多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説60
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
——波乎も云ってた…お前に会うんだろって。
——なんて言ってた?
——波乎?…たまにはかえって来いと。
——彼が自分で来ればいい。
——どうやって?
穗埜果は邪気も無く笑う
——また、パスポート偽造して?
ノックがして、その音に玖珠本はすこしの驚きを、眉にだけ見せた。
——だれ?
——紹介する。
わたしは云った。
ドアを開けると、いつものようにタオが媚びた笑みを浮かべた。
——入って。
東の窓の一瞬の逆光に暗んだ目がなれると、ベッドの上に存在するその美しい異国人にタオは身を凍らせた。
穗埜果はにこりもしなかった。
かれは只異国の女二人を見た。
——タオさん、日本語敎師。よくしてくれる。…蘭。彼女の妹。
わたしは寧ろタオの引き攣った眼差しを見ながら、穗埜果の爲に紹介するのだった。
何故?と。
思った、何故タオはことさらにも眼差しを凍り付かせたのか。
あるいは玖珠本のしばしの沈黙はタオの無言の眼の顯らかな不穏のせいだったに違いない。
おぼえてゐた おののきも 顫へも
あれは見知らないものたちだ……
夕ぐれごとに かがやいた方から吹いて來て
あれはもう たたまれて 心にかかつてゐる
一瞬、そんな古い詩を思う。なぜ?
知らない。
私の横から斜めに見下ろした傾斜する眼差しに、タオの眼は勝手に霑み、そして黑目がかすかにだけ泳ぎかけ、泳ぎ得ない儘泳ぎかけ、軈て、遂に彼女が瞬くのを見た。
——どうしたの?…と。
わたしがささやきかけ、タオは口走った、…はじめまして、と、其の時にはすでに彼女はバスルームに走り込んでいた。
蘭は自由だった。
その時も。
すでにひとりでたちつくす姉の傍らをすぎて穗埜果の傍ら、背を向けて腰を下ろす。
わたしを見ていた。
バスルームに走る不穏な女の、いかにも不穏な後ろ姿を見送った後の須臾の沈黙に、穗埜果は堰をくずしたように笑う。
云う。
わたしに。
——なに?あれ。
私は玖珠本の爲にだけ笑んだ。
——知らない。
玖珠本は云った。
——この子も、日本語出来るの?
——蘭?
出来る、とも、できないとも言いかねて、だから、わたしは笑いながら答える
——関係ないよ。…この子は…失語症…預かるんだよ。日中、いつも。あとで、そのうち話す。気にしなくていい。関係ない…
耳に、わたしはバスルームの向こうにタオの嘔吐する聲を聞いていた。
あるいは穗埜果も聞いていたか知れない事だった。
わたしたちには、終にかかわりの事でしかなかった。
そして軈ては淚目にうつむきながら出、わたしを垣間見、そのまま壁の影伝いに部屋を出たタオをわたしは目の端に見る。
タオがいなくなった後穗埜果は私がその傍らに横たわるのを見る。
掩ように肘をつき、そして頬を撫ぜた。
——ちょっと、更けたね。
——ちょっと?
——すこし。
——老いさらばえたね。
穗埜果が笑う。
——お前は老いさらばえない…なんでだろ?そのうち俺の方が老け込むかもしれない…俺の方が…何年?…いくつだろう?…年下なのに…いまで、俺はお前に追いついた気がする。
——十歳…違う…十五歳くらい?…覚えてる。…桜の木の下で、お前は本当にまだただの子どもだった。
——知ってる。たぶん、つぎにあった時は俺の方が年上になってるよ。
——まさか。
——本当。
——波乎みたいに?
わたしは言って、笑った。
穗埜果の指先が私の鼻筋を這った。
——あれは特別。別の生き物。…化け物だから。
——でもさ、別の生き物だったら、それ化け物じゃないんだよ。例えば、鬼って化け物でしょ?でも、なら、鬼は人なんだよね。
——なんで?
——人にとって犬は犬でしょ。別の生き物。化け物じゃない。四本足でもあたりまえ。それと同じ。
——彼女は不孝だよ。
——不幸?
——波乎ほど不幸な生き物をしらない。美しく、そして不幸な。考えてみな。例えば或る種の中でもっとも美しいものがいる。それがやがてはその種の滅びを見なければならない。彼等が凢て滅び、たった一人になった時に、彼女の美しさはだれの爲にあるのだろう?それでもなお、滅び、記憶さえほろびさせたものの最上の美しさをもって存在する事、それは不幸だろう?
蘭が聲を立てて笑う。
思い出したように、そしてだから私たちは蘭を省みる。
それぞれに身をよじって。
蘭は首を曲げて私たちを見、ただ笑う。
いきなり立ち上がって、彼女はバスルームに消えた。すぐさまに水をながす音が聞こえた。だから気付く。慥かにタオは自分の吐瀉物をながすことを忘れていた。
私はそれを、今あらためて思いだす様に、始めて気付く。
蘭は窓際に立って、そして東の海を見た。
逆光のあわい後ろ姿の翳りに、穗埜果がわたしの耳へささやく。
——あのこ、おかしいの?
——なに?
——あたま。
——そ。
穗埜果の指が私の胸を探った。
ゆびさきの温度、そして触感の、脳にのこした形態の痕跡として。
部屋に舞う薄い疎らの塵が、よこなぐりの光に綺羅らぐ。
——笑うよね?
私はささやく。
——頭おかしいのが、頭おかしいのの世話見てやってるの。
——あの子とお前は違うじゃない?
——そう?
——あの子は可哀想な子。お前はただの狂人。
云って、穗埜果がかるく耳たぶを咬んだ。
わたしが彼を抱いたのは、彼の十九歳の三月、あの一度だけだった。
筋肉と、かすかな贅肉の温度の上にシルクを何枚も重ねて、瑞々しい蜜をしたたらせたかの穗埜果の肉体に溺れ乍らわたしは彼に屈辱を感じた。
明らかに。
久村にも、椋尾にも、安河にも、嘉鳥にも、あるいは尾埜にも。
終には感じない明らかな屈辱だった。
玖珠本の前で彼等は穢れ、そして玖珠本の肉体さえもが、その肉体の前で穢れた。
——もう、二度としない。
わたしは云った。
穗埜果は云った。
——迯げるの?
——遁げる?
——違う?
ベッドに身をもたげた彼に膝間つくように、その膝に頬を埋め、顏を上げたその時わたしは穗埜果が詰る色に私を咎める見ているものとばかり思っていた。
穗埜果はただ聲もなく笑んでいた。
ふたたびにその角度の穗埜果に見蕩れかけた時に、彼はひとりで彼の沈黙を殺した。
——敎るだけ敎えて、迯げる?
わたしはその聲を聞く。
——奪うだけ奪って、弃てる?
目に既に悪戯らじみた色を仄めかせ
——賴んでもいないのに
わたしの額に指先をふれ
——引きずり込んでおいて、それからひとりで
指の纔かの上に口づける。
——放置する。
身を曲げて。
——残酷な人じゃない?
笑う。
——違う?
穗埜果はひとりでわらい、そしてそこに屈託はない。屈辱も。軽蔑も。賢しさも。なにも。
慥かに私は彼に初めての男だった。そして本来彼が同性を愛する趣向のなかったことも知っていた。
——俺をもう愛さないの?
穗埜果はささやく。
——自分が、愛さずにいられないのを、知ってるのに?
——二度と抱かない。
私は云った。
——お前を穢したくないから。
——穢れ?
——精神。…それだけ。ただそれだけがあるべきだった。俺たちはたぶん、生き物を超えた。已に。肉体?そんなもの…だから、もう二度とお前を抱かない。
わたしは目を閉じ、唇に穂乃果のそれが触れるのを待った。
するとおまへらは 林檎の白い花が咲き
ちひさい綠の實を結び それが快い速さで赤く熟れるのを
短い間に 眠りながら 見たりするであらう
窓を見詰める蘭が其の時に声を立てて笑う。
窓の見せる晴れ間にいきなり降出した雨に笑ったのだ。
おそらくは。
不思議に思った。雨粒の被膜の向こう、空も海もなにもかも晴れ上がっていた。
次第に窓の向こうを、上の方から白濁が覆い、やがて雨する雲が遠くまで覆った。
目を凝らせばその向こうに晴れた日の沙と海の輝きが未だ見える違いなく、わたしは思った。
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