古事記(國史大系版・下卷18・用明・崇峻・推古)
底本國史大系第七卷(古事記、舊事本紀、神道五部書、釋日本紀)
・底本奥書云、
明治三十一年七月三十日印刷
同年八月六日發行
發行者合名會社經濟雜誌社
・底本凡例云、
古事記は故伴信友山田以文山根輝實書大人が尾張國眞福寺本應永年間古寫の伊勢本他諸本を以て比校せしものを谷森善臣翁の更に增補校訂せる手校本二部及秘閣本等に據りて古訓古事記(宣長校本)に標注訂正を加へたり
且つ古事記傳(宣長記)の説を掲け欄外にはその卷數を加へて同書を讀まん人の便に供せり
(用明)
‘橘豐日‘命坐池邊宮治天下‘參歲(橘、眞本此上有弟字。命、眞本作王。參歲、眞本作三歳)
橘〔たちばな〕の豐日〔とよひ〕の命〔みこと〕。
池邊〔いけべ〕の宮〔みや〕に坐〔ましまし〕て、
參歲〔みとせ〕天下〔あめのした〕を治〔しろしめしき〕。
此天皇娶‘稻目宿禰大臣之女意富藝多志比賣生御子多米王[一柱](稻目、眞本脱)
此〔この〕天皇〔すめらみこと〕
稻目〔いなめ〕の宿禰〔すくね〕の大臣〔おほおみ〕の女〔むすめ〕
意〔オ〕富〔ホ〕藝〔ギ〕多〔タ〕志〔シ〕比〔ヒ〕賣〔メ〕を娶〔め〕して
生〔うみませる〕御子〔みこ〕
多〔タ〕米〔メ〕の王〔みこ〕。[一柱。]
又娶庶妹間人穴太部王生御子
上宮之厩戸豐聰耳命
次久米王
次植栗王
‘次茨田王[四柱](次茨田王、諸本无、宣長云今從延本之據書紀補)
又〔また〕、庶妹〔ままいも〕間人〔はしびと〕の穴太部〔あなほべ〕の王〔みこ〕に娶〔みあひ〕まして
生〔うみませる〕御子〔みこ〕
上〔うへ〕宮〔みや〕の厩戸〔うまやど〕の豐聰耳〔とよとみみ〕の命〔みこと〕。
次〔つぎ〕に久〔ク〕米〔メ〕の王〔みこ〕。
次〔つぎ〕に植栗〔ゑくり〕の王〔みこ〕。
次〔つぎ〕に茨田〔まむた〕の王〔みこ〕。[四柱。]
又娶當麻之倉首比呂之女飯‘女之子生御子(女、眞本无、恐衍)
當麻王
次妹須‘賀志呂古郎女(賀、眞本作加)
又〔また〕、當麻〔たぎま〕の倉首〔くらびと〕比〔ヒ〕呂〔ロ〕が女〔むすめ〕、
飯女〔いひめ/いひ〕の子〔こ〕を娶〔め〕して
生〔うみませる〕御子〔みこ〕、當麻〔たぎま〕の王〔みこ〕。
次〔つぎ〕に妹〔いも〕須〔ス〕賀〔ガ〕志〔シ〕呂〔ロ〕古〔コ〕の郎女〔いらつめ〕。
此天皇「[‘丁未年四月十五日崩]」御陵在石寸掖上後遷科長中陵也([丁未]云々分注、據眞本補、諸本无傍訓)
此〔こ〕の天皇〔すめらみこと〕[丁未年、四月〔二字うつき〕十五日崩。]、
御陵〔みはか〕は石寸掖上〔いはれのいけべ〕に在〔あり〕して
後〔のち〕に科長〔しなが〕の中〔なか〕の陵〔みさざき〕に遷〔うつし〕まつりき。
(崇峻)
‘長谷部若雀天皇坐倉椅柴垣宮治天下‘肆歲「[‘壬子年十一月十三日崩]」
(長谷、眞本此上有弟字。肆、眞本作四。[壬子]云々分注、據諸本補、眞本此下有[也]字、傍訓據眞本補)
御陵在倉椅岡上也
長谷部〔はつせべ〕の若雀〔わかさざき〕の天皇〔すめらみこと〕
倉椅〔くらはし〕の柴〔しば〕の垣〔かき〕の宮〔みや〕に坐〔ましまし〕て
肆歲〔よとせ〕天下〔あめのした〕治〔しろしめしき〕。
[「壬子年十一月〔三字しもつき〕十三日崩」]
御陵〔みはか〕は倉椅〔くらはし〕の岡〔をか〕の上〔へ〕にあり。
(推古)
‘豐御食炊屋比賣命坐小治田宮治天下‘參拾漆歲[「‘戊子年三月十五日‘癸丑崩」]
(豐、眞本此上有妹字。參拾漆、眞本作卅七。[戊子]云々分注、據諸本補、眞本[癸丑]下有[日]字、傍訓據眞本補)
御陵在大野岡上後遷科長大陵也
豐御食〔とよみけ〕炊屋〔かしや〕比〔ヒ〕賣〔メ〕の命〔みこと〕
小治田〔をはりだ〕の宮〔みや〕に坐〔ましまし〕て
參拾漆歲〔みそとせあまりななとせ〕天下〔あめのした〕治〔しろしめしき〕。
[戊子年三月〔二字やよひ〕十五日癸丑日崩。]
御陵〔みはか〕は大野〔おほぬ〕の岡〔をか〕の上〔へ〕に在〔あ〕りして
後〔のち〕に科長〔しなが〕の大陵〔おほみさざき〕に遷〔うつし〕まつりき。
古事記下卷[‘終]([終]、諸本无)
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