多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説23
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
振り向き、それを確認した瞬間にはタオは蘭を殴っていた。拳で。
蘭の足が具材を(——レタスを)踏んだ。
その触感を思った(彼女は、…そしてタオも)。
だれにも気づかれもしなかっただろう(その触感は)。
蘭は抗わなかった。
泣くでもなく。
タオを正面に見た(パンを兩手につかんだままに)。掃除しろ、と。
タンは命じた(ベトナム語で)。蘭は一瞬理解できなかったのだった(言語障害ではない。
ざわめく心がそれどころではなかったのだ。冷淡な表情のむこうで)階下の植栽に咲いた桃色に黄色の花を思った(わたしは。誰も…タオも、蘭も、それを思いはしないのだった)。
軈てタオはわたしにしがみつくように、そしてベッドの上で(皮膚の触感。
覆いつくす、人の河皮、温度、その向こうの贅肉と骨格)撫であげられたタオの髪の毛が私の手のひらに触感をのこした。
匂った。
髪も。
タオの肌も。
息の。
乃至、中を舞うちいさな、見得ない唾液の飛沫の匂い?
日が斜めにさす。
夜の更けてからタオは蘭をつれて還った。
帰り際に二日ぶりに彼女は衣類を見に纏うたのだった。ただ一度だけしかわたしに抱かれもせずに(彼女を侮辱してはいない。
タオは慥かに淸雅に愛されていたのである)。
十九日。
朝、タオは蘭を連れてきた(意外な気がした。意外でもなんでもない気もした。雪はふらず、そして日差しは木の葉の上に、軈て蛾になる毛虫をなぶった)。
タオ。
ささやく。
——(早口に、声をひそめるように、蘭にはかくしもせずに)このこ、惡いこ。
誰?
——蘭。
と。
鼻に日差し。タオの。(彼女はすでにしげられせただろう。その小腸に柔毛を)
斜めに。(彼女が二十四度も食った猪の)半分だけ。
きらめく。
何が?
あわい、あわい、あわい…ひかり。
なにが?
産毛が?
いや。…ひふそのものが。
霑いの記憶をさえ伴って。
霑れもせずに。
タオ。
ささやく。
——(上目に私を見…いつも。
あなたは俺だけを見るね?そういったタオはわらっただろうか?
振り向きざまに出も?)いうこと、ぜんぜんきかないの。
そう?
ゆらげ。
木の葉、花、足の下にさく地表のブーゲンビリア。その紫の花(——即ち色づいた葉)までも。
ゆらげ。風に、そして聞くのだった。
タオは。
わたしの聲を。故に。
タオ。
ささやく。
——(まばたき、)しかって。
俺?と、わたしは云った。
タオの爲だけに笑み乍ら。
——俺?
——しかって。
——なんで?
——惡い子。いうこときかなくて、
——なにしたの
——惡いの。…と。
タオは謂って、そして私の見つめる眼差しに、その一瞬に笑んだ。ささやく「じゃ、行ってくるね」
わるいことしたら、お尻たたいてね。
「行ってくるね」
タオがささやく。
蘭と私は見ていた。
タオがささやく。
それを。
・序ノ三
夢を見た(是は蘭を胸の上に抱いてやりながら転寝に墜ちたとも気付かずに開いた眼差しが見た夢である)…夢を。
知りたい?(あなたは知るすべもないもない。譬えもっとも正確にわたしが詞以てなぞったにしても。その香にっだにもふれずに指は、…指先は。嘗て一だに愛した百合の花の香にすらふれられなかった是は或は悲劇だったか?)
土の中から顔を引き出すと(匂う土。
土の匂うその匂いの圡に、懐かしさなど最早無かった。不愉快でさえなかった。寧ろ。
はかないさざめき。
むしろ敢えて透明な水の薰る、そんな匂いだったのだから)死んだ麗人が血まみれの儘に自分の右手を咥えていた(あの悲劇的な死。
だれが焚きつけたのだろう?私たちが二十代の半ばを終えた90年代の末に。
いまだに存在した六本木の旧防衛庁の廃墟の櫻の花を見下ろしながら。
そのビルの屋上に。
腹を切って見せる時代錯誤を曝した)。覚えてる?麗人。
赤坂の帰化中国人に踊らされたようなものだった。片足の王。まちがいなく偽名の王黃鸎。王の作らせた右翼団体で詰め腹を切らされた。——行動主義ってこんなものなの?死んだ日本人、みんな浮かばれないよ。王黃鸎は君をも誘惑しようとしたね?
——あなた、百姓の子供。わたし、中国人。でも、…ね?死ぬときは皇道の侍。天子様の侍だからね。
片足義足偽名の黃鸎は(とはいえwáng、huáng、yīng、おかしくはないのだった。於宇於宇於宇をあやしんだ、それは我々ジャップの脳内の線虫のせいだったに違いない)微笑乍ら云った(いつも絶やさないやさしい、その。わたしたちを庇護した彼の)
——死ぬなら今よ。生きる爲に死ぬのよ。あんた、死は此の國の侍の最後のイノチよ。)
と。大友麗人が右手を咥えてわたしを見ているので(周囲の腐臭は黄泉の?
まさか。
黄泉の?
本当に?)わたしは笑いながら言った(快活に…)間違えるなよ。
と。わたしは麗人の爲だけに言った。「お前が無くしたのははらわただろう?
お前、右腕も左腕も亡くしてないよ」
慥かに、左腕さえもなかった。両腕も兩足もなくて、空中に突き刺された麗人は汗のしぶきをちらしたように血の薄い紫の色を玉散らせ続けるのだった。——間違えるなよ。
私はかれの耳にささやく
——おまえがからっぽなのは、腹の中身だけだぜ。
瞬きもしない。
麗人は。何故?
眼窩などどこにも開いていないから?と。蘭の頭をなぜた。
ふいに蘭が頭をもたげたので私はその嗅ぎ取られなかった髪の毛の匂いを思った。
わたしの鼻に終に触れなかった空気は夥しくわたしの寸前でその香を含んでいたはずだった。
蘭はわたしに口づけた。
いきなりに。
だから、私は直感した。
蘭はまさに私を愛していた。
私は目を開いた(わたしは已に、蘭が死にかけているに違いないことを確信していた。それは最早免れ得ない事実だったのである)。
私は彼女の唇をだけ愛した。
心に(目を見開いたままに)彼女の肌の褐色が斜めの日差しに複雑な陰影を這わせるのを思った(それは冒瀆だったろうか?
そうではないだろう?
わたしは彼女のまぶたの震えるのをみるのだった。
それ、瞼の、まばらに濃い睫毛が。
こすれあうように。お互いに。なじるように、こすれあうように)。私は見ていた。彼女を(蘭を)つれだした山の端の平野に綠の色は茂った。
私は目を逸らさなかった。
蘭はいきなりに膝間付いた。
わたしに背を向けた儘に。
故にわたしはようやくに彼女に(蘭に)追いついたのだった。
肩を引き、返り見させた蘭は口いっぱいに紫の地に金色を這い上るように散らした蝶をおびただしく口に咀嚼していた(あなたなら叫んだはずだ)。
わたしは微笑んだ。
言葉も無くに(おそらくは愛、すくなくとも彼女を哀しみ、共感さえ(何に?)していたからだろう)。
蘭のくちから咀嚼される蝶に埀れる躰液が匂った。
二十日。
あなたはその日、同じように曇った空一面の白濁を見たのだ。瞿曇は嘆いたか?地の下で?
眞夜羽とおなじように、あなたは見上げた。
白濁を。——なぜ?
あなたは何故空を見上げた。
其の上の上空の青の一色を思ったのか?タオを抱いた。
朝、蘭を連れて来た時に。
タオは戯れの拒絶を見せながらささやく——遅刻する、と。
甘え。
故意にちいさく、噛みしめるように甘え。
五月またみどりはふかく 見よ
かなたに白き鳥のとぶあり
思う。この常夏の熱帯に?
わたしはタオの肌に触れた。皮膚が脂肪の温度を讃えた。
五月またみどりはふかく 見よ
かなたに白き鳥のとぶあり
詩人の眼に其の日、雨はよぎらなかったのか。
だから、鳥は濡れもしなかったのか。
ゆきのうちに春はきにけりうくひすの
こほれるなみた今やとくらむ
唾液の霑う温度を感じた。
わたしの唇が。
私の唇だけが。わたしは目をかすかに閉じた。タオは已に目を閉じていた。壁ぎわに、タオがその目には捕えて居なかった蘭に言うのを聞いた。見ないで、と。
私の爲に日本語で、タオは蘭に言った。
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