多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説61
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
蘭の翳りの向こうの白濁に。
穗埜果がわたしを見つめていることは知っていた。
——革命の件…と。思わずささやいた私の聲を穗埜果は聞いた。
——テロ?
——あの件、比呂はどうおもってるんだろう?
——波乎?
——浩然。
——気にしてないよ。…どうせ。王が死んでも涙一つこぼさなかった。嘉鳥が波波伯部を制裁した時も…。
——そう?
——假に人が何人死んでも、何億人死んでも、政治形態がおどろくべき変容を遂げ、すべての王が殺されすべての議事堂が燒けくずれ、或はどれだけ大地が汚れたところで。
例えば放射能に塗れた焦土の上であってさえ淚ひとつこぼさない…
——絶望してるのかな?
——絶望?
——どう思う?
——絶望してるのは、お前じゃない?
——俺?
——違う?
——なんで?
——お前は絶望してるよ。
——かならずしも何を期待するでも何を希望するでも無かった。期待と希望がハレーション起こした末にしか絶望なんてない。信賴してもいないデウス・エクス・マキナdeus ex māchināに我が子の蘇生を願う母親が見いだすもの、そんなくだらない風景が所詮絶望の總てに過ぎない。
——嘘。
——嘘?
——そんなものじゃない絶望をお前は見たよ。已に。例えば六月の雨の中の紫陽花にお前は絶望しただろう?その美しさに。お前は俺を見て絶望した。俺の餘の美しさに。俺がお前に絶望したように。お前は波乎にも絶望した。自分自身にも。
——そんなに俺を絶望させたい?
——お前はあたらしい王になる。
——それはお前の、…
——俺たちは天皇を殺す。もちろん首相もなにもかにも。国家國體を亡ぼす。ラッキーだった。たまたま日本人で。今、現存するいちばん古い王統だからね。別に彼等に恨みはない。恨むなら俺たちが日本に生まれたことを恨んでもらうしかない。長い王統は途絶え、そして唐突にお前が王になる。
——お前の妄想。
——妄想じゃない。或はすでに現実だから。お前にはもはや関係できない。俺たちはお前を已に王にした。王は狂気している。その王を、だからお前の爲に殺してしまうだろう。お前の安らぎの爲に。王は永遠になる。王は狂人にほかならない。且つ、王は今安らぐ。…
——なぜ?
——なぜ?
——なぜ、そんな妄想を思ったの?
——昔から…いつか、夏。…あの、海、白浜の、あそこでお前が狂気した時に、口走った時に、…自分の事を阿輸迦王、と。…その時。いつかも。狂気したときの、いつもの。
——いつ…?
——覚えてないんだよ。そのとき、思った。王は狂気の人でなければならない。なぜなら、狂気の人は既に王なのだから。…妄想?そうかな。…違う。妄想じゃない。
——なに?
——愛だよ。たぶん。お前への。
云って、穗埜果はひとりで笑った。
——そうじゃない?結局はすべて愛にしか基づき得なかった。所詮は…
——愛?
——そう。それだけ。破壊すら殲滅すらなにすら。所詮は。すべては愛に…
あなたの爲に言っておくなら、わたしたちはその日、いつもと同じように肉体をは交えなかった。僕たちに既に肉体など滅びていたから。ぼくたちに肉体など脱ぎ捨てられた蛇の殻にも如かなかったから。
あるいは、その事実があなたをむしろ嫉妬させるかもしれない。
なぜならいまでも、思うに、私の肉体にも溺れているから。
遠く離れた不在の肉体にさえも。
わたしたちは一日中部屋のなかにゐて、そして雨の音を聞いた。
軈てノックの音がした。
いつもより遅かった。
その事実は、その音のいつにない微弱音が耳にふれた時に思い出された。
時に、既に、私は彼女が…タオが、いまだれよりも傷ついていることを思い出した。正確に言えば、思い出すに同じく、はじめて気づいた。
わたしがドアを開けようと身を起こす前に窓辺に蘭の横顔を見ていた無言の玖珠本が身を翻して、そしてドアを開けた。
タオが其の時に一瞬の上目に驚愕の色を浮かべたのには気づいた。
見えもしなかった。
見得ているよりもあざやかに私は知った。
——気になる事があるんだ。
そう玖珠本は云ったのだった。
わたしの耳元に。
沈黙の、しかも眼差しの中の不在の一瞬に、穗埜果は顯らかにわたしにそういったのだった。
玖珠本は手首をつかんだ無抵抗のタオを投げつけるように室内に入れた。
タオはうつむき、そして彼女が歯噛みしたのが聞こえた。傍らに立って穗埜果がささやく。
——なに?
穗埜果はひたすらにやさしく、あまりにやさしすぎて耳にさえふれないほどにもやさしく、そして云った。
——どうした?
逃げ出そうとした一瞬があった。
タオに。
穗埜果が抱きとめる前にタオは須臾のけぞって、その刹那目が剝かれたのを見た。
髪が空中に、雨の日のやわらかな冷たい光の中に踊った。
久の字に身を曲げて、立ったままタオはその場に吐いた。
透明な液体、そして胃液を。
手に口を掩うそぶりさえせずに。
振り向き見た蘭は表情をだに変えずに見ていた。
きちがいだよ、よ。
蘭が口の中でささやいたのが聞こえた。
頭の中に。
素手で。
タオは一度身を痙攣させ、倒れるように壁に背を打ち付けた。
彼女の周圍でだけ重力は水平にかかっていた。
私は笑んだ。
一切の邪気も無く。軽蔑も慈愛も含まずに。
タオの爲だけに。
軈て、タオはこのように語った。
だから、わたしたちはこのように聞いた。
タオはその時に21歳だった。
日本に留学して半年程度、アルバイトで派遣会社に登録した。
兵庫の車等のパーツ製造の工場に勤務した。
工場の人はみんなやさしかった。
そのころベトナム人は少なかったみんなやさしかった。
タオはそういった。
勤務して二週間目くらいに、工場が生産ラインをすべて一度停止するという事件があった。
結果的にはたった一日の全休止にすぎない。
製造設備の不具合があって、リコールがかかったと、と。
だからパーツ製造も一時休止すると。
連絡網に手落ちがあったに違いなかった。
タオの耳にその日休業する知らせは入らなかった。
タオは遅番の夜の7時前に出勤した。
人氣もなく昏い工場に怯え、あやしみながらそれでも事務室のガラスに照明がともっているのを見た。
不意に背後に呼び止められた。
三十過ぎの、若く、背の髙い管理者だった。
主任、と彼は工場でよばれた。日本人だった。
主任は云った。今日は休みだ、と。
どうしたの?なんできたの?
知らなかった、と云っても主任は信じてくれなかった、といった。
その経緯のこまかな部分はわからない。
いずれにせよ主任はもう一人いた同僚を呼んだ。
管理人室に連れていかれた。
ふたりだけ残っていて、明日の作業日程を打ち合わせていたようだった。
自分を眼の前に、聞き取れない日本語で彼等は時に笑いかけ合いながら話し込んだ。
立った侭タオはそれを見ていた。
それなりの、二十分程度の時間がたった。
主任の呼んだその同僚のほうがタオに近づいて、そして体にさわった。
主任を見た。
彼は同僚に笑いかけていた。
同僚の手附きは次第にぶしつけさを増した。
軈て抱きしめられて、体の匂いを嗅がれた。
笑い聲が響いた。
そしてもはや理解できなくなった外国語と。
後ろ向きにされ、そして同僚のそれが侵入するの感じた。
恐怖は感じなかった。
嫌惡感も。
頭の中に白い光がさす感覚だけがあった。
不快さえ感じず、いたみさえ感じない自分を寧ろ恐れた。
次に主任に服を脱ぐように云われた。
恥ずかしい、と。
タオは媚びた笑みを浮かべながら自分の口が受け答えするのを聞いた。
ややあって、笑い声の中に素肌をさらすと、壁に手をつかされてタオは受け入れた。
終わると、早く帰れと主任が云った。
明日遅刻しないようにも諫められた。
タオは服の一部と肌の体液の汚れを気にしながらも服を着て外に出た。
工場を出て廣いだけの大通りをしばらくあるき、角を曲がったところのバス停に出た。
バスを待った。
工場の周囲に、徒歩十分圏内、それ以外に殆ど建物施設はないので、バスはすいていた。
中には二組しかいなかった。
駅が近くなって、閑散としたなかにも町が現れる。
駅に降りる。
時間が十時前だったので人は殆どいない。
電車の中に入った。
車両に疎らに十人ばかりひとが座っていた。
他人がいる、と、はじめてタオは認識した。
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