多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説24
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
タオが恥じらい、困惑した微笑に充足を曝しながら立ち去ったあとで、私は窓際の蘭の後ろ姿に言った。
「話せ」
静かに、そして決然と、わたしは命じたのである(なぜ?
なぜ其の時に空はまるで恩寵のように透き通って、かつ濃く、いやがうえにも濃く、靑み涉るのか?)。「何を?」
返り見た蘭は云った。
わたしはそこに、蘭があいかわらずにみずからの顏を以てあったことに、前触れの無い動揺を感じたのだった。「言って」と。
蘭は云った。
「言って」
何を?
「何を、話してほしい?…言って」
と。
其の時に蘭の眼に零れそうなほどにたまった淚の存在に気付いたのだった。淸雅は。
ひとりで。
それ、震える雫のこまかなきらめきの綺羅羅に。
二十一日。
ヴィンが来た。
言った——心配してた(と同時に彼は蘭にかれの母国語で数語語りかけたのだった。わたしには聞こえなかった。聞き取れなかった。蘭はかれに背を向けたまま答えもせずに…できないのだ。
はなせないから。抑々、それが人の言葉で、人が言葉を話すことさえ彼女は覚えてゐたのか?
まさにその時に)。
連絡、返さないから。…と。
ヴィンはそういった(其の時に、蘭はわたしの膝の上の頭に、軽く目を閉じて安らいでいたので)。わたしは蘭の頭を撫ぜようとする。
私はヴィンだけを見詰めていた。
彼は云った。…最近、外に出てないね(是は淸雅にいったのだ。何故ならわたしはいつでも彼と共にいたからである)。
どうしたの?…と彼がいうので、「飽きたんだよ」
「飽きた?…ベトナム?…ダナン?(と慌てて彼が云った時、ヴィンはまさにわたしが此の國、…彼の辛うじて手の届く範囲から逃げ出そうと画策してゐることを案じ、そして憂い、歎き、それらの感情を自分自身さえ隠し通したのである)」
わたしは聲を立てて笑い(彼は、故にその空気の震える色合いをあびた)空に鳥が滑走した事実を、淸雅もヴィンも決して見ようとはしなかった。
皮膚の上に細菌の一つが分裂した。
覺醒のあたらしき伊能智。乃至は、ふるびたままのイ乃血の二重化(——記憶は)?
プラナリアは何を、いかに、どこに記憶したのか。
「この世界に」
ややあってヴィンは笑った。祝福を。
瞿曇よ。
王よ。
決してあなたが作らなかった世界のすべてに。
その指の触れもしなかった世界の断片の群れ共に。
王瞿曇よ、…憩え。
ヴィンはわたしを口にした。
蘭はベッドの端で目を伏せた。
焼いてる、と。
ヴィンが目配せに伝えた。
聲もなく彼は笑っていた。
光が舞っていた(いつでも…いつでも…綺羅らいで。
いつでも)。翳りがわたしの背中に休む。
血にまみれた儘、流す血をだに考慮せず。なぜ?
わたしは思う(蘭に。…蘭にだけ…蘭に)。なぜ、歎くふりをするか。
目を伏せて。
人の型をしただけのはりぼてのくせに?(ひとは已に死滅していた。それが地に生まれるはるか前に既に)
二十二日。
曇り空のしたにまで、汗ばむ君の肌を思う。その白い胸を…久村王に。
迎えに来たタオの眼がわななく(——瞼が)。何故?
手を引こうとしたその姉の手を叩き落としたのだった。さしのべられたささやかな虛空に。
私は笑んだ(なぜ?…)陽炎が壁に血を水平に伸ばした。死者ども(結局は不滅の、滅びさえし得ない死者ども)。思うにすべては私が語っているのだろう。その腐った燃える目で見開いたままの眼差しの見えたまにまに。かげろひ、翳りの目のうちに。それ、わたしは翳ろい色も無く天上に張り付いて臓器を垂らしていたのだから。
タオはもう一度手を差し伸べるのだった。蘭の鼻のさきに(暴力的に——なにも。
なにもこわれはしない。なにも。
なにも、ふれられさえしない)。蘭は見つめた。
憎みもしないで。ただ、姉を見詰めて。
蘭は見つめた。
タオの指先が蘭の鼻先に痙攣する似た一瞬の動きを曝した時に、「馬鹿!」と。
私の爲にタオは言った。蘭に。蘭がふたたびその指をはねのけたから。
タオは拳で蘭の側頭を殴った。身はくねるのだった。倒れ伏しもしなままに。
玉散る水滴の姿を幻見た(わたしは。ひとりで。むらがる翳りの燃える目のうちに)。蘭が顔をあげた。タオの掌が押しつぶすように、それを討った。
首を變なほうに曲げて、蘭は息づいた。
タオの唇がわなないた。
わたしは微笑みながら、自分の眉にゆびで触れた。
眉毛は密集した。
思い出したように腰からその場にしゃがみ込む蘭を、タオは蹴りまわし続けていた。タオの肉が他人事のようにそれぞれにそれぞれのふるえを見せて窓の向こうのその一角は空の青くらむ透明なくらさを讃えた。
鳥は見上げたのか?
電線の上で。
はらからと群がり、共にでも…それ。鳩は。
折檻の手を(息をあららげながら阿羅羅ゲ阿羅羅羅ゲ阿羅羅羅羅羅羅ゲし乍ラ)休めたときに(肩の上下。胸の。その上下。鳩尾。その。腹部、その。上下)、顏をあげた(蘭は、——ずっと、彼女は顔をあげて殴り蹴るタオを見詰めていたのだった)。
目をとじもせずに?
手のひらに咬みついた眼球を私は指にはじき落とした。
蘭は口を広げた。
タオがくちを開いた。——何よ!と。おそらくそれに類する言葉を彼女はベトナム語で行ったのだった(判らない。わたしは彼女たちの言語を解さないから。故にこれは嘘偽りなく書きながらもあきらかに荒唐無稽な作り話にすぎない…)
——何!
蘭の開いた唇は、そもそも口を開いた自分自身を飲み込もうとしたかにさえ、——何よ!
タオが叫ぶ。
——何?…莫迦!何よ!
蘭はなにか訴えようとしていたのだった。
兩眼を開け、且つはあけ広げた口をわななかせ、膝間付いたままに背筋をのばしきり、筋肉をかすかに痙攣させ——うるさい!
タオが叫んだ。
——だまれ!うるさい!(わたしにベトナム語は判らない。まったく、わたしには判らないのである)蘭はそのままに後ろ向きに大股を広げて転がり、腹をふるわせながら目を見開いたまま泣いた。
聲もなく。顏を多いだにせずに。蟹のように。
澤の。
蟹のように。
兩の手。ないし足、それらを。
澤の。
さわやかな澤の。
風はふくだろうか。
澤に。
どこかの。
だれかの。
澤に。
いろもなく。
風は(蘭は言葉が話せない。乃至、詞の存在自体にふれてゐない。
無言に蟹を擬態した蘭にわたしは顯らかに知ったのだった。
わたしたちのすでに知るわたしたちの沉默を?)。
二十三日。
午前の雨に濡れたあなたを想う。親愛なる玖牟良王よ。
眞夜羽は濡れなかった。眠りかけの耳だけが降り出した雨の音を聞いたのだ。
朝、ヴィンが(朝、私は雪にふれる夢を見たのだった。
雪。それ、梅の枝?…ほそい枝の蕾みに。
積もれ、雪よ。わたしが伸ばした指先が数秒後あなたにふれて仕舞うように…)來た。曰く、——今日もいるの?
だれ?
——その子。
わたしは笑っていただろう(ヴィンの眼に微笑みは触れたのだろうか?指が?
指が或は雪に触れかけたように)。その時に。
——いつまでいるの?
私は彼を振り返り見て、そして云う。
——めずらしい。
——なにが?
——はじめてじゃない?
——なに?
——連絡しないで(…なにも、れんらく…(笑い、かすかに)しないで、(笑い)…)來るの。
と。
ヴィンはその聲を聞いていた。黑目の瞳孔を開きかけながら(匂う?
なぜ。
雪になぜ花がにおう?
花、それ。白百合の、悲惨な匂いが)と、ささやく。
——だって、あしたはあのデブが來るでしょ?
わたしは聲を立てて笑った。
——嫌いなの?
——あの子が嫌いなの。俺を。あの子が。…
赦してなんだよ、とヴィンは謂って、「俺が淸雅と幸せになるの。俺たちの方が先だったのに。俺のほうが早かったでしょう?」壁にひっかく。それは翳りの爪。
壁に。
「あたま、變」ヴィンは謂って笑った。
蘭は顎をひいてゐた。うつむいていた。且つ笑んでいた。可愛らしく得た。私の眼に。一瞬の一瞥の中に。そして知性もなにもない笑みに私は思うのだった(ひとりで。
蘭に隠したつもりもなくに)。
——嫌いなの?
それは私の聲
——なに?
是はヴィンの聲。故、ヴィンはささやく。「なにが?」
「あのデブ。君の、きらない子(ママ)」
「あの人?」
「お前、嫌いなの?」
「好きじゃないよ」
ヴィンが笑った。
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