多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説22
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
日のひかりはそそぐ。
波はきらめく。
白濁。
ひかりの。
そして靑の暗示。
空は靑いだろう。
それが我々に何をしでかし獲るだろう?
阿南の光が周囲に瞬いた。
瞿曇は沈黙した。
ヴィンは息遣った。
まるでいまだに彼等が、まさにそこで生きるかのように(事実、我々は生きていた)淸雅は故意にヴィンに身を預けた。何人か、人の眼は私の代わりに彼等を羞じた。
うつくしい肉体を彼等の眼に曝し、そして触れ合う私たちを、淸雅とヴィンの爲に羞じたのだった。
騒音。
波が複数の音響を立てた。
遠くに魚の群れがその身をくねらせたのだった。
波にその動きは痕跡をさえのこさなかった。
地表は熱を帶ていた。
部屋にかえると蘭はひとりで、そして我々がかつてここに存在してゐたこと自体忘れていた。
わたしとヴィンは共にシャワールームで汐を流した。
十六日。
・序ノ一
眞夜羽が昨日に同じ曇る空の白濁を見上げようとしなかった時に。
姉に取り残されて窓際に立ち尽くし、——已に見慣れたろう?
もう君は…
ほてるの7階から(東向きだ。故、その午前、十時前だっただろう…空は傾斜した光を彼女の表前面をなぶるのだった。
そよとも、光はそよともその縛った髮のおくれ毛の一本だに、そよがせもせずに)見た。
蘭は。
彼女が海を見ているのは知っていた(此処になにも象徴はないのだ。
海に。
海とはすでに破棄された残存物にすぎない。
故、むしろあなたは降る雨にこそなんらかの意味をもとめるべきだったろう。尤も、ここに雨は存在しなかったのだ…
雨は。
そこにも。わたしの心の中にだにも)。
不意に振り向いて蘭は云った。
なんで?
淸雅(返り見た蘭の縛られた髪の束が派手にその肩に揺れたのを見たのだった)
なんで、來たの?
淸雅は云、——なんでって?(我々はあれから一度も、指さきだにも触れ合いはしていなかった)
なにしに、ここに來たの?
淸雅。あなたの目の前に?
なにがしたいの?
淸雅。あなたに?
どこへ、連れてくの?…と。蘭は云った。それは奇麗な発音の日本語だった。わたしは彼女がかの東の(ここからは東東北である)島に残存するそれを話していたこと自体わたしは気付かなかったのだった。
ただそれは彼女の言語だった。
言語を侮辱したに似て、彼女はみずからの言葉を話している、そう私には意識されない儘に理解されていた。(私は言った、…日本へ、行くっていったね?
蘭は応えた。
答えもせずに、ただ、頷いたのだ。
彼女の心がすでに答えていたからだ)そうです。と。
わたしがそう云ったのは事実。
あなたもしってるでしょ?(於是、私はみていた。反対側、背の向こうに陽炎のかたちが這うのを。
壁にへばりついて。
それはいまは亡き兵士の陽炎だった。
どこで死んだのか。それは知らない。彼はベトナムの、現地の人間ではない。アメリカ人なのか。乃至、韓国人?わたしには判らない。彼自身がすでに、それを記憶するというのとは別の形で、忘れない儘にわたしの向こうに日差しを見ていたからである。)なにを?——と。
わたしはささやく。
蘭は口をとざした侭だった。
そして、ようやく上目にわたしを見た(彼女は振り返ってからこのかた、じっと自分の足元に目を伏せていたのである)。
蘭がまばたく。
わたしは瞬かなかった。
彼女は逆光のなかにゐた。
逆光は彼女をくらませもしなかった。
ただ、その形を際立たせるのだった(ここに神秘はなにもないもない。
なにも。
一切。
ただ赤裸々だったのである)。
蘭は私を見詰め、そして心は凝視の中に顯らかにひたすらな沈黙のなかに存在した。その口(唇。上は薄く、あまりに薄く、故、下の唇のみが肉付いて見得る…)はあきらかに何かを言いだしかけた形を作った。
息づかうように。
その口がなにかを言いかけていることは知っている。
蘭自身さえも(彼女はあきらかに知っていた)。
言葉は發されなかった。
彼女は總て、骨ごと溶けくずれるように、そして笑ったのだった。
陽炎の散らした昏い飛沫が舞った。
壁に光は這いのぼり、舐めるようにやわらかくひかり、そして何をもみいださいままにみずからひかる。
私はただどうしようもない孤独を感じた(その孤独感が錯覚に過ぎないことはよくわかっていた)。
わたしは彼女を抱いてやった。
それ以外に蘭にしてやれることはなかったのである。
午後、夕方、眞夜羽が雲を切り裂き晴れ上がり始めた空に太陽の存在を二日ぶりに想いだした時、即ちあなたがひとり交差点で雨が降り始める事を案じもしたその瞬間にも、部屋に蘭を迎えに来たタオはそのひは歸ろうとはしなかった。
金曜日だから?慥かに彼女の明日が休日であることをわたしはそれとなくに察した。
ベッドの上、私にすがるようにじゃれついて彼女は甘え、蘭は必ずしも厭うでもなかった。壁の窓ぎわに身をしまいこむようにして立ち、東の窓に日没は見えないのだった。
夕食は三人で。ダナン市の空港の近くで。
後、蘭の寢息をたてるベッドの左側のその反対側にタオは私の素肌をその素肌に感じた。
ただ、肌をだけ彼女は求めたのだった(どうすればいい?
俺の心はただ切実に俺自身の不在を歎くのだ…)。
十七日。
朝。最初に起きたのはタオ。わたしが起きた時、肌をさらしまま私に覆いかぶさって、そして私を見詰めていた。子供をうでに抱くように。起きた蘭は姉にだけ笑いかけた。
彼女はすでに姉の心の内も知っていたのだ。わたしにはそう想えた。
蘭がシャワーをあびに入った時、わたしは(響き合え)耳に獸の声が重なった鳴り、(なぜ雨が真横にふらないのかをはだれも考えたことがなかった)それが階の下の朝のバイクのラッシュのエンジン音のつらなりにかすかな一致をみせるのを聞いていた。
タオが云った。蘭、どう?
蘭?
蘭、どう?(タオの髪の毛が匂った。わたしは彼女の肌の温度が已に存在してゐたことに、おもむろにふたたび気付いたのだった)
蘭?
いうこと聞く?
蘭?…なにも。
聞かないの?
なにも云わない。だから、なにも聞かない(タオの立てたわらい聲を聞いた)。
蘭、ね。——と。タオはささやくように云うのだった。私を見詰め(みとれさえしながら?)鼻で息遣い、唇はやわらかく開いたままで。「たぶん、岐ヤ宇さんの事が好きだよ」
そう?
「好きじゃないけどね、…けど」
なに?
「興味あるよ。好きなんだよ」
そう
「した?」
何を?
「好きになるような、好きになったらすること。そういうこと。した?」
した。
私がそう行ったとき、タオはただ眼差しを一度ゆらして、その一瞬のあとに(光はなおもふりそそいだだろう
外の風の中に飛ぶ
なすすべもない花粉のひとつぶにも)息でだけ笑った。「いつ?」
知りたい?
「知りたくない」
なら謂わない。
「そっか」
焼いた?
「そうでもない。まあまあ」私はタオを抱いた。
蘭が濡れた髪の儘で、それを私の使ったあとの濡れたバスタオルで吹き取りながら、何をいうでもなく見ていることは知っていた。タオも。氣づかないふりをするでもなく蘭は見下ろす眼差しに、私とタオを確認していた。
窓からは朝日がいつものように差し込むのだった。
その先に、海は白濁のきらめきを散乱さす。
わたしはそれをは見なかった。
タオの私たちをみる眼差しが、倦んで踵さえかえせばそこに拡がる光の散在のあることだけ、顯らかに知っていたのだった。
終わった時に、軈て目を開けたタオが云った。
蘭に、…タオル取って。
と。
投げたタオルに、タオは拭った。見られちゃったね。
そう日本語で、タオは蘭に言った。
仕方ないね。
蘭はなにも云わなかった。
蘭は口を開いた。
そして、聲なく笑った。
彼女は笑う音声すら、忘却していた。
その日タオは終に衣服を身に纏うことないままに戯れた。
部屋から出ることもなく。稀にだけベッドから立ち上がる。
蘭はわたしたちに三度の食事を買ってきた。
十八日。
眞夜羽は二日後に鳴り響く雷の音など想うことも無く、白濁のそらのしたに白濁する宮島に四方の海をみたのだった。
・序ノ二
タオが蘭を折檻した。
早朝に。
蘭がバン・ミーというホットドック風のパンのその具材を床の上に墜としたのだった。その時に。
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