古事記(國史大系版・下卷2・仁德2歌謠)
底本國史大系第七卷(古事記、舊事本紀、神道五部書、釋日本紀)
・底本奥書云、
明治三十一年七月三十日印刷
同年八月六日發行
發行者合名會社經濟雜誌社
・底本凡例云、
古事記は故伴信友山田以文山根輝實書大人が尾張國眞福寺本應永年間古寫の伊勢本他諸本を以て比校せしものを谷森善臣翁の更に增補校訂せる手校本二部及秘閣本等に據りて古訓古事記(宣長校本)に標注訂正を加へたり
且つ古事記傳(宣長記)の説を掲け欄外にはその卷數を加へて同書を讀まん人の便に供せり
其大后石之日賣命‘甚多嫉妬(甚、卜本作其、非是)
故天皇所使之妾者不得臨宮中言立者足母阿賀迦邇嫉妬[自母下五字以音]
其〔そ〕の大后〔おほきさき〕石〔いは〕の日〔ヒ〕賣〔メ〕の命〔みこと〕
甚〔はなはだ〕多嫉妬〔うはなりねたみ〕したまひき。
故〔かれ〕天皇〔すめらみこと〕の所使〔つかはす〕妾〔みめたち〕は
宮〔みや〕の中〔うち〕をも不得臨〔えのぞかず〕。
言立〔ことだて〕は足〔あし〕母〔も〕阿〔あ〕賀〔が〕迦〔か〕邇〔に〕
嫉妬〔ねたみ〕たまひき。[自(レ)母下五字以(レ)音。]
爾天皇聞看吉備海部直之女名黑日賣其容姿端正喚上而使也
然畏其‘大后之嫉逃下本國(大后、諸本作太后)
天皇坐高臺望瞻其黑日賣之船出浮海以歌曰
淤岐幣邇波 袁夫泥都羅羅玖 ‘久漏邪夜能 摩佐豆古和藝毛 玖邇幣玖陀良須
(久漏邪夜、宣長云夜恐當作岐、種松云恐呉鞘之意)
爾〔ここ〕に天皇〔すめらみこと〕
吉〔キ〕備〔ビ〕の海部〔あま〕の直〔あたへ〕が女〔むすめ〕
名〔な〕は黑〔くろ〕日〔ヒ〕賣〔メ〕
其〔そ〕れ容姿〔かほ〕端正〔よし〕と聞看〔きこしめし〕て、
喚上〔めさげ/よびのぼせ〕て使〔つかひ〕たまひき。
然〔しかれ〕ども、其〔そ〕の大后〔おほきさき〕の嫉〔ねたます〕を畏〔かしこみ〕て
本國〔もとつくに〕に逃〔にげ〕下〔くだり〕にき。
天皇〔すめらみこと〕高臺〔たかどの〕に坐〔まし〕て、
其〔そ〕の黑〔くろ〕日〔ヒ〕賣〔メ〕が船出浮海〔ふなでする〕を望瞻〔みさけ〕まして、
以歌曰〔うたひたまはく〕
淤岐幣邇波〔おきへには〕
袁夫泥都羅羅玖〔をぶねつららく〕
久漏邪夜能〔くろざき/くろざやの〕
摩佐豆古和藝毛〔まさづこわぎも〕
玖邇幣玖陀良須〔くにへくだらす〕
沖邊には小舟連らく黑崎/黑鞘のまさづ子我妹國へ下らす
故‘大后聞是之御歌大忿遣人於大浦追下而自步追去(大后、諸本作太后下同)
於是天皇戀其黑日賣欺大后曰
欲見淡道嶋
而幸行之時坐淡道嶋遙望歌曰
‘淤志弖流夜 ‘那爾波能佐岐用
(淤、宣長云諸本作於、今依眞本、按古事記文例无於字假名。那爾波、中本此下有知字、古事記上卷裏書淤能碁呂嶋條同)
伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆
阿波志摩 淤能碁呂志摩
阿遲摩佐能 ‘志麻母美由(志麻母、裏書此上有古字)
佐氣都志摩美由
故〔かれ〕大后〔おほきさき〕是〔こ〕の御歌〔みうた〕を聞〔きかし〕て大忿〔いたくいかり〕まして、
遣人於大浦〔おほうらにひとをつかはし〕て
追〔おひ〕下〔おろし〕て自步〔かちより〕追去〔やらひ〕たまひき。
於是〔ここに〕天皇〔すめらみこと〕其〔そ〕の黑〔くろ〕日〔ヒ〕賣〔メ〕を戀〔こひ〕たまひて
大后〔おひきさき〕を欺〔あざむかし〕て
淡道嶋〔あはぢしま〕、欲見〔みたまはむ〕。
と曰〔のりたまひ〕て、
幸行〔いでませる〕時〔とき〕に淡道嶋〔あはぢしま〕に坐〔まし〕て、
遙〔はろばろ〕に望〔みさけ〕まして歌曰〔うたひたまはく〕
淤志弖流夜〔おしてるや〕
那爾波能佐岐用〔なにはのさきよ〕
伊傳多知弖〔いてたちて〕
和賀久邇美禮婆〔わがくにみれば〕
阿波志摩〔あはしま〕
淤能碁呂志摩〔おのごろしま〕
阿遲摩佐能〔あぢまさの〕
志麻母美由〔しまもみゆ〕
佐氣都志摩美由〔さけつしまみゆ〕
押し照るや 難波の崎よ
出で立ちて 吾が國見れば
淡島 淤能碁呂島
檳椰(蒲葵)の 島も見ゆ
離つ島見ゆ
乃自其島傳而幸行吉備國爾‘黑日賣令大坐其國之山方地而獻大御飯(黑日賣、卜本酉本神本此下有命字)
於是爲煮大御羹採其地之菘菜時天皇到坐其孃子之採菘處
歌曰
夜麻賀多邇 麻祁流阿袁那母 岐備比登登 等母邇斯都米婆 多怒斯久母阿流迦
乃〔すなはち〕其〔そ〕の島〔しま〕より傳〔つたひ〕て
吉〔キ〕備〔ビ〕の國〔くに〕に幸行〔いでましき/みゆきしたまふ〕。
爾〔かれ〕黑〔くろ〕日〔ヒ〕賣〔メ〕
其〔そ〕の國〔くに〕の山方地〔やまがたのところ〕に令大坐〔おほましさしめ〕て、
大御飯〔おほみけ〕獻〔たてまつり〕き。
於是〔ここに〕大御羹〔おほみあつもの〕を爲煮〔にむ〕として
其地〔そこ〕の菘菜〔あをな〕を採〔つめる〕時〔とき〕に
天皇〔すめらみこと〕
其〔そ〕の孃子〔をとめ〕の採菘〔なつむ〕處〔ところ〕に到〔いたり〕坐〔まし〕て、
歌曰〔うたひたまはく〕
夜麻賀多邇〔やまがたに〕
麻祁流阿袁那母〔まけるあをなも〕
岐備比登登〔きびひとと〕
等母邇斯都米婆〔ともにしつめば〕
多怒斯久母阿流迦〔たぬしくもあるか〕
山縣に 播ける靑菜も 吉備人と 俱にし摘めば 樂しくもあるか
天皇上幸之時黑日賣獻御歌曰
夜麻登幣邇 爾斯布岐阿宜弖 玖毛婆那禮 ‘曾岐袁理登母 和禮和須禮米夜(曾岐、宣長云延本作曾々岐、恐妄補)
天皇〔すめらみこと〕上幸〔のぼりいでます〕時〔とき〕に
黑〔くろ〕日〔ヒ〕賣〔メ〕の獻御歌曰〔たてまつれるうた〕
夜麻登幣邇〔やまとへに〕
爾斯布岐阿宜弖〔にしふきあげて〕
玖毛婆那禮〔くもばなれ〕
曾岐袁理登母〔そきをりとも〕
和禮和須禮米夜〔われわすれめや〕
倭邊に 西吹き上げて 雲離れ 離き居りとも 我忘れめや
又歌曰
夜麻登幣邇 ‘由玖波多賀都麻 ‘許母理豆能 志多用波閇都都 由久波多賀都麻
(由玖波、宣長云波或作婆非是、今依眞本又一本。許母、諸本作此字、恐非、中本眞本无)
又歌曰〔また〕
夜麻登幣邇〔やまとへに〕
由玖波多賀都麻〔ゆくはたがつま〕
許母理豆能〔こもりづの〕
志多用波閇都都〔したよはへつつ〕
由久波多賀都麻〔ゆくはたがつま〕
倭邊に 行くは誰が嬬 隱り處の 下よ延へつつ 行くは誰が妻
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