古事記(國史大系版・中卷16・景行2・小碓命1)
底本國史大系第七卷(古事記、舊事本紀、神道五部書、釋日本紀)
・底本奥書云、
明治三十一年七月三十日印刷
同年八月六日發行
發行者合名會社經濟雜誌社
・底本凡例云、
古事記は故伴信友山田以文山根輝實書大人が尾張國眞福寺本應永年間古寫の伊勢本他諸本を以て比校せしものを谷森善臣翁の更に增補校訂せる手校本二部及秘閣本等に據りて古訓古事記(宣長校本)に標注訂正を加へたり
且つ古事記傳(宣長記)の説を掲け欄外にはその卷數を加へて同書を讀まん人の便に供せり
(傳廿七)
天皇詔小碓命
何汝兄於朝夕之大御食不參出來
專汝泥疑教覺[泥疑二字以音下效此]
如此詔以後至于五日猶不參出
爾天皇問賜小碓命
何汝兄久不參出
若有未誨乎
答白
既爲泥疑也
又詔
如何泥疑之
答白
朝‘署入廁之時(署、宣長云曙字の省文、延本作曙非是)
‘持捕搤批而(持、眞本作待、恐是)
引闕其枝裹薦投棄
天皇〔すめらみこと〕小碓〔をうす〕の命〔みこと〕に詔〔のりたまはく〕
「何〔なにともかも〕汝〔みまし〕の兄〔いろせ〕
朝夕〔あしたゆふべ〕の大御食〔おほみけ〕に不參出來〔まゐでこざる〕。
專〔もはら〕汝〔みまし〕泥〔ネ〕疑〔ギ〕敎覺〔をしへさとせ〕。[泥疑二字以(レ)音、下效此。]
とのりたまひき。
如此〔かく〕詔〔のりたまひ〕て以後〔のち〕
至于五日〔いつかといふまで〕猶〔なほ〕不參出〔まゐでたまはざり〕き。
爾〔かれ〕天皇〔すめらみと〕小碓〔をうす〕の命〔みこと〕に問賜〔とひたまはく〕
何〔なぞ〕汝〔みまし〕の兄〔いろせ〕
久〔ひさし〕く不參出〔まゐでこざる〕。
若〔もし〕未〔いまだ〕誨〔をしへず〕有〔あり〕や。
ととひたまへば
既〔すで〕に爲〔‐〕泥〔ネ〕疑〔ギ〕つ。
と答白〔まをしたまひき〕。
又〔また〕
如何〔いかさま〕に泥〔ネ〕疑〔ギ〕つる。
と詔〔のりたまへば〕
答白
朝署〔あさけ〕に廁〔かはや〕に入〔いりたりし〕時〔とき〕に
持捕〔とらへ/待捕まちとらへ〕て、
搤〔つかみ〕批〔ひしぎ〕て、
其〔そ〕の枝〔えだ〕に引闕〔ひきかけ〕て、
薦〔こも〕に裹〔つつみ〕て投棄〔なげうち〕つ。
とぞまをしたまひける。
於是天皇惶其御子之建荒之情而‘詔之(詔之、諸本作詔云、御本亦同)
西方有熊曾建二人
是不伏无禮人等
故取其人等
而遣
當此之時其御髮結額也
於是〔ここに〕天皇〔すめらみこと〕
其〔そ〕の御子〔みこ〕の建〔たけく〕荒〔あらき〕情〔みこころ〕を惶〔かしこみ〕まして
詔之〔のりたまはく〕
西方〔にしのかた〕に熊〔くま〕曾〔ソ〕建〔たける〕二人〔ふたり〕有〔あり〕。
是〔これ〕不伏〔まつろはず〕无禮〔ゐやなき〕人等〔ひとども〕なり。
故〔かれ〕其〔そ〕の人等〔ひとども〕を取〔とれ〕。
とのりたまひて遣〔つかはし〕き。
此〔こ〕の時〔とき〕に當〔あたり〕て
其〔そ〕の御髮〔みかみ〕額〔ひたひ〕に結〔ゆはせり〕。
爾小碓命給其姨倭比賣命之御衣御裳
以‘劔納于御懷而幸行(劔、諸本作小劔二字、宣長云今從眞本延本)
故到于熊曾建之家見者於其家邊軍‘圍三重作室以居(圍、閣本卜本作團、恐非)
於是言動爲‘御室樂設備食物(御室、宣長云恐新室之誤)
故遊行其傍待其樂日
爾〔ここ〕に小碓〔をうす〕の命〔みこと〕
其〔そ〕の姨〔をば〕倭〔やまと〕比〔ヒ〕賣〔メ〕の命〔みこと〕の御衣〔みそ〕御裳〔みも〕を給〔たまはり〕
以〔‐〕劔〔たち〕を御懷〔みふところ〕に納〔いれ〕て幸行〔いでまし〕き。
故〔かれ〕
于熊〔くま〕曾〔ソ〕建〔たける〕が家〔いへ〕に到〔いたり〕て見〔み〕たまへば
其〔そ〕の家〔いへ〕の邊〔ほとり〕に軍〔いくさ〕三重〔みへ〕に圍〔かくみ〕
室〔むろ〕作〔つくり〕てぞ以〔‐〕居〔をり〕ける。
於是〔ここに〕御室樂〔にひむろうたげ〕爲〔せむ〕と言〔いひ〕動〔とよみ〕て
食物〔をしもの〕を設備〔まけそなへ〕たりき。
故〔かれ〕其〔そ〕の傍〔あたり〕を遊行〔あるき〕て、
其〔そ〕の樂〔うたげする〕日〔ひ〕を待〔まち〕たまひき。
爾臨其樂日
如童女之髮梳垂其結御髮
服其姨之御衣御裳
既成童女之姿交‘立女人之中入坐其室内。(立女、諸本作妾一字、宣長云今從眞本)
爾熊曾建兄弟二人見‘感其孃子坐於己中而盛樂(感、諸本作成或咸、宣長云今從延本)
故臨其‘酣時自懷出劔取熊曾之‘衣衿(酣、諸本作酎、宣長云非也今從延本。衣衿、諸本脱衿字、宣長云今從眞本延本)
以劔自其胸刺通之時其弟建見畏逃出
乃追至其室之椅本取其背‘皮劔自尻刺通(背皮、山本云一本皮作以、中本作以、眞淵亦云當作以)
爾〔ここ〕に其〔そ〕の樂〔うたげ〕の日〔ひ〕に臨〔なり〕て、
其〔そ〕の結〔ゆはせる〕御髮〔みかみ〕を
童女〔をとめ〕の髮〔かみ〕の如〔ごと〕梳垂〔けぶりたれ〕、
其〔そ〕の姨〔みをば〕の御衣〔みそ〕御裳〔みも〕を服〔けし〕て
既〔すで〕に童女〔をとめ〕の姿〔すがた〕に成〔なり〕て
女人〔をみなども〕の中〔なか〕に交立〔まじりたち〕て
其〔そ〕の室内〔むろぬち〕に入坐〔いりまし〕き。
爾〔ここ〕に熊〔くま〕曾〔ソ〕建〔たける〕兄弟〔あにおと〕二人〔ふたり〕
其〔そ〕の孃子〔をとめ〕を見〔み〕感〔めで〕て、
己〔おの〕が中〔なか〕に坐〔ませ〕て盛〔さかり〕に樂〔うたげ〕たり。
故〔かれ〕臨〔‐〕其〔そ〕の酣〔たけなは〕なる時〔とき〕に
懷〔みふところ〕より劔〔たち〕を出〔いだし〕、
熊〔くま〕曾〔ソ〕が衣〔ころも〕の衿〔くび〕を取〔とり〕て
劔〔たち〕以〔も〕て其〔そ〕の胸〔むね〕より刺通〔さしとほし〕たまふ時〔とき〕に、
其〔そ〕の弟〔おと〕建〔たける〕
見〔み〕畏〔かしこみ〕て逃出〔にげいで〕き。
乃〔すなはち〕其〔そ〕の室〔むろ〕の椅〔はし〕の本〔もと〕に追〔おひ〕至〔いたり〕て
其〔そ〕の背〔せ〕を取〔とらへ〕
皮〔‐〕劔〔たちもて〕尻〔しり〕より刺通〔さしとほし〕たまひき。
爾其熊曾建白言
莫動其刀
僕有白言
爾暫許押伏於是白言
汝命者誰
爾詔
吾者坐纒向之日代宮所知大八嶋國
大帶日子淤斯呂和氣天皇之御子
名倭男具那王者也
意禮熊曾建二人不伏無禮聞看而取殺意禮詔而遣
爾其熊曾建白
信然也
於西方除吾二人無建強人
然於大倭國益吾二人而建男者坐祁理
是以吾獻御名
‘自今以後應稱倭建御子(自今、曼本此間有爾字、諸本有本字、宣長云一本有于字、非也)
是事白訖即如熟苽振‘折而殺也(折、山本云一本作析、眞淵云當作拆)
故自其時稱御名謂倭建命
然而還上之時山神河神及穴戸神皆言向和而參上
爾〔ここ〕に其〔そ〕の熊〔くま〕曾〔ソ〕建〔たける〕白言〔まをしつらく〕
其〔そ〕の刀〔みたち〕、莫動〔なうごかしたまひそ〕
僕〔われ〕白言〔まをすべき〕言〔こと〕有〔あり〕。
とまをす。
爾〔かし〕暫〔しまし〕許〔ゆるし〕て押伏〔おしふせ〕たまふ。
於是〔ここ〕に
汝〔な〕が命〔みこと〕は誰〔たれ〕にますぞ。
と白言〔まをせば〕
爾詔
吾〔あ〕は纒向〔まきむく〕の日代〔ひしろ〕の宮〔みや〕に坐〔ましまし〕て
大〔おほ〕八島〔やしま〕の國〔くに〕所知〔しろしめす〕
大帶〔おほたらし〕日子〔ひこ〕淤〔オ〕斯〔シ〕呂〔ロ〕和〔ワ〕氣〔キ〕の天皇〔すめらみこと〕の御子〔みこ〕
名〔みな〕は倭〔やまと〕男〔を〕具〔グ〕那〔ナ〕の王〔みこ〕にます。
意〔オ〕禮〔レ〕熊〔くま〕曾〔ソ〕建〔たける〕二人〔ふたり〕
不伏〔まつろはず〕無禮〔ゐやなし〕と聞看〔きこしめし〕て
意〔オ〕禮〔レ〕を取殺〔とれ〕と詔遣〔のりたまひき〕。
爾〔ここ〕に其〔そ〕の熊〔くま〕曾〔ソ〕建〔たける〕
白〔‐〕
信〔まこと〕に然〔しかまさむ〕。
西方〔にしのかた〕に吾〔あれ〕二人〔ふたり〕を除〔おき〕て
建〔たけく〕强〔こはき〕人〔ひと〕無〔なし〕。
然〔しかる〕に大倭〔おほやまと〕の國〔くに〕に
吾〔われ〕二人〔ふたり〕に益〔まし〕て建〔たけき〕男〔を〕は坐〔いまし〕祁〔ケ〕理〔リ〕。
是以〔ここをもち〕て吾〔あれ〕御名〔みな〕を獻〔たてまつらむ〕。
今〔いま〕より以後〔のち〕
倭〔やまと〕建〔たける〕の御子〔みこ〕と應稱〔たたへまをすべし〕。
是〔こ〕の事〔こと〕を白〔まをし〕訖〔をへつれば〕
即〔すなはち〕熟苽〔ほぞち/うめるうり〕の如〔ごと〕
振〔ふり〕折〔さき〕て殺〔ころし〕たまひき。
故〔かれ〕其〔そ〕の時〔とき〕よりぞ御名〔みな〕を稱〔たたへ〕て
倭〔やまと〕建〔たける〕の命〔みこと〕とは稱〔まをしける〕。
然〔しかし〕て還上〔かへりのぼり〕ます時〔とき〕に
山〔やま〕の神〔かみ〕
河〔かは〕の神〔かみ〕
及〔また〕穴戸〔あなど〕の神〔かみ〕を
皆〔みな〕言向〔ことむけ〕和〔やはし〕て參上〔まゐのぼり〕ましき。
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