短編小説。修羅ら沙羅さら。綺羅らぎの淨土9


新型コロナ・ヴィルスを背景にした神話あるいは私小説。

雜篇。

以下、一部に暴力的な描写を含みます。

ご了承の上、お読みすすめください。



かくに記憶する。9月17日夜、その頃身を寄せたゴックという名の女の家で、彼女が雨、と。それだけ不意にさゝやいたのを聞いた。耳はすでに雨の音を聞いていた。聞こえない筈はなかった。豪雨だった。これみよがしなほどに轟音を鳴らした。長い沈黙の後で、今、雨が降ってるよ、と。ゴックはふたゝびさゝやいだ。行爲をするわけでもなく、ゴックとわたしは肌をさらしていた。もう数週間、行爲はなかった。どちらも求めもしなかった。ゴックはすでに妊娠していた。慥かに肌寒い、と。殊更にわたしにしがみつき、腕も足も搦めたゴックの肌の温度に、わたしはそう思った。今敢えて頌に顯かせば聞け

  沈黙のまゝ

 響きひゞきひゞきつゞけてひゞ割れるほどにひゞきひゞ割れるほどにも

  なにも話さない

 雨ら、轟音

  離されないまゝ

 鳴り響く

  絡みつくまゝ

 空の轟音

  沈黙のまゝ

 空間中に

  言葉も無くて

 滿ちた轟音

  茫然の

 雨ら、雨

  心もなくて

 響きひゞきひゞきつゞけてひゞ割れるほどにひゞきひゞ割れるほどにも

  沈黙の

 打音の空間

  しずかな沈黙

 聞け

  そのまゝ

かくに記憶する。明けた18日、ゴックの家の周囲一ブロックだけ床上まで浸水した。わたしはその起き抜けに外にでた外廊下に(——床は、思えば、たしかに水浸しだった)不穏な坭の色を垣間見ていたのだった。雨はその時はすでに、降り止んでいた。最初は気付かなかった。単に恠しさと違和を感じただけだった。一歩だにも歩かず歩きかけたときにはすでに立ち止まり、そして返り見ればひたすらな茶色。アスファルトや、土や、草やコンクリートや、さまざまな色に雜然としてあるべきところどころが綺麗に茶色に染まっていた。泥の色。ゆすり起こし、外廊下に連れ出したゴックは驚愕し、はっきりと口に舌打ちした。川沿いの住宅地だった。敷地より、川沿いの大通りの方が高かった。自然、大雨に水は流れ込み、行き場所をなくせばここに溜まるしかないのだった。去年もだよ。ゴックは言った。台風くると、いつも、…と。そのとき、六時をすぎて猶も暗かった。見上げれば空は未だに尽きた果ての想像できない極端な分厚さで曇り、雲が何重にも白濁を重ねて黑ずませさえさせていた。周囲に人翳はなかった。気配だにも。おそらく、ここらの家が浸水したのはもっと早い時間だったのだろう。人々はすでに逃げたのだろう。侵入する濁流に慌て騒いだのはずいぶん前の事だったのだろう。故、わたしたちだけが取り殘されてしまったのだろう。いきなり振り向いてゴックは言った。大丈夫だよ、と。「水、ここまでは來ないよ」

わたしは笑う。

「あたりまえだよ。ここ、二階でしょ?」

「水、もうすぐ、なくなるよ。」

「そうなの?」

「九時くらいには、普通だよ」

ことさらに邪気の無い笑顔をゴックは見せた。今敢えて頌に顯かせば立ち去った

  はしゃぐ

 だれもが

  ゴックは

 立ち去ったそのあと

  いまだに素肌をさらしたままに

 人々が

  その外廊下に

 すでに立ち去ったその

  肌は知る風

 そのあとにもう

  肌は知る風

 すでに止んだ

  吹き已まない

 雨の、すくなくとも

  荒れた風の

 一時的な、降る雨の、雨あがりの一時的な、静寂の中に

  濡れた濕めりけ

 濁流の

  笑う

 静まり返った

  ゴックは

 濁流の

  わたしの背中に

 それ、茶色い色は

  まとわりついて

 眼差しに

  からみつき

 混ざりあう土

  抱きついて

 匂い立つ

  聲に笑う

 濡れて水にひとしくなった

  やばいね、…ね

 液状の

  やばいよ、…ね

 土の臭気を顯らかに嗅がせ

  掃除だよ、…ぜんぶ

 あくまでも

  掃除しないと

 液状の

  掃除だよ、…と

 静まり返った

  ゴックははしゃぐ

 濁流の

  色づいた

 それ、茶色い色は

  聲をそれぞれ

 上空の

  さまざまに

 淡い光に

  わたしの背後に

 かすかに照った

  さざめき騒がせ

 ほのかには

  ゴックははしゃく

 そんな気がした

  ひとりで聲に

かくに記憶する。濡れてもいいショートパンツに、そしてわたしたちは階下に降りた。床は踝の上、膝の眞ん中までいかない距離にまで泥水を湛えて、たゞ水の瑞ゝしい匂いしかしない茶色の時にむらのある色に、床そのものの色は隠された。ゴックが故意の甲高い悲鳴を上げて、そして歓喜したかにも媚びた聲に戲れ、——立ち変だよ!

「おそうじ本当に大変だよ?」

——びしょびしょだよ

「死んじゃうよ!」

——どうしよう…!

わたしたちは聲を立てゝ笑った。町を見に行こう。わたしはそれでも水浸しの中、何ができるともなく片付け始めたゴックを制して言った。「今、なにをやってもいっしょだよ。水、ひけるまで、町、見に行こう。」

「水、いっぱいだよ」

「水びたし?」

「あぶないよ。」

わたしはゴックにシャッターを開けさせた。そしてその時に水面を蹴り上げたシャッターの飛沫、ふたゝび流れ込んだ濁流の波立ちに聲を上げたゴックの髙いイ音をわらった。ゴックはわたしをみつめがら笑っていた。足元に波立ちをあえがせ、わたしは室内でエンジンを入れた。バイクを吹かせた。タイヤ半分近くは水の中にあった。濡れた空気の質感に、かぼそい乾いた匂いがかかった氣配を感じた。シャッターのわきにゴックを乗せ、外に出た。大量の水が跳ね上がり、周囲の壁を、小物までをも派手に濡らす。道に出た。一度ハンドルを切りそこなった。タイヤが鳴った。シャターを閉めさえしなかった。吹き荒れる風さえいまだあからさまに濡れ今敢えて頌に顯かせば濁った水の中を走り

  飛び上がる

 背後で立てる

  飛びあがり砕け

 女の聲は

  散る飛沫

 左の斜め後ろにとばされ

  しぶきあげ

 あとかたもなく

  足元に

 女の爲に

  太ももまでもぬらしながら

 聲をあげた

  脇腹までもぬらしながら

 わたしの聲は

  急激に

 疾走の

  冷やかさをだけ

 速度を超えて右の斜めの先の方へ

  兩手の指は

 あとかたも

  もうすぐで

 ひとかけらもなく

  こごえ震える

 笑っていた

  もうすぐで

 背中に笑った

  複雑な

 女の腹部の

  キ音をひたすら

 搖れ搖れる搖れの

  さまざまに

 さゞめきがあった

  するどく鳴らす

 音はどこに?

  足元にタイヤは

 倒木に

  水の下で

 叩く風、風鳴る

  キ音をこすり

 振り向きざまに

  きしませるように

 水滴が飛び

  タイヤは鳴らす

 叩く風、風鳴りうなり

  危機的な

 耳を打ち

  笑えるほどに

 なぶるようにも

  危機的な音

 耳を叩き

  危機のノイズ

 女の名前もすでに忘れた

かくに記憶する。水没したのはほんの数十軒程度だけだった。大通りに出ればただ水浸しの色も無い水が綺羅ゝにうすく綺羅めくばかりだった。綺羅めきをタイヤに跳ね飛ばし飛沫を叩きつけながら町を走った。風はいやがうえにも激しかった。数分飛ばして橋の向こうに来た時に雨がふたゝびふり始めた。雨具の用意はすべてゴックのスクーターのなかだった。バイクを止め、帰ろうか。言いかけたときには豪雨が一気に私たちを襲った。瀧のような。事実、身体的な危機を感じるほどの。空間が眼の前で光った。雷が鳴った。文字通り、大気がひび割れた轟音を私は聞いた。耳は瀧の轟音の果ても無い無際限に、ただ飛沫を散らすにすぎなかった。今敢えて頌に顯かせば

 とどろく

  とどろく轟音を

   わたしは聞いた

    そのすさまじい

 巨大な轟音

  とどろく

   とどろく轟音を

    降りしきる

 白濁の豪雨

  その轟音のざわめき

   それさえも叩き

    叩き潰して

 とどろく

  とどろく濁音

   すさまじい轟音を

    雷に

 地球がなった

  とどろく

   とどろく轟音に

    地球は今や

 楽器に化した

  鳴り響く

   不意に気付く

    ほんのちいさな

 果ての外れ

  地球の果ての

   ほんのちいさな

    ちいさな空間に

 空がわずかに

  こすれ鳴り

   かすれ響き

    それだけで

 これほどの轟音

  とどろきの

   これほどの轟音

    とどろいて、ならば

 とどろく

  とどろく轟音を

   例えば笛のように

    管のすみからすみまでも

 鳴り響いて躰ごと

  笛のように

   鳴り響きったその時は

    笛のように

 地球の全部

  すべての空が

   鳴り響き

    すべての地表が

 鳴り響き

  すべての山が

   鳴り響き

    すべての海さえしぶきあげ

 すべてがまさに

  鳴り響いたなら

   とどろく

    とどろく轟音を

 どれほどの

  どれほどの轟音

   どれほどの

    すさまじい轟音が

 眞空の周囲

  わずかな大気の

   震え砕ける

    その一点にだけ

 砕け散るまゝ

  とどろく

   とどろく轟音、どれほどに

    鳴り響くだろう?

 焦がれる

  とどろく

   とどろく轟音

    わたしは焦がれる

 白濁の

  豪雨の中に

   空間が光る

    とどろく

 とどろく轟音

  わたしは焦がれる

   光りとどろく

    とどろく光る

かくに記憶する。凍えはじめた手に無理やりハンドルを切って、踵を返しかけたとき豪雨の白濁に視界を失った一代のバイクがタイヤの鼻先をかすめた。乘っていた人のかたちも、まして男か女かなど見えもしなかった。おびたゞしい撥ね散る白濁に視界は水浸しだった。雨に堪えられずふかしたエンジンの、前も見ない疾走の上、橋の上に垣間見た河は一瞬の、すさまじい泥の濃い濁流のひたすらな濃度に過ぎなかった。路面を水流が流れ散り飛び、雷が罵声じみて蔽いかぶさって鳴った。…淨土、と。

思った。

ことごくを今、泥水があらいながす。

まさに淨土。

土色の濁流が洗い淸め視界は豪雨の果ても無き玉散りの白濁。

淨土。

 きらゝきよらに

 きよらかきらゝ

 きらゝきらきら

 きらゝいできら

2020.09.19.













Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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