短編小説。修羅ら沙羅さら。綺羅らぎの淨土8
新型コロナ・ヴィルスを背景にした神話あるいは私小説。
雜篇。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上、お読みすすめください。
かくに記憶する。レ・ティ・イェンの部屋に行ったとき、わたしが断りも無く顏をだしたので、ドアを明けた慌てマスクの彼女はいきなりの逆光のひかりに目を細め、同時に目を疑い、同時にすでに驚いていて、そして最後にあからさまに歓喜をさらした。清楚な、整いはしても無残なまでに地味な顏だちだった。肌は白く、あるいは冬の日本人よりも白く、そしてなげかわしいほどにか細い首は長かった。日本語はだれよりも上手だった。ハノイのコンビニで雇われ店長をしていたと云った。ハノイのそれは彼女が一般的なベトナム人平均よりも世界常識を知っていることを意味する。又、英語が堪能で、外国人馴れしていて、この国には抑々存在しないサービス・マナーを知っいて、且つ金銭管理商品管理もできる、ということをも。だれも彼女の資格失敗の理由がわからなかった。いずれにせよ、失敗の次には彼女はわたしの傍らで日本語教師でも当座は続けるのを選んだ。わたしは彼女がわたしに縋りついたのを意外に想った。そんなそぶりは、気配だにもなかった。グイン・ヴァン・ナムと別れた後で、必ずしもレ・ティ・イェンの家にしか行く得るところがなかったわけではなかった。わたしはいずれにせよ美しかった。事実それなりに加齢して、八十歳で死ぬとしたもう半分以上生きた今でも女に不自由はなかった。女は家畜のように素直にわたしを焦がれて見つめるか、ないし、複雑な翳りを以て目をことさらに逸らすか、ないし、自虐的な熱気を以て犯罪者を見るかの眼で糾弾の眼差しをおくるか、そのどちらかだった。精神さえもない、と。時にわたしは彼女たちに想った。本能と、性と、そのカルマじみた当然的・論理的・必然的・自動的反応をさらすだけの、単なる心理機械の作動体たち。レ・ティ・イェンはドアを開きざまにわたしを見て、そして見つめ、何か言いかけ、ややああってまた見て、そして見つめ、またなにか言いかけて結局、そして三度目に見て、猶も見つめたあとに、なにか言いかけたレ・ティ・イェンに、わたしは彼女の爲だけにほほえんでやった。今敢えて頌に顯かせばなにを?
泣きそうな
なにをあなたは
いまにも
なにを?
いまにもまさに
ささやくの?…なにを
泣きそうな目で
ささやきかけながらなぜに?
泣きそうな
あなたはわれをわすれてそこに
いまにも
なにを?
いまにもまさに
なにをあなたは
あなたがみとれた
なにを?
一瞬の
やわらかく
わたしの頭上に
ひらかれた瞳孔はくらく
その鳥は
ただくらく
鳴いたのだった
ちいさいきらめき
みじかい三聲
その
鳴いたのだった
それらの点在
聞かなかったのだった
みいだされていた
あなたはむしろ
あなたのみつためた
わたしにみとれて、あなたのしらない
ふうけいのなかに
まなざしの上で
わたしは軈て色褪せながら
鳥はそのとき
わたしは已に色褪せながら
鳴いたのだった
かくに記憶する。ドアは閉められずに日差しを投げ込んだ。近くに子供の声がした。ベッドに腰を下ろしたままに、私はレ・ティ・イェン見つめた。彼女が私の爲に日本のインスタント・コーヒーを淹れるのを水回りの翳りのなかに。わたしは思った。今、彼女の爲に発情して、そして彼女に、まさに彼女の爲だけに飢え、貪るように彼女を求めるべきだろうと。彼女は二か月ぶりの私の方にただ喜々としていた。わたしは背後から彼女を抱いた。手首をつかみ、コーヒーを淹れる手を邪魔し、自由を奪った。首をよじった返り見の微笑に、わたしは殊更に激しく唇を奪った。わたしは彼女を連れ込んだバストイレの水の臭気の籠ったくらがりに、壁に手を附かせて、後ろから彼女を奪った。彼女たちに、それが極端に凌辱的で、恥のある、羞じ知らずな行為であると知っていた。あるいはわたしには嗜虐があったかもしれなかった。彼女の爲にだけ息をあらゝげた。故意のそれは故意でなく噎せた。レ・ティ・イェンが痛がり、背を山なりにし、それが嘘である事には気づいた。レ・ティ・イェンの頬に淚が流れた。今敢えて頌に顯かせば見た
匂いがしていた
見開いたままの
水の匂い
顯らかな
腐りかけの?
眼差しの中に
水回りの
くらい水
水の匂い
水面のくらい
鳥肌だった
澄んだ果ても無い
レ・ティ・イェンの丸まる背中は
水面のうえに
肌を匂わせ
ひろがるそれ
髪さえも
それは波紋
繁茂の髪の
なにも落ちはしなかった
黒光る髪の
ただ一粒の
匂いさえも
水滴さえも
覆い隠して
水面に落ちはしなかった
鼻の近くに
みなもふるえて
いまや
ふるるとみなも
水は匂った
みなもふるえて何が?
まさに
と
水は匂った
何が水面を——下
腐ったように
水面の下に
透明で、色も無いまま
水滴は落ちて
腐ったように
波紋を拡げたに違いない
水は匂った
見た
すでに乾き
見開いたままの
一滴だにもしたたらず
顯らかな
濡れた黒味もない水回りに
眼差しの中に
あざやかにもいま
音さえもなくに
水は匂った
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