短編小説。修羅ら沙羅さら。綺羅らぎの淨土7


新型コロナ・ヴィルスを背景にした神話あるいは私小説。

雜篇。

以下、一部に暴力的な描写を含みます。

ご了承の上、お読みすすめください。



かくに記憶する。病院を出たあと、私たちは外出規制の解けたばかりの町をバイクで走った。湾岸道路を通る。グイン・ヴァン・ナムはしきりに振り向き振り向き見しながらわたしに話しかけた。疾走し風成す大気の中で、ことごくは聞き取られずにかたちのない音に過ぎなかった。わたしは彼の爲に聲を立てて笑い続けた。

今敢えて頌に顯かせば吹かすエンジンの、その速度の中に

 風鳴りの またたくまにも

 過ぎ去れる 景色は流れ

 流れ去り 線と帶らは

 もはや色 色こそは

 色ら色めく 色のみは

 色づく色ら かたちだに

 なきそれら色 まさに色らの

 過ぎされるもはや 無き色らその

 須臾の色彩

 まばたく眼差しの一瞬にわたしは思う

 いつかすでに、これらの風景は見たとも錯覚したままに

 すでにみきこゝろにこゑしまさにみき

    かたちもいろも

       すでにほろびき

かくに記憶する。その日、グイン・ヴァン・ナムがわたしを家まで送って立ち去った時に、家の中には義父しかいなかった。妻の名を云い、しきりにわたしに彼女の外出の理由を説明していた。わたしは振り向きもしなかった。わたしは彼を飽く迄嫌悪していた。聞く耳も持たずにわたしは自分のバイクで家を出た。彼は妻に、もしも不在時に彼女が帰ってきたとしたら、その不在に憤慨して家を出て行ったとでもいうに違いなかった。それでよかった。わたしは公道にバイクを出してから自分がどこに行こうとしているのか、行くべきなのか、そもそも行き得るのか、道を探った。今敢えて頌に顯かせば心外だ、と

  きらめきの

 義父は頸をすくねて震わせる

  ひるさがりの光のなかに

 目を剝いて

  すべてのものは

 上半身の筋だけこわばらせ

  翳りのなかの

 心外だ、と

  あわいくらさのなかにだけ

 義父は唇をへの字に閉ざし

  それみずからの

 目だけを剝いて

  色をさらした

 心外だ、と

  翳りのなかに

 あなたの心もおそらくは

  色をさらした

 すでに知っていたのだった。自分のまさに

  ひなたのきらめく

 失敗だった人生のかたち

  きらゝのきらめき

 心にだけは

  きらゝぎに

 気付かせはしないままに

  すべての色は毀された

 顯らかに

  すべての色は崩された

 心外だ、と

  あとはただ

 義父は不意に沈黙し

  音も立たないしずかの

 肩を怒らせ

  眩み

 首をふるわす

かくに記憶する。わたしはその日、レ・ティ・イェンのアパートに行った。クアン・ナムに近づいた僻地にあった。それは貧しい住宅だった。そしてそれはごく一般的なクオリティだった。シャワーに温水器は無くて、トイレは中華式のしゃがむ水洗で、台所を併せた水回りはすべて居室の一角に押し込めらて、その上の熱気の籠るロフトは物置に使われた。部屋はベッドを置けば、あとは殆ど通路の用しかたさないスペースしか殘らなくなる。それらが十部屋づつ平屋に三棟ならんだ。庭は美しかった。原野というべき、そのままに樹木に茂って自由に翳りと籠れ陽とをさまざまに散らした。レ・ティ・イェンは近くの日本語学校でアルバイトをしている筈だった。所謂送り出し会社の元生徒だった。その会社にわたしも教員として在籍したから、つまりは私の教え子だった。2020年はコロナ禍で、多くのベトナム人たちが苦労して所得した在留資格だけを手に母国で暇をつぶした。いつ日本へ行けるか判らなかった。レ・ティ・イェンには関係のない他人事だった。去年、…コロナの前の十二月の頭に、彼女は三度目に資格所得に失敗した。最初にハノイの違う会社で二年前に一度。一年前にダナンの会社で一度。同じ会社で、慎重に、しかに結局は失敗。三度拒否されればそのものはもう二度と日本へは行けなくなる。すくなくとも単身労働には。妻帯でもされゝばたぶん違うのだろう。日本の法律は常に日本人にだけやさしく、外国人には懐疑的にできている。それをあしざまには言えないだろう。なぜなら日本國とは所詮日本人の爲の国家であって、そこで生きる、ないしそこで金を稼ぎたい外国人の爲には存在していない。それを嫌だと謂えばそもそも国家自体が成立しない。国家自体の正当な限界を過ぎた、そうではない別の風景が見たければ、自然、既存国家統治システム以外の他なる集合体理論を用意し、既存国家組織を破綻させなければならない。わたしは去年の十二月に、失意のレ・ティ・イェンを日曜日に抱いた。今敢えて頌に顯かせばその失敗を

  おしっこもらしそう

 知ったその日

  サン先生はささやいた

 その夕方に

  わたしの背後に

 午後の深い翳りのななめの樹木のななめの翳り

  耳の至近に

 わたしは失意の

  おしっこもらしそう

 レ・ティ・イェンを

  三十半ばのやさしい先生

 お茶に誘った

  ハンサムなサン先生が

 午後の深い翳りのななめの樹木のななめの翳り

  わたしにだけに

 路上に開かれた

  むしろ笑み

 簡素なカフェで

  引き攣って笑んだ

 そこの叔母さんさえしきりに

  彼女の顔に

 レ・ティ・イェンの

  階段の横の

 その赤裸ゝな失意を

  翳りの中に

 現地の言葉で慰めた

  半分だけ日に

 午後の深い翳りのななめの樹木のななめの翳り

  きらめく顔に

 コーヒー一口で

  おしっこもらしそう

 顔をあげたレ・ティ・イェンは

  ショックで、いま

 飲んだくれて酔いつぶれた

  おしっこ、たぶん、もらしたよ

 午前にまたいだ人のような

  歎きを知った深い聲で

 そんな虚ろな目をさらし

  サン先生は、…レ・ティ・イェン

 午後の深い翳りのななめの樹木のななめの翳り

  告げられた失敗に

 わたしは彼女の家まで送った

  立ち尽くした侭の

 全寮制のその学校の

  レ・ティ・イェンを見ながら言った

 規則は彼女に適応されず

  耳元に

 彼女

  はかれたかすかなサン先生の

 経理の女の知り合いの学生

  息の音を、わたしはひとり

 レ・ティ・イェンは茫然と

  彼が笑って、笑って息を

 バイクを学校に残したままで

  吐き捨てたのだと

 わたしのバイクの後ろに乘った

  返り見ないままわたしは思い

 午後の深い翳りのななめの樹木のななめの翳り

  レ・ティ・イェンは階段のわきの

 部屋の寝台に座り込み

  淡いかげりで午前十時

 その一瞬の、虚脱の須臾の腰砕け

  自分の三度目の失敗を

 帰ろうとしたわたしにつかむ

  事務のロイの口から聞いた

  その左手の

  むしろ笑み

 握力だけは正気を保ち

  引き攣って笑み

 午後の深い翳りのななめの樹木のななめの翳り

  あくまでも笑み

 夕方の日はすでに紅蓮

  レ・ティ・イェンは







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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