多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説20
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
その同じときに階下、はるか下の正面口の庭先のブーゲンビリアの樹木の影に蛇は這った、そのまなざしの捕えた一瞬の逆光の輝かしさをだに知らずに。
思えば愚かな。
タオ、彼女が云う、ささやくように、二メートルばかりも離れて窓際に立ったままに、いっぱい話して、…と、「蘭が詞、思いださせるように(ママ)」と(願え。
その叶わぬ願いを。
願え…あした
星があなたの額に落ちてくる前に)、
思い出す?
「思いだしられるから。たっくさん聞いたら、きっと、思いだせれるから」
日本語なんてしらないのに?
「思いだせられるから」爾時蛇は頭の上の木の葉のこすれる轟音に身を震わせた。
十四日。爾乃君は見た。その午前、雨を。時には濡れもした。違うか?
眞夜羽は見た、その日のひかりの直射。焼かれもしたろう、その日差しに。
違うか?
忘れた?なら死ね。
花を喰う
喰いちらす蟲ら
けさ見上げた空に
わたしは心を吐き出して
わたしは心を
そして沈黙に捧げた葉にかかる糸
默止せ
タオ、九時に笑いながら妹と。朝ご飯をたべたのだ、と。タオ、なぜ詞のない妹と笑いあえたのか?なぜ?むしろころせ。
息を ころせ
いきを ころせ
あかんぼが 空を みる
ああ 空を みる
是は八木重吉が、おそらくは蘭のその時の一瞬の爲に書くべきだった詩だ。おそらくは此の詩人も失語に墜ちいらなければならなかったはずなのだった。いずれにせよ蘭の見てる前でタオを後ろから抱けば、タオは甘えて拒絶の聲を立てる。
そのゆるい拒絶の爲にわたしはそれをした。
彼女の驕った心の、そして私を失うに違いない痛みに時に眩むそれ、タオの心に、せめて捧げたのだ(ころせ
その息を
ころせ
もうすでに
死んでしまったあかんぼの
息をころせ
死んだまなこが空をみる
ああ
空を
ころせ)。
タオ——これから出勤するからね、ちょっと、お願いするね。
私——がんばって。
タオ——がんばってるよ(と、わざと殊更に憤り)。わたし、いつも頑張ってるよ。
タオは蘭をわたしに預けに來たのだった。
タオの両親は在クアン・ナム市。近隣だがバイクで三十分程度である。弟は今日本である(エンジニア。出稼ぎ労働。妻子あり。在クアン・ナム、妻は兩親の家に)。兄はハノイ。
タオはドアを閉める。振り返らない彼女が置き捨てた心が床を咬みながら光に照らされた。
光、舍利弗の光。
無慚な印象、その心。脉打ち、私さえもが顧みないのだった。
大舍利王はちりぢりにひかり蘭が残った。
ひとりではなかった。
わたしと、わたしの心だにも滞在したのだった。彼女の眼差しの寸前に。
一人になったむしろわたしで、わたしは故にひとりでシャワーをあびたのだった。
飛び散る水沫に、命さえあれば。
莫迦な。命など手の届かなかった事象のたわむれども。ひかり。
蘭を救え。掬い、すくいあげて飲み干して仕舞え。と。
・序。亂序ノ二
そう私が心に、…と。
そう願いさえしたときには…と。
散る飛沫飛び散るひまつに。
俺は、飛沫散り飛ぶ飛沫に飛び散る飛沫に、俺は聞くのだった。
飛沫ら。
俺の肌を嘗めて噛み得ず失せる刹那の、それら。
呼応して瞿曇ノ神は無數の飛沫それぞれに濁音つきの「以」の音をひそやかに立てつづけるその連なり合った轟音の切なさは、むしろむごたらしくもあったろうか。
流す汗も無かったものの躰を流した——浄めた、のだろう。かの蘭の爲に、ないし彼女の人の心が噛み千切り続けるその肉体の肌の褐色に、綺羅なる産毛、わたしが濡れた髪の儘に外に出ると蘭は立って窓の外を見ていた(海が!
見えるのだ、
海が!
波立つのだ、
海が!
その綺羅にしろく、空を移して靑光り、ついには白の綺羅に失せる、
海が!)三秒後に彼女が振り返るのは知っていた気がした。その、まさに三秒後に彼女が振り返ったときに。わたしはショートパンツだけだった。誘惑ではない。熱帶のまちではよくある。見慣れたもの。蘭はなにか言いかけた。
口を開いた。
おおきく、阿のかたちに(もたげらかけの舌の25度のななめのカーヴ)。
叫べ、と。わたしはそうささやきかけてもよかったのだ。喚き散らすにも似て、限りもなくにやさしく——叫べ!
なんと?(むしろ默止せ)
泣きそうなかたちに蘭の顏が崩れるのを見た——気付く。うつくしい少女だった。野蛮なほどに。
品の無いハイビスカスのように。
香気をはぎ取った素顔の薔薇の花のように。おそらくわたしが彼女の美しさに気付いた故に蘭はいきなりに膝間付いてしゃくりあげるのだった。顏を覆って。
思い出す。麻紗彌も…香香美雅美——血まみれの母親。彼女も最後の時、その前にわたしに同じように膝間付いて泣いた、と。
詫び乍ら。
むしろ生まれたことを?
詫び乍ら。
それがむしろ私自身に泥をぬる行爲だったとも気附かずに。とはいえ蘭は蘭であり、相似は同一ではない。わかるか?雅彌にわたしに固有性をあたえるように、蘭もまた私が私に固有性を与えたと同じく固有性をあたえられなければ、——どうしたの?
近づき私は云った。
どうしたの?
やさしく。…友よ。友の仮面をかぶった家畜よ。君は笑うだろう?ことばなどつうじるものかとね?
心から心へ。
知れ。わたしでさえもルートヴィッヒの退屈なミサ・ソレムニスに感動するどころか、オケゲムにさえも共鳴のするのだ。ましてやセバスチャン・Bの試作のカノンをや。むかし、808stateをたいくつだったと君は云った。わたしはそうは思わなかった。ドライヤーのジャンヌ・ダルクに関しても、12年から13年のリリアン・ギッシュに関してもだ。ハロルド・ロイド、その限りもない映像美への耽溺よ。
阿阿那ン陀王よ
阿阿那ン陀王よ
今、君は人類の苦惱の爲に死ね
この俺と共に
泣き崩れる野生の褐色の花をわたしは腕にだいて(——彼女は顔を覆ったままに向こうにそらした。私を見詰めない爲、泣いた顏を羞じた爲、そして光の散乱の爲に、煌めきながら、産毛を、それでもなおも生きよ!)ベッドに寝かしつけようとしたとき(生きよ!)不意に我に返ったように蘭はわたしにしがみつき、そして胸に抱いた。
彼女がそれを望むのなら、阿阿那ン陀王よ、私は施す以外になくに想えた。
抱いてやる腕の中に、——ね。
と。
ね。
耳元に。——ね。
と。
ね。
聲を立てて?(俺は過失のようにひとり想う)…日本語?(やわらかい心の斜め下のほうに)
聲。「わたしを、連れてって」
蘭は云った。「わたしを」
聲に。
「…ね」
と。
ね?
わかる?
いずれにせよ、彼女は私を受けたのだった。
その日彼女が(蘭が。花の蘭ではなくて。花のような、人の肌の香に熱帯の光に汗ばむ、それ。人のかたちの蘭が。色彩さえ褐色の、下卑た色しか与えられずに——人とは本来下等な美しさしかみずからに必要としなかった猨と不在の鹿の混血なのだ。事実、その泣き声の意地汚さを聞け)話した言葉はそれだけだった。
話しかけた時には已に彼女は言葉を必要としないところに追い込まれた。
私に埋もれたから。
私に埋もれそうだった一瞬には彼女はまさに(時に。
雪さえも)詞にふれていたのだ(雪さえ。
溶けぬ間にも)。
しかも(雪はやがて我々を掩う。
その最期には)わたしと彼女…即ち私たちには一切かかわりのない他人の言葉に。
それはあくまでも蘭そのものの肉聲でありながら。
わかる?
わからないなら死ね。
蘭は息遣う。肺を、その存在を、それの存在の肉体感覚としては一切脳の知覚しない、故、本質的に忘れられている存在、にもかかわらずに脳の生存の絶対的な根拠であるもの、肺ではなくて。胚でもないくて。這い出るように。こころが。その時に。くらい影から這い出たように。肌で。
蘭は息遣う。
褐色の肌のかすかな幼いおうとつに日の光がひかる故になげたおうとつをあなたは見ようとしただろうか?
あなたは目をそらそうとしただろう。蘭の爲に云、彼女は誘惑したのでも誘惑に負けたのでも無かった。むしろ戸惑い、思いあぐね続けながら、同時にそれらをさえ無きものにする充足を感じていたのだった。
蘭は思った。
自分のにじませた汗が彼女の愛する「美しい人」の肌の、不意うちのようににじませた汗に混ざり合って仕舞う時に、それは蘭の汗なのか。
「美しい人」の?
流された汗に所有格などあったろうか?
ならば、目の前におきていることを何と呼ぶ?
何が起きているのか?
本来、これが彼女の咬んだ戸惑い、思いあぐね、充足のそもそもの実態ではなかったか?
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