多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説68
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
文書7(片岡文書)
片岡比羽犁から北村恒忠氏宛て。メールに添付。
2019.12.21.メール
(本文)
お疲れ様です。
お問い合わせいただいている香香美淸雅の件、これはわたしからの報告書のようなものです。
もっとも、期待に添うようなものではありません。
それでもということなら、これしかわたしの知る事はありません。
内容に関しては読んでいただければ、おわかりいただけるかと思います。
ご確認ください。
以上。
(ファイル)
2019.09.15.
15日、深夜にマンションの呼び出しベルがなった。
時刻は0時を過ぎている。(ですから、これは感覚的には14日の更けた深夜、ということなのですが…)たしか30分くらい。
みなさんの言い方をそのまま使えば鐵の貞操帶の女ですから、この時間帶に普通来客はない。
又、酔っぱらった友達が止まらせてもらいに来たのかと思った。
ですから、Lineにメッセージが入っていないかどうか確認したのを覚えている。
ベルが鳴ってから、しばらく時間が立ってしまったのに、もう一度鳴らされることはなかった。
或は呼び出し間違いかと思った。
放っておいては気持ちがわるく思えたので、ドア・スコープから確認する。
香香美淸雅氏だった。
香香美氏から帰国の連絡も、帰国予定の正確な日取りもいただいていなかった爲、驚く。
ドアを開けた時、チェーンを掛けているのをわすれてドアをかなり大きく響かせてしまったほどである。
見ると、ドアの前の香香美氏は荷物らしい荷物も無く、(たぶん本来は)薄紫色のシャツに黒いスラックを履ている。いつもと違いネクタイはない。ベストもである。それがまず不穏だった。
次に髪の毛も服も雨にびしょびしょに濡れていて(その日雨が降った記憶はない。また、外に雨は降って居なかった。)したたって床が濡れているほどだった。
香香美氏は笑って「久しぶりだね」と謂った。
わたしには様々な疑問ばかりがわいてきて、とても普通に挨拶することも、何からか順序だてて問いただすこともできなかった。
わたしが沈黙している爲、香香美氏は云った。
「入っていい?」
香香美氏は私の答えをすでに知っていたので、答えもしない私の横を通って上がった。
わたしは鍵とチェーンを掛けた。
ゆかに濡れた足跡が点々と附いた。
LDKにまで來た。
わたしは其の時に彼が、ベトナムかどこかから海を泳いで渡ってきたかの錯覚にとらわれた。思わず笑ってしまった。
何故、わたしが笑ってしまったのかわからない。香香美氏は滑稽ではなった。むしろ雨に濡れ、いたわしくさえわたしは思っていた。
わたしは自分が滑稽だった。あまりにも心と体とがバラバラだったからである。
香香美氏は振り返った。
その時に彼の体臭が強烈に匂った気がしたのを覚えている。(いい匂いです。芳香というのでしょうか。百合の匂いに動物的な媚薬を混ぜてココナッツオイルを塗りたくった樣な匂いです。)
香香美氏は私がわらい転げるのを咎めなかった。
微笑んで謂った。
「服、ぬいでいい?」
「脱がなきゃ…風邪ひいちゃう」
「どこに脱ぐ?」
「どこでも…シャワー浴びてきなよ。髪の中までぬれてるじゃん」
わたしは思いだしてバスタオルを取りに走った。もう笑ってはいませんでした。返ってくると、そこに香香美氏はいなかった。
勝手に出て云って仕舞ったに違いないと思った。
ですから、わたしは外に飛び出す。
誰も居ませんでした。エレベーターまでは距離があった。まずベランダから外を確認しようかと思った。
ふたたび室内に戻った時、バスにシャワーの音が響いているのに気づいた。
正直言ってわたしはほっとた。
脱衣所にはいって、摺りガラスのむこうには聲をかけずに洗濯機の上にタオルをたたんでおいた。その前に床に投げ脱いであった服を、洗濯機に入れた。
ポケットの中にはいくらかの小銭が入っているだけだった。
わたしはそれをLDKのテーブルの上に置いた。
LDKのソファに座って、わたしは彼に何から聞こうかと迷っていた。
そのくせ、シャワーの音に耳を澄ましていたのを記憶している。
シャワーの音が止まって、時間があった。不審になるくらいに長かった。
出て来た時、彼が髪をふいていたに違いないことに気付いた。
前より長くなっていた。肩にかかるくらい。前は、たぶん二十代のころの写真で見られたはずですが、「徒刑囚のような」坊主あたまだった。
わたしは彼が日本を離れた後に、髪の手入れもできないくらいに苦労しているのだと思った。
髪はまだ濡れていた。香香美氏は腰にバスタオルを巻いていた。わたしが着替えを出してあげなかったせいだった。
わたしは香香美氏に謂った。「髪、乾かしたら?」と。
「タオルある?」
「待って」と、私は言って香香美氏をソファに座らせて、ベッドルームにドライヤーを取りに行った。
帰ってくると、香香美氏はソファにもたれこんで眼を閉じていた。安らかに見えた。やっと落ち着ける所に返ってこれたのだと、わたしは安心した。
香香美氏は目を開けずに言った。
「ひとり?」
「わたし?」
「まだ?」
「駄目?」
ドライヤーを刺して、香香美氏の髪を乾かしてあげた。タオルで本当にしっかり拭いたのか疑われたほど、彼の髮は濡れていた。彼は、あれから十年近い時間が流れたにも拘わらず、あの頃に変わらず綺麗だった。
自分だけが年を取った気がした。
髪を乾かすうちに、白髪の何本かがあったのに気づいた。嘆かわしく思った。
「変わらないね。」と私は云った。
「僕?」
「変わらない。…わたしだけ。更けたでしょ?」
「ちょっとだけおとなになった」
「それ、同じ意味」
「僕も変わったよ。」
「嘘」
「変わりようもない。筈なのに、やっぱり變ってくね。…どうしてだろう?見る風景だけがどんどん変わってくんだ」
わたしは手を止めて香香美氏の前に膝間付いて座った。彼の顔を見ながら話す必要を感じたからである。
「ね?聞いていい?なんで、日本に返ってきたの?」
「理由?必要?…一応、母国だぜ」
「もう二度と帰ってこないと思った。」
「会えないって?」
「日本ではもう会えないって。まして、東京で…同じ部屋で…」
「どこかの監獄か精神病院かでも?」
「例えばモロッコ。例えばヒマラヤの雪の中。例えば、」
「そんなにロマンティックじゃないよ。」
香香美氏は目を開けた。このときには完全にリラックスしていたように思う。
ふと、彼がひとりで戻ってきたのではなかった筈であることに気付いた。
「女の子たちは?」
「女の子?」
「ベトナムの…」
「蘭?」
「…だっけ?」
「あの子たちは、」
「いるんでしょ?いっしょ?」
「いるね…」
「どこ?待ってるの?」
「ホテルじゃない?」
「置きっぱなし?無責任じゃない?不安そう…外国で」
「関係ない」
「なくないよ。…自分でいちいち連れて来たんじゃない?」
「関係できない…彼女たちには彼女たちの物語がある。かならずしもそれは俺のものじゃない。部分的に一致はして居る。でも、常に、あやうくずれて、ずれて、結局は別なんだ」
「さびいしいの?」
「彼女?」
「キヨ。孤独なの?」
「それはお前でしょ?…違う?淋しくなかった?」
「別に」
「嘘」
「本当に」
「男もつくらずに?…俺も、あなたを、」
「捨てたのに?」
此の時、わたしは思わず笑って仕舞った。此の会話の始終、私には嫉妬の感情はなかった。連れ相いらしい女の子たちにかんしてもである。であるからと言って、どんな感情があったのかは自分でも謂いかねる。感情がうまくまとまらない儘、そのくせに混乱もないのである。
If I were a swan, I'd be gone
If I were a train, I'd be late
And if I were a good man, I'd talk with you more often than I do
If I were asleep, I could dream
If I were afraid, I could hide
ふいに彼はそう歌った。
わたしはその意味を測りかねた。
わたしは云った。
「淋しくはない」
「どうして?」
「淋しいけど、淋しいとも言えない」
「なにそれ?」
「キヨを思ってるから」
「だから不幸なんじゃない?」
「不幸って、それは、他人が自分を基準にして誰かを計って言うだけのものよ。不幸ってなに?わたしには不幸も幸せも無い」
「何もないって?」
「反対。いっぱい、想いがあり過ぎるから不幸でも幸せでもない…そんなものじゃない」
香香美氏は一瞬沈黙した。
わたしは云った。
「今日は、平和みたいね(是はわたしと香香美氏の間のいわばスラングである。精神状態を量る言い方である)」
「平和…かね?どこにも地雷は吹っ飛ばない…」
「あっちではどう?」
「心配だった?」
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