前に埀れさがっていた。
——うれしい?
タオは云った。
わたしは斜めに刺す曇りの日差しに半面を翳らすタオの後姿を見ていた。
なにも答えなかった。
——うれしいね。
タオはわたしの爲にささやいた。
——綺夜宇さん!
いきなりタオが叫んだ。
ドライヤーを止め、振り返りみて、敢えて自分の胸をつかんで云った。
——太った?
と、わたし、太った、ね。
陽気に、喚くように言ったタオにわたしは笑んだ。
髪の未だ乾かないままにタオは私のかたわらに横たわり、片肘にのぞきこみ、覆いかぶさって、そして以前日本にいた比の想い出を語った。いくつか、すでに聞いた話も交えて。
空港からこのかたの彼女の変調は影も無かった。日が沈みかけたころに、わたしは彼女を抱いてやった。
蘭が、そのかたわらに姉に添うように、そしてその頬を時に撫ぜた。自分が姉であるかにも見せて。
タオを外に連れ出す気になれなかった。
ひとりで外に出、コンビニでパンを買って遣った。
日本で連れまわす以上、彼女は本当に崩壊して仕舞うに違いないことをすでにわたしは予感していた。
それを防ぐ気も、煽るきもなかった。
部屋の中で、服も着ずにようきにさわぐタオをわたしは見ていた。
タオが云った。
——シャワー、浴びて。
笑い声と共に。
——綺夜宇さん、つかれてるよ。だから、あびたほうが、いいよ。
私が云われるままバスルームに入って、そして出て来た時、彼女はすでに寝台に寝息を立てていた。
疲れ切っていたに違いないことにわたしは気付いた。
時間にして八時半程度。
蘭は小さなソファ雙つの、その一つに座ってわたしを見ていた。
髪をかわかし、わたしは部屋を出た。蘭に、朝まで待ってろ。それだけ伝えて。
(以下は下に別記)
〇
2019.09.16.メール
(本文)
嘘をつくわけじゃない。
とは言え、すべてを語り盡すことは誰も、誰に對してもできない。
あなたが私が嘘を、必ずしもついたのでないことを知れば、或はそれでよい。
淸雅
十四日の朝に、日本についていた。
タオと蘭を連れて。
タオは蘭に日本を紹介するのに夢中だった。
そして蘭は姉の前で、その固有の失語症を曝し続けた。
此の日、何をしたというでもない。
空港を出るまでに時間がかかり、更に成田からの長旅に時間がかかる。
成田エクスプレスの窓越しの風景に、タオが云った。
——ここ、東京?
彼女は前回、兵庫にいたから成田は初めてだった。
わたしは千葉だ、と言った。
——東京じゃないの?
——近く。
答えるわたしにタオはそれでも訝しげだった。不思議なものを見るような目をした。
その窓の向こうの鄙びた風景に。
新宿のホテルに着くとタオと蘭は早く寝た。
その夜、わたしは部屋を出た。
步いた。
いずれにせよ、そこは東京だった。
深夜三時近くに花園神社に入った。境内を通り、裏の、ゴールデン街近くの、樹木の影の平屋に入った。所謂隠れ家風の居酒屋。個室の店だった。入り口に出迎えた受付の女が、背後の小さな噴水の水のきらめきに後ろから騒ぎ立てられながら、わたしに笑んだ。
——予約の、林さんのところ…
——林様…八郎様でいらっしゃいますか?
予約帳も見ずに名前を言ったレセプションの素直な顏に、わたしはその名前の憶えやすさに手落ちを感じた。あるいは覚えやすくとも忘れやすいだろうか?あるいは、中橋基明だの安田優だの方がよかったのではないか。少なくとも数字つきの名前は記憶に残りやすくも思えた。
女の胸にすこし盛りあがって光を反射するネーム・プレートを見た。高橋かすみと書いてあった。二度確認し、顏をみたときに、女の顔にあからさまな矜恃の色が生まれてあり、そっと彼女の媚びを隠していたのに気づいた。わたしは自分の眼差しを羞じた。
高橋かすみがあらためてはっきりと笑んだ。彼女に自分の女への自信が匂った。
——そう、…もう、います?
——ご予約は三名様ですよね?
——そう。
——二名様、もう、お待ちです。
高橋かすみが通路の竹のオブジェの翳りを潜りながら、その個室に先導した。
彼女の聲かけのあとでおびただしい椿の斜めにながれた衾をひらくと玖珠本穗埜果と嘉鳥螢醐が向かい合って座っていた。天井の極端に低い室内。いかにもせまく、あまりも瀟洒に飾られた押し入れの中に押し込められた気がする。嘉鳥のとなりに座った。
ふたりはシャンパンを飲んでいた。ヴーヴ・クリコVeuve Clicquo、ふつうの、オレンジ色のラベル。
嘉鳥の好みだったことを思い出した。
わたしは思わずに笑った。
言った。
——相変わらず、…
嘉鳥、
——なに?
——相変わらず、それ?
——前は…お前がいたころはクルグKrugじゃない?…本当はモエが好きだった。…でも、あれ有名すぎて…あれから、日本酒にも行ったけどね。
——そう?
——でも、炭酸入ってる感じの方が…お前は?ひさしぶりの日本酒?
——同じでいいよ。
——久しぶりの挨拶もせずに、酒の話から入る。…ま、俺たちっぽいかな。その横道に外れた感じ、ね。
嘉鳥は笑った。
給仕係があたらしいフルート・グラスを持ってくるまで、私たちは取り立てて何を話すともなかった。
玖珠本がグラスにヴーヴを注いだ。
——久しぶりでしょ。
玖珠本が云った。そのささやき聲のやさしく、あまりにも親しい気配が嘉鳥にふたりの関係を思い出させたに違いなかった。
——そう…ね。
そう独り言散る声をわたしは耳の横に聞いた。
——シャンパン?
——あっちにもあるの?
——あるよ。だれも買わない。飾られてるだけ。お金持ちの、いけすかない外国かぶれの人間だけが買う。
嘉鳥が云う、——こっちと一緒か?
そして自嘲して笑い、——もっとひどい。お前、老けたね。
嘉鳥に言った。
——年相応。立派なアラフィフってやつ。知ってる?アラフィフ。今の日本語。
——いたころから使ってた。アラサー、アラフォーだろ?…くだらない。
——お前は相変わらず、…波乎が云ってたぜ。
——なんて?
——彼が部屋に飾ってるお前が残して行った自画像だけが老いさらばえてるって。
——話つくるな。ワイルドなんて興味ないだろ?
——逢った?
嘉鳥はテーブルの上の私のグラスに乾杯して、そういった。
——あの人?
——波乎。
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