多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説16
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
それが異形の人のことだとは氣づいていた。わたしは目を逸らした。いずれにせよふたりの眼差しにも「タイ・サーラ」の樹、南の國で沙羅双樹の樹として大切されているらしい花は、寄生の凶つ花を思わせて地から湧くように咲く。
華の一つが頸ごと墜ちて、額田朱美の胸にあたって刎ねた。膝に跳ね、そして落ちそうな腿の端にかろうじて留まる。朱美のわざと誰もいない空虛に目線を投げ捨てた眼差しが、その後ろに見えない異形の人を見つめ、見開いた眼差しの内にあざやかな恍惚のみ曝していることは知っている。
わたしは胸をかきむしられるように只いたましかった。或いは、寧ろ、自分自身さえもが、である。其時、古古呂麻騰比弖作歌
老いぼれの若やぐ胸にせめて咲け
時なく朽ちるその沙羅の花
〇久村文書B付錄(蠅子神社緣起)
昔一つ目鬼に憑かれて十二日賀山を彷徨った女が居た。最初の三日は水だけを呑んで腹を膨らまし、次の三日は芹を貪って腹を膨らまし、次の三日は伸びた自分の爪を噛んで腹を膨らまし、次の三日は笹の葉を燃やした煤で腹を膨らませた。南から飛んできた三つ目の黑鳥に追い立てられる儘山の際から伸びた虹を渡った。眞ん中まで來た時に日が落ちたので虹は消えた。落ちる鬼憑き女はかろうじて黑鳥の頸をつかむ。嘴を引き裂いて從わせ河べりに下ろさせた。黑鳥の吐いた血が河を紅に染めたので、河を泳いで上った。泳ぐうちに鯉の鱗が鬼憑き女を覆った。上流に釣りする片腕の男が銛をうつ。女を魚に見間違えたのだ。心臓を差された女は行き絶え絶えに、身も心も魚になって仕舞う前に人の子を産みたいという。見れば慥かに腹ははり裂けそうにも膨れているので、問う、誰の子かと。昔山で犬に強姦されて孕まされた子だという。男が腹を引き裂いたところ子供が百人這い出て来た。子らは皆川原の石陰に隱れた。男は死んだ女を憐れんで山に連れ込み埋めて葬った。その御玉を鎭めんと上に立てたことから百子(波久古)神社、是がなまって蠅子神社になった、と。
以上は茨市立図書館の創設五十周年出版「茨市郷土史資料集成上卷」。蔦川氏文書翻刻資料からの要約。
昔猪獵蚊ノ王(ゐかりが乃至ゐかるがノわう、又一説ゐかる王)という貴人が山傳いに此の地に訪れ、賀山のふもとの窖に身を隱した。東から落ちのびて來たのだという。あやしみ恐れた村人が竹と檜を削った槍に武裝し窖を囲んだ。火を投げ入れ焼き打ちし、迯げ出たところを指し殺そうと画策したのだ。ところが窖の内から淡い光が差し芳香が漂い出たのでよほどの貴人に違いないと思い留まる。數週間後猪獵蚊ノ王はふいに窖から出て村に下り、明日の日の暮れたより三日の間、西の丘の上に隱れろと云った(今の神戸あたり)。隨うものもあり從わないものもあり。明後日の未明に降り始めた豪雨に崩れた土砂が夜の明けの時には村を埋めた。西の丘の上の者らのみ助かった。又別の時に山の中腹の平地を平らにし三日の内に三日で掘れるだけの穴を掘れと言った。三日後雨が一週間降り続き池になった。その夏は日照りの夏で周囲の村は干からびたがその村だけは池の水で辛うじて凌いだ。遂に池の水の最後の一雫まで枯れた時、半年ぶりの大雨が土を潤した。此の貴人は過去未来見通す聖人に違いないと思い村人は猪獵蚊ノ王に葛の蔦を編んで冠を造り村の王として祀ろうとした。猪獵蚊ノ王曰く、地の上にわたしの治めるべきものなどあろうか、と。賀山に懸かった虹を山の猨の神らが西南の端から、山の犬の神が東北の端から食って消してしまった日に猪獵蚊ノ王は故國に歸ると告げた。二度とここに戻らないつもりかと村人。猪獵蚊ノ王曰く。ならば形見を残しておこう、と。姿を消したそこに夥しい蠅の子らが繁殖していた(死んだ?殺した?)。これを祀って蠅子神社という、と。
是は「備前備中備後史料集」昭和52年の發行。典拠資料の記載なし。聖德太子(の山背王)神話の一種か。
〇久村文書Bその二(嚴島沙羅樹院にて。)
8月29日。
嚴島には午前中には歸る事にして、此の日早朝、兜山という山に登ってみた。
山と言っても日本に多いかの天の香具山風のどうということない低い山である。大陸の人間にとってはあんなものは山じゃないんだよと、むかし、子供の比に日本画家だった叔父上に語っていただいたものだ。戰爭経験者で(70で癌で死んだ。俺が十二ノ時だったっけかな?)滿洲はじめ向こうの方で従軍していたようだ。通信兵だったようだが(是は確証はない。叔母さん…叔父貴の年上女房に、そんな風に聞いた記憶がかすかにある)。叔父貴は謂っていた。日本みたいな島國にいるな、と。人間が小さくなる、と。大陸へ行け。ならば叔父貴が大きな大陸育ちの中國人を纔かでも尊敬しているのかと謂えばさにあらず、徹底的な差別主義者だったが。なかなか面白い心理學症例じゃない?
是は久安さんという人の案内。70代。男。奇麗なスキンヘッドである。なにも殘さず禿げあがったのか、わずかに殘すいじきたなさを厭うて毎日剃るのか。潔かるべし、と。上原さんというホテルの掃除婦のおばさんに紹介していただいた。
久安翁、山に馴れて木の葉の翳りの細い土道をすたすた下り坂じみて上っていく。見ていて傾斜感覺を錯亂しそうなほどに。山といっても先に書いた、そんな程度の山だからものの十数分(いや、二十分超かな?)で頂上に。久安翁が私の步調を考慮しないので若干困った(敢えて加味しなかった、のだろう?翁の自分の衰え知らずを誇示した?のか?これみよがしにもひとりで上っていくのだ。話せば親切で氣のよくつく人)。
山の上から見下ろせば、いやがうえにもいま海抜髙いところに居る事を実感させる。この程度の山でも、山は山なのだ。
翁。平家物語研究しておられるん?
私。そうですね。戦記物一般の…
翁。那須与一の歌というのもあるよ。…と、言って歌ってくれた歌。是は、戰後の作らしい音頭。
四国屋島の小舟の上に
若い女性(訓はにょしょう、である)がさしまねく
しっちゃん、ぎっちゃん、さし招く
ほらほらほらほらさし招く(尤も、あとで調べたら此れは栃木県の小田原市のもののようだ)
私。ところで、兜埋められたんですか?ここに。
翁。それは嘘よ。
まさににべもなく久安翁は謂って笑った。
晝前に山陽本線で嚴島往きのフェリー埠に行ったのだが、天氣はすさまじく荒れていた。岡山に居るころはまだしも時に霧雨ていどだったが、すでに電車の中で空は暗黑に墮す。
海に雷さえどよめいていた。
フェリーはでるのかどうか心配だったが、此のくらないなら問題ないという。とは言え、観光客等さすがに少ない。私の外にはあと數組程度である。
浪に搖られて十分程度、海の上に居る時は不安半分興奮半分だったが、地を踏めば搖れない大地が味気なくも感じられる。ホテルでシャワー。雨を洗い流して(というのも變な言い方だが)若干時間休憩の後嚴島沙羅樹院に出向くことにした。
最後に(次の日は東京に歸らなければならないので)圓位師とすこしばかり時間を取って話して見たかったのだ。
雷の時々なる中に詣づ。尤も近い。若干又濡れるのが厭わしいだけ。
寺には、見れば、本堂の兩端(寺を左右から守護するかのように)「タイ・サーラ」の木が花を咲かせていた。雨に濡れる。前に來た時も此のグロテスクな南國風の樹木は目立ったのだが(その時は奇異に見た。寺に似つかわしくなく)茨に行くまでそれを「沙羅」の木の一つとは知らなかったのだ。知れば納得しむしろ相応しく思う(最初は惡趣味に想えたのだ。坊さんの頭にハイビスカスを飾るにも似て…)。雨の白濁の中に、薄ももいろの花の色は色を失って見える…。
桃の夭夭たる
灼灼たりその華
この子ゆき嫁ぐ
その室家に宜ろしからん
桃の夭夭たる
さかんなるその實あり
この子ゆき嫁ぐ
その家室に宜ろしからん
桃の夭夭たる
その葉は蓁蓁たり
この子ゆき嫁ぐ
その家人に宜ろしからん
雨に褪めた花の色にふと、思いだしたのだ。
タイ・サーラ、…佛の沙羅に擬態させられた本當はもっと別の名前を持っていたはずの樹木の影を潜って、圓位がいるはずの本堂奧の離れに行った。
圓位との談話(是は亦、茶室で行ったのである)。
圓。なにか判ったの?
私。なにも(笑う)。
圓。なにもってことはないんじゃないん?
私。いろいろ聞きはして、いろいろ情報ははいったんですけど。
圓。島で噂よ。
私。何が?
圓。あなた。東京から來た国学だか陰陽道だかの先生が眉村の息子のこと嗅ぎ待って一軒一軒聞いて回ってるって。
私。僕のことですか?
圓。あなた以外にいないでしょ(笑う)。
私。まったく、的を得ていない噂で、そもそも、
圓。佐伯の奧さんでもひろめられたんじゃない?
私。與四さんですか?
圓。それは、わかいほうな。その騰毗のおばあさんの方。
私。あの方が?
圓。それでなきゃ、眉村の旦那のほうか。
私。なんで?
圓。云うとしたら、そのあたり。性格からね。寺なんかにいると、なんでも耳にはいるのよ。目にも、…ところで、ご存じでられる?
私。なにを?…と、尋ねるわたしに圓位はややあって笑みかけ、そして詠じた。
花にそむこゝろのいかでのこりけん
すてはてゝきと思ふ我が身に
いまよりは花みん人につたへおかん
世をのがれつゝやまにすまへと
私。西行?
圓。有名な、花の歌あまたよむ中にある歌ね。あれ、花って人のことでしょ。
私。そうなんですか?
圓。あれは人のことを花といってるのよ。そう思える。…人を見たいなら、その美しさ哀れさ醜さ穢さも、…ね、山に入り見下ろしてみよと。世を捨てて。
私。それは住職の解釋として?
圓。わたしにはそうとしか思えないのね。あの花の歌の一羣はね。
ねがはくは花のしたにて春死なん
その如月のもちづきのころ
そう考えたら是れ、人戀う哥よね…
長閑なれこゝろをさらにつくしつゝ
はなゆゑにこそ春はまちしか
いずれにしても、ここにいると下の…島の人のことはよくわかる。
とにもかくにも(と、圓位はお茶を——普通のほうじ茶である、を、私の飲み干した湯のみに注いで、謝そうとした私にかぶせるように云った)あれ。どうするの?
私。あれ?
圓。眉村さんのところの轉生談。
私。住職はどうですか?
圓。私?
私。住職だったら、どうします?
圓。誦経してあげようかね?坊主だからね。
私。わたしだったら?住職が私だったら?
圓。あなただったら?
私。そう。私だったら。
圓。あなたも面倒くさいよね。逃げちゃえば?
私。迯げる?
圓。本筋の話じゃないでしょ。もうすぐ…明日か。歸るんじゃない?東京に。
私。ええ。
圓。じゃ、それでいいじゃない?そのまま放っとけば?
私。なにもしないで?
圓。じゃ、なにするの?
私。なにも…例えば眞夜羽に月から迎えが來るでもしない限り、やることもできる事もないですね。
圓。じゃ、同じだ。結局は放っとく、と。心も気に掛けなければ忘れた、という。心に気に掛けてればま、それは逃げたようなもの(と圓位は聲にちさく立てて短く笑う)。
私。專門外ですからね。私。あくまでも。そもそも嫌いなんですよ。オカルト。
圓。オカルト?
私。あれ、それで商売するじゃない?何にしても。それが嫌。
圓。ま。坊主も同じだけれどもね(…いや、と言いかけた私を圓位は制して)商売は商売よ。わたし、お寺好きじゃないもの。
私。お好きじゃない?
圓。嫌い。
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