古事記(國史大系版・中卷11・崇神2歌謠)
底本國史大系第七卷(古事記、舊事本紀、神道五部書、釋日本紀)
・底本奥書云、
明治三十一年七月三十日印刷
同年八月六日發行
發行者合名會社經濟雜誌社
・底本凡例云、
古事記は故伴信友山田以文山根輝實書大人が尾張國眞福寺本應永年間古寫の伊勢本他諸本を以て比校せしものを谷森善臣翁の更に增補校訂せる手校本二部及秘閣本等に據りて古訓古事記(宣長校本)に標注訂正を加へたり
且つ古事記傳(宣長記)の説を掲け欄外にはその卷數を加へて同書を讀まん人の便に供せり
又此之御世大毘古命者遣高志道
其子建沼河別命者遣東方十二道而
令和平其麻都漏波奴[自麻下五字以音]人等
又日子坐王者遣旦波國令殺玖賀耳之御笠[此人名‘者也玖賀二字以音]([者也]、宣長云延本无[者]字、按諸本皆有、是也)
又〔また〕此〔こ〕の御世〔みよ〕に
大〔おほ〕毘〔ビ〕古〔コ〕の命〔みこと〕をば
高〔コ〕志〔シ〕の道〔みち〕に遣〔つかはし〕、
其〔そ〕の子〔みこ〕建〔たけ〕沼河別〔ぬなかはわけ〕の命〔みこと〕は
東〔ひむがし〕の方〔かた〕十二道〔とをまりふたみち〕に遣〔つかはし〕て、
其〔そ〕の麻〔マ〕都〔ツ〕漏〔ロ〕波〔ハ〕奴〔ヌ〕[自(レ)麻下五字以(レ)音]人等〔ひとども〕を
令和平〔ことむけやはさしめ〕、
又〔また〕日子坐〔ひこいます〕の王〔みこ〕は旦〔タニ〕波〔ハ〕の國〔くに〕に遣〔つかはし〕て
玖〔ク〕賀〔ガ〕の耳〔みみ〕の御笠〔みかさ〕[此〔こ〕は人〔ひと〕の名〔な〕者也〔なり〕。玖賀二字以(レ)音。]を
令殺〔とらしめ〕たまひき。
故大毘古命罷往於‘高志國之時(高志、宣長云一本又一本作但馬、今從眞本延本)
服腰裳少女立山代之幣羅坂而
歌曰
‘古波夜 美麻紀(古波夜、延本无、恐非)
伊理毘古波夜 美麻紀
伊理毘古波夜 意能賀袁袁
奴須美斯勢牟登 斯理都斗用
伊由岐多賀比 麻幣都斗用
伊由岐多賀比 宇迦迦波久
斯良爾登 美麻紀
伊理毘古波夜
故〔かれ〕大〔おほ〕毘〔ビ〕古〔コ〕の命〔みこと〕
高〔コ〕志〔シ〕の國〔くに〕に罷往〔まかりいます〕時〔とき〕に
腰裳〔こしも〕服〔けせる/きたる〕少女〔をとめ〕
山代〔やましろ〕の幣〔へ〕羅〔ラ〕坂〔ざか〕に立〔たてり〕て
歌曰〔うたひけらく〕
古波夜〔こはや〕
美麻紀〔みまき〕
伊理毘古波夜〔いりびこはや〕
意能賀袁袁〔おのがをを〕
奴須美斯勢牟登〔ぬすみしせむと〕
斯理都斗用〔しりつとよ〕
伊由岐多賀比〔いゆきたがひ〕
麻幣都斗用〔まへつとよ〕
伊由岐多賀比〔いゆきたがひ〕
宇迦迦波久〔うかかはく〕
斯良爾登〔しらにと〕
美麻紀〔みまき〕
伊理毘古波夜〔いりびこはや〕
こはや 御間城
入彦はや おのが緒を
竊み弑せむと 後つ戸よ
い行き違ひ 前つ戸よ
い行き違ひ うかかはく
知らにと 御間城
入彦はや
於是大毘古命思怪返馬問其少女曰
汝所謂之言何言
爾少女答曰
吾勿言唯爲詠歌耳
即不見其所如而忽失
於是〔ここに〕大〔おほ〕毘〔ビ〕古〔コ〕の命〔みこと〕怪〔あやし〕と思〔おもひ〕て
馬〔うま〕を返〔かへし〕て
其〔そ〕の少女〔をとめ〕に曰〔‐〕
汝〔いまし〕が謂〔いへる〕言〔こと〕は何〔なに〕ちふ言〔こと〕ぞ。
と問〔とひ〕たまへば
爾〔‐〕少女〔をとめ〕
吾〔あれ〕勿言〔ものいはず〕。
唯〔ただ〕爲詠歌耳〔うたをこそうたひつれ〕。
と答曰〔こたへて〕
即不見其所如而〔ゆくへもみえず〕忽〔たちまち〕に失〔うせ〕にき。
故大毘古命更還參上請於天皇時
天皇答詔之
此者爲在山代國‘我之庶兄建波邇安王起邪心之表耳[波邇二字以音](我之、宣長云當作汝之)
伯父興軍‘宜行(宜行、眞本作且行)
即副丸邇臣之祖日子國夫玖命而遣時
即於丸邇坂居忌瓮而罷往
於是到山代之和訶羅河時其建波邇安王興軍待遮
各中挾河而對立相挑
故號其地謂伊杼美‘今謂伊豆美也[今謂伊豆美也、諸本爲分注]
故〔かれ〕大〔おほ〕毘〔ビ〕古〔コ〕の命〔みこと〕
更〔さら〕に還參上〔かへりまゐのぼり〕て天皇〔すめらみこと〕に請〔まをす〕時〔とき〕に
天皇〔すめらみこと〕答詔之〔みことのりたまはく〕
此〔こ〕は爲〔おもふに〕
山代〔やましろ〕の國〔くに〕在〔なる〕我〔な〕が庶兄〔まませ〕
建〔たけ〕波〔ハ〕邇〔ニ〕安〔やす〕の王〔みこ〕の
邪心〔きたなきこころ〕を起〔おこす〕表〔しるし〕に耳〔こそ〕あらめ。[波邇二字以(レ)音。]
伯父〔をぢ〕、軍〔いくさ〕興〔おこし〕て宜行〔ゆかせ〕。
とのりたまひて
即〔すなはち〕副丸〔ワ〕邇〔ニ〕の臣〔おみ〕の祖〔おや〕
日子國〔ひこくに〕夫〔ブ〕玖〔ク〕の命〔みこと〕を副〔そへ〕て遣〔つかはす〕時〔とき〕に
即〔‐〕丸〔ワ〕邇〔ニ〕坂〔さか〕に忌瓮〔いはひべ〕を居〔すゑ〕て罷往〔まかりいましき〕。
於是〔ここに〕山代〔やましろ〕の和〔ワ〕訶〔カ〕羅〔ラ〕河〔がは〕に到〔いたれる〕時〔とき〕に
其〔そ〕の建〔たけ〕波〔ハ〕邇〔ニ〕安〔やす〕の王〔みこ〕
軍〔いくさ〕を興〔おこし〕て待遮〔まちさへぎり〕、
各〔おのもおのも〕中挾河〔かはをなかに‐はさみ/おき‐て〕
對立〔むきたち〕て相挑〔あひいどみ〕き。
故〔かれ〕號其地〔そこのなを〕伊〔イ〕杼〔ド〕美〔ミ〕と謂〔いひ〕して
今〔いま〕は伊〔イ〕豆〔ヅ〕美〔ミ〕とぞ謂〔いふ〕。
爾日子國夫玖命乞云
其廂人先忌矢可彈
爾其建波爾安王雖射不得中
於是國夫玖命彈矢者即射建波爾安王而死
故其軍悉破而逃散爾追迫其逃軍到久須‘婆之度時(婆、宣長云諸本作波、今從眞本、閣本亦作婆、和名抄作波)
皆被迫窘而屎出懸於褌故號其地謂屎褌‘今者謂久須婆(今者謂久須婆、諸本爲分注)
又遮其逃軍以斬者如鵜浮於河故號其河謂‘鵜河也
亦斬波布理其軍士故號其地謂波布理曾能[自波下五字以音]
如此平訖參上覆奏
爾〔ここ〕に日子國〔ひこくに〕夫〔ブ〕玖〔ク〕の命〔みこと〕
其廂人〔そなたのひと〕先〔まづ〕忌矢〔いはひや〕可彈〔はなて〕。
と乞云〔こふ〕に
爾其〔‐〕建〔たけ〕波〔ハ〕爾〔ニ〕安〔やす〕の王〔みこ〕
雖射〔いつれども〕不得中〔えあてざりき〕。
於是〔ここに〕國〔くに〕夫〔ブ〕玖〔ク〕の命〔みこと〕の彈矢〔はなてるや〕は
即〔‐〕建〔たけ〕波〔ハ〕爾〔ニ〕安〔やす〕の王〔みこ〕に射〔いあて〕て死〔しにき/ころしつ〕。
故〔かれ〕其〔そ〕の軍〔いくさ〕悉〔ことごと〕に破〔やぶれ〕て逃散〔あらけぬ〕。
爾〔ここ〕に其〔そ〕の逃軍〔にげるいくさ〕を追迫〔おひせめ〕て
久〔ク〕須〔ス〕婆〔バ〕の度〔わたり〕に到〔いたる〕時〔とき〕に
皆〔みな〕被迫〔せめらえ〕窘〔たしなみ〕て
屎〔くそ〕出〔いで〕て褌〔はかま〕に懸〔かかり〕き。
故〔かれ〕號其地〔そこのな〕を屎褌〔くそばかま〕と謂〔いひ〕して
今〔いま〕は久〔ク〕須〔ソ〕婆〔バ〕と謂〔いふ〕。
又〔また〕其〔そ〕の逃軍〔にげるいくさ〕を遮〔さへぎり〕て以〔‐〕斬〔きれ〕ば
鵜〔う〕の如〔ごと〕河〔かは〕に浮〔うき〕たりき。
故〔かれ〕號〔‐〕其〔そ〕の河〔かは〕を鵜河〔うかは〕と謂〔いふ〕。
亦〔また〕其〔そ〕の軍士〔いくさびと〕を斬〔きり〕波〔ハ〕布〔フ〕理〔リ〕し故〔ゆゑ〕に
號其地〔そこのな〕を波〔ハ〕布〔フ〕理〔リ〕曾〔ソ〕能〔ノ〕[自(レ)波下五字以(レ)音]となも謂〔いふ〕。
如此〔かく〕平〔ことむけ〕訖〔へ〕て參上〔まゐのぼり〕覆奏〔かへりことまをし〕たまひき。
故大毘古命者隨先命而罷行高志國
爾自東方所遣建沼河別與其父大毘古
共往遇于相津故其地謂相津也
是以各和平所遣之國政而覆奏
故〔かれ〕大〔おほ〕毘〔ビ〕古〔コ〕の命〔みこと〕は
先〔さき〕の命〔みこと〕に隨〔まにまに〕高〔コ〕志〔シ〕の國〔くに〕に罷行〔まかりいまし〕き。
爾〔ここ〕に
東方〔ひむかしのかた〕より所遣〔まけし〕
建〔たけ〕沼河別〔ぬかはわけ〕と
其〔そ〕の父〔ちち〕大〔おほ〕毘〔ビ〕古〔コ〕と共〔とも〕に
相津〔あひづ〕に往遇〔ゆきあひ〕たまひき。
故〔かれ〕其地〔そこ〕を相津〔あひづ〕と謂〔いふ〕。
是以〔ここをもて〕各〔おのもおのも〕所遣〔まけつる/つかはされえたる〕國〔くに〕の政〔まつりごと〕を
和平〔ことむけ〕て覆奏〔かへりことまをし〕たまひき。
爾天下太平人民富榮
於是初令貢男弓端之調女手末之調
故稱其御世謂所知初國之御眞木天皇也
又是之御世作依網池
亦作‘輕之酒折池也[輕之酒、神本作輕阪池反四字、閣本酒下有也字或云之下脱池字]
爾〔かれ〕天下〔あめのした〕太平〔たひらぎ〕
人民〔おほみたから〕富榮〔とみさかえ〕き。
於是〔ここに〕初〔はじめ〕て
男〔をとこ〕の弓端〔ゆはづ〕の調〔みつぎ〕、
女〔をみな〕の手末〔たなすゑ〕の調〔みつぎ〕令貢〔たてまつらしめ〕たまひき。
故〔かれ〕其〔そ〕の御世〔みよ〕を稱〔たたへ〕て
初〔はつ〕國〔くに〕知〔しらし〕し御眞木〔みまき〕の天皇〔すめらみこと〕と謂〔まをす〕。
又〔また〕是〔こ〕の御世〔みよ〕に依網〔よさみ〕の池〔いけ〕作〔つくり〕、
亦〔また〕輕〔かる〕の酒折〔さかをり〕の池〔いけ〕を作〔つくらし〕き。
天皇御歲壹佰陸拾捌歲「[‘戊寅年十二月崩]」([戊寅年十二月崩]、據諸本補、宣長校本據延本削之、恐非是)
御陵在山邊道勾之岡上也
この天皇〔すめらみこと〕御歲〔みとし〕壹佰陸拾捌歲〔ももちまりむそぢまりやつ〕。[戊寅年十二月崩。]
御陵〔みはか〕は山〔やま〕の邊〔べ〕の道〔みち〕の勾〔まがり〕の岡〔をか〕の上〔へ〕に在〔あり〕。
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