多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説70
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
日本人の方がかわいいよ、とタオ。そして私を見て彼女は笑った。
ベトナムの航空会社だった。飛行機の中に、何人かの自然にふるまうアテンドの中に、獸の檻の中の兎じみた顏をして日本人のアテンドがひとりだけいた。なぜいるのかは知らない。その必要性もわからない。あるいは差別と閉鎖主義と自己憐憫と源氏のひらがな文も読めない国粋文化主義の日本人は、日本人の手が添えてやらなければ小便もできない下等な家畜にすぎないのだろう。一通りの通常の機内説明のあとで日本人アテンドが日本語でもう一度説明した。彼女は云った、當機には日本人アテンダントがございます、日本人のお客様、おこまりでしたら日本人にお声かえ下さいませ、云々。そのうち彼等は地上に滅びるだろう。
其の時に、わたしはいつになく機内に日本人が多いということに気付いた。他にはもちろんベトナムの、そして目立った少数者としてなぜかインド系の堀の深い、中華系アジアでも無ければヨーロッパでも、ましてアフリカでもない固有の種の顏。
タオはすでに日本人の多さに気付いていたようだった。わたしのとなりでいつになく小さくなって、そして緊張し、そして顏を引き攣らせて、自分で自分にその事実を否定していた。
いずれにせよ、複雑な警戒状態に、彼女はいた。
飛び立つ飛行機の窓に蘭は窓の外の、小さな光の点在としてのダナン市を眺めて飽きなかった。
上昇する機内に、いきなりタオが背をのけぞらせ自分の耳を指で塞いだ。
蘭を小突いて早口にささやき、蘭の手をとって彼女にそうさせた。
其の時には、タオのすくなくとも身体が彼女の憧れの日本を拒絶して倦まないことに気付いていたので、わたしは彼女がなにも聞こえないように耳を塞ぐのだと思った。なら、蘭にもそれをさせた事実は、理解不能な異物だった。故、わたしは訝し気な顔をしていたに違いなかった。
省みたタオが上目で行った。
「綺夜宇も、こうしたほうが、いいよ」
一句づつ切る彼女固有の言い方で。
「耳、痛く、ならない、よ」
鼻水を鼻の奥に咬みながら話すような甘え聲。
わたしは聲を立てて笑った。
いつか眠った。
眠りの中に夢を見たに違いなかった。
私は海の中に浮かんでいた。
だから見えるのは靑空で在るべきだった。
目に前にはどこまでも広がり、どこまでも靑くすき取った海水のゆららぎあった。
由良らぐ水の綺羅らぎの散乱にわたしはさかさまにわたしが浮かんでいるのなら、その背後には剥き出しの背と尻が曝されているにちがいなく想われた。
わたしにはそれが不安だった。或は飛ぶ鳥が鋭い嘴でついばみ血まみれにしてしまうかもしれない。すでに、してしまったかもしれない。
或は彪が。翼の生えた彪が今、果ても無い海上に休む場所をさがしてわたしの血まみれの尻に足をつけるかもしれない。一点にかかるそのはばたく巨体の全体重がわたしを彼ごと沈めて仕舞うに違いない。すでに、しずんでしまったのか?
そして見ていたに違いなかった。省みることもできない上空の高みに不均衡にひらいた二つの眼が、ひとつは煌めき、燃え上がりながら、ひとつは色あせて干からびながら、その笑うしかない悲劇の一部始終を。今も見続けていたに違いなかった。
わたしはそれが皮膚を掻きむしるようにも恥ずかしかった。
眼を開くと二つの光の線が斜めに停滞していた。
かがやく。
その時に、その光以外には暗闇であることを知った。
つぎの瞬間に、醒めた眼が今、遮光板の閉じられた機内の暗闇を見ていたのを知った。
もののかたちが、色を伴って暗く眼差しに見とめられていた。
朝に違いなかった。いくつか、ほんのすこしだけ開かれた遮光板の投げた光が鮮明なまばゆさを、ほそく、そこにさらしているのだった。
わたしは瞬いた。
傍らに姉妹はそれぞれ反対を向いて寝ていた。窓際の蘭は窓の方を、傍らのタオは私の方を向いて、その一瞬に私がタオに感じたいじらしさはなぜなのだろう?いずれにせよ無防備で、そして空港に着いたら彼女は化粧直しに追われるに違いなかった。
わたしは彼女たちのとじられた瞼の正面に、遮光板に手をのばした。指先に、それがふれた。
その時、すでにわたしは開いた向こうに燃え上がっている空の紅蓮の焰が見えるに違いないことを知っていた。オレンジと更に白みががったむらさきさえもが瞬時瞬時にはためく。
灼熱の?…狂気、と。
それが気ちがいの妄想で、まさに私がそれにふれていることに気付いていた。
わたしは遮光版を薄くあげた。
その瞬間、わたしは目を閉じていた。
まぶたに直射する光が、温かみも無い儘に温度を伝えた。
顯らかに朝だった。空は靑く、ひたすらに、絶望的なまでに靑く、下に雲のすさまじい奔流の、あくまでもかたち崩れない静寂を思った。
わたしはシートに持たれた。
眼を開き、コーヒーかお茶かをチョイスさせようとするアテンダントに対応し、二人を起こした。朝ご飯はなに?
飛行機、の?
日本食、アジア風の食べ物、撰べる…どっち?
それ、日本語で、何て言う?
機内食?
きないそく…
タオは二度口の中で繰り返し、そしてベトナム人のアテンドにベトナム語で尋ね、姉妹の分としてアジア風のものを選んだ。
軈て機体が地上を踏んだ一瞬に、タオは私の膝をつかみ、返り見もせずに行った、…綺夜宇、…と、ただ前の方を見た儘、覗き込むようにして、そのくせ眼以外のかんかくのすべてで日本を感じとろうとしながら、——来たよ。
タオはささやく。
——日本、来たよ。
タオはあきらかに、心の底まで歓喜に染まった。
羽田だった。
到着ロビーを入国審査に歩きながらタオは顏を靑醒めさせ、トイレを探した。
長い間そとでわたしたちは待ち、一度出て来たタオはわたしたちの顏を見るまえにすぐさま踵を返した。ふたたび日本人の女とぶつかりそうになりながら個室に駈けた。
踵を返す一瞬に、目を剝いたタオの眼差しの焦点のない色がわたしの眼には残っていた。
ややあってタオはうつむき、はじらいながら出て来た。
——体調悪いの?
——悪くないよ。
その手をとると明らかに冷たかった。
——風邪?
——かな?
——熱は?
——ないよ。
入国審査は別々だったので、タオたちの外国人口の前で待った。
出てすぐの階段の近く、手摺にもたれて一階下のロビーを見た。日本人たちの声が聞こえた。なにもかもが日本だった。床タイルを剝したスラグの鉄骨にへばりついた鼠の糞尿さえ日本だったに違いない。わたしはすでに倦んだ。荷物を先に、取りに行った。
ややあって蘭が先に出た。
蘭は私を見て一瞬、笑った。すぐさまに彼女は失語症に戻った。その顏の色さえも。
おくれてタオは右手の隅から出てきて、そしてわたしの前を素通りしかかった。私が聲を掛けると、——いたの!
タオが派手な、媚の過剰な聲を立てた。
——待ってた。…荷物も、先に…
そして
——いたんだね!
わたしはかける言葉もなかった。輕い興奮状態のタオに笑んだ。
——そこに、ね。いたんだ、ね!
蘭は一階下のフロアを覗き見るばかりだった。
階段をおりた。タオが欲しがったJRの外国人パスカードを取りにいかなければならなかった。そのロビーをそれとなく眼差しがさがす背後に、タオの声がした。
——綺夜宇さん…
みみもとでささやいたように。
振り返った。
ややはなれてタオがひとり立ち止まり、ただひとり身をわずかに痙攣させていた。
わたしを見ている目が、顯らかにわたしをみてはいなかった。
傍らに蘭が鼻をすすった。
その音を耳が聴いたことに気付いた。
——だめだよ、綺夜宇さん…
タオのなにも見ない眼がただ純粋に怯えていた。
タオが口をおおきく、あの形に広げた。
こまかな痙攣以外にもとから動きの無かった身体が、はっきりと動きやめて見得た。
恠しんだ。
わたしは、タオが失禁したのに気づいた。
ワンピースの下の素足の太ももにその液体は妨げるものなくしたたった。
タオの失禁がすべて終わった時、傍らに寄りわたしは云った。
——どうした?
——わたし?
——大丈夫?
——何した?わたし?
——大丈夫、…
——これ、なに?
——なに?
——日本語で、なに?
——もらした…
——もらした…
タオの唇が復唱しかけた時、私は彼女の手を引いて立ち去った。タオは床の上に小便のたまりを残した。わたしの知った事ではなかった。
トイレに連れていき、タオはわたしへの羞じらいで目を泳がせながら、遂に言い訳の言葉も思いつけない儘唇を動かした。鞄を以て彼女はトイレに入った。
蘭はなにも云わなかった。
蘭はトイレの入り口の近く壁にぴったりと背をつけて、そして私を見ていた。
トイレに入る女のほとんどが、それぞれにわたしに眼差しを送った。媚びた、羞じた、それら。家畜じみて自虐的な。
長い、一番ながい時間があって、タオは出て来た。
其の時にはすでに、彼女の唇は痙攣をやめることができなかった。
——風邪ひいたんだよ。
タオは云った。
——病気になった、ね。空港、ひと、いっぱいだから、ね。
ささやく。
——日本、うれしいのに、病気に、なった、ね。
私は何も答えずに、ただ彼女の爲にだけ笑んだ。
すでにわたしは彼女を、ただ、いつくしんでいた。
成田エクスプレスに乘る前にふたたびトイレに入った。
唇の痙攣が已まなかった。
吐いているに違いなかった。
車両に乗る前、タオが私を呼び止めて云った。
——もう大丈夫だよ。
——なに?
——もう、もらしたしないよ。
——もらした?
——さっき、ぜんぶ出た。
言って、無理やりタオは笑った。
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