短編小説。修羅ら沙羅さら。綺羅らぎの淨土4
新型コロナ・ヴィルスを背景にした神話あるいは私小説。
雜篇。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上、お読みすすめください。
かくに記憶する。グイン・ヴァン・ナムと私は同い年だった。最初に土地測量師レ・ヴァン・コイの家の飲み会で逢ったときにその話で盛り上がった。おたがいにたどたどしい英語、…よく知る専門用語の特殊かつ個人的な応用にばかり傾きがちなおそろしく畸形化された会話、…あくまで独自言語で。カフェの中でナムが話すのはその十三になった息子の将来の話だった。英語は既に勉強させている。だから此れから日本語を勉強させるつもりだ。なぜなら、日本は優れたいい国だからだ、と、それら、さまざまに日本人向けに、意識するともなくに日本人を眼の前に自然殊更に煽らせるしかなかった所謂親日的な愛好心の発露のさまざまを、みずからの冗談に好き放題に戯れるようにおしゃべりのナムは身振り手振りにも披露して、本心じゃないでしょ?わたしは心にそう思いながらナムに同意し、日本人としてナムに感謝し、あなたの話していることは、と。嘘をつかないままにあなたは今確実に嘘を。わたしは心にそう思いながらナムとともに笑い、日本人としてナムに感謝し、なぜなら、と。あなたが一番愛し、まるで洗脳されたかのように親しみ尊び続けているのは他ならないあなたの国そのものなのだから、と。グイン・ヴァン・ナムはほかのベトナム人の大半のように赤裸ゝな愛国者だった。だいたい、母国に懐疑的なベトナム人の典型は知れ切っている。日本語検定試験のN2以上の所得者で且つ日本に留学した経験がある青年層か、ないし韓国ポップにかぶれ切っている若年層かのどちらかだ。今敢えて頌に顯かせば
殴られたんです
日本に帰りたい
そのベトナム人の男は云った
女がささやく
日本で?
チャン・ティ・マイというその名
埼玉…新聞の配達
茫然と、不思議なほどに
殴られたんです
茫然として
その三十前の男は云った
なんで?
いつかのカフェの隣の席で
彼女は勤めた送り出し会社の
いきなり返り見
教育部のトップだった
わたしの話す日本語を盗み聞き
だって、すごくいい国じゃないですか
いきなり笑んで
チャン・ティ・マイは邪気も無く笑う
殴られたんです
帰ればいいじゃない?
日本人に?
帰れないですよ
違います。日本人はいなかった
なんで?
いても、時々
在留資格、うるさし。それに
誰に?
なに?
中国の人
つぎに行く時は旅行でいきたい
日本人は、やさしいから
…今ので、の使い方。OKですか?
あなたに、やさしかった?
行けばいいじゃない
いつも怒鳴る。けど、やさしかった
ビザがうるさいし。それに
そのベトナム人の男は笑った
東京みたいに
わたしは彼に言うべきだった
静かすぎるのは違うと思うし
あなた、言葉、話せる?
…今の違う、の使い方。OKですか?
矛盾だよ
ベトナムみたいに、うるさすぎるのも違うし
つじつまさえも、あってないよ
みんな、つめたいでしょう?
嘘つきの兆しさえなく
おとこの人
素直なままに
みんな、気が利かないでしょう?
そのベトナム人の男は云った
…今の気が利かない、の使い方。OKですか?
日本、いい国ですね
いじめられたんですよ。日本で
日本人には殴られなかった?
職場で?
殴られたよ
工場の通訳じゃないですか
日本、みんな、殴るね
妬くんですよ
そのベトナム人の男は笑った
…今の妬く、の使い方。OKですよね?
なんでなの?
みんな、おばさんが
日本は、みんな、みんな、殴るね
社長とずっといっしょだから
なんでなの?
かわいいから?
そのベトナム人の男は云った
日本語めっちゃ上手ですですね
日本人?
…めっちゃ、って。こういう使い方ですよね?
そう…日本人
日本のおばさん、難しいですよね?
日本人は、親切だね
…今の難しい、の使い方。OKですか?
そのベトナム人の男は云った
かくに記憶する。喫茶店の中でグイン・ヴァン・ナムは私の耳にさゝやきかけた。あなたはをこれから親友のところに招待しよう、と。あまりに突然だったので、いまさらにわたしはグイン・ヴァン・ナムの顏を見た。グイン・ヴァン・ナムが稱する親友はわたしもふくめて大量に存在した。正確にはその言語、英語のBest friend、かならずいつも単数形、おそらくはベトナム語に於けるBạn tốt、その逐語訳、だから彼は正確には親友の一人と紹介するべきだったにちがいなかった。そう思った。唐突にグイン・ヴァン・ナムは眼差しを暗く昬らませた。前触れのない翳りに思わずわたしは彼が何か特殊な告白でも始めるのかと思った。次の言葉を待った。グイン・ヴァン・ナムはわたしをだけ見つめつゞけた。顯らかに歎いたひたすらな色の眼差しをさらし続けた。…知ってるか?
あした、月が南太平洋に墜落するんだ。
勝手に彼の目にそんな言葉を与えたわたしの心の隙の一瞬を穿って、グイン・ヴァン・ナムは立ち上がりながらさゝやく。行こう、と、——Đi、と、そのベトナム語で。今敢えて頌に顯かせば
あしたに月は
恥ずかしくなるほどに
砕けるだろう
羞じらいだになく
立つべきだった
彼はわたしを見つめたのだった
鳴り響くべきだった
何秒も
すさまじいその轟音を
十秒と
眞空のなかに
数秒のうちも
静寂のうちに
聲もなく
砕けた月は
耳は聞いた
墜ちるだろう
右の背後に
無数にも
スマホの音楽…ベトナム語
空を埋めつくす
左の背後に
流れ星の色
フォークの皿をこする音?
最期の時に
ざわめきとさえ云えないほどの
猨は樹木の
さゞめく音ら
上に見上げた
羣れて叢らがり
かくに記憶する。わたしは彼のバイクの背に、ダナンの市街地を抜けていく風景の中で思っていた、どうせ町の外れの酪農地帯に技術大学時代の同窓生の鄙びた住宅(…大抵は鷄か豚でも飼っている。)に連れて行くものと。たぶん息子が誰かが日本語を勉強しているものと。乃至いとこの息子は日本に留学、あるいは労働してるものと。予測は外れた。再開発途上の買い上げだけされた更地の広大な原野(…まだ、なにも無い、という意味で)の只中にそびえ立った病院の不意の大建造物。片側三車線の大通りの見事なココナッツの街路樹の葉だけを鳴らす音響の向こうに、そこだけ破壊を免れたかの巨大なビル羣の敷地に入っていった。樹木の翳りを潜った。顯らかに新型コロナ・ヴィルスの影響。駐車場に入るにも検問じみた体温測定と聴取とを通らなければならなかった。防御服というのか。その青い雨合羽風のビニールに(見えない雨が)、彼等と(…目には見えない)来院者たちの(それら、雨が…)爲のテント三つにざらつくさらさら音を立てながら二十人近くで近くで彼等は検疫した。彼らが指しだす体温測定器にヘルメットをずらした額をさしだす。彼女らはしげしげと見るでもない。馴れた手つきで流されて次の検疫官がアンケート用紙を片手に質問する。人なつっこくグイン・ヴァン・ナムが彼女に見舞いの詳細を語り(…のだと思う。彼等のベトナム語はわたしにはXáoのひとことしか理解できなかった。即ち、ひどい、と。)唐突に検疫官は目をことさらに翳らせて、いまゝさに誰かをなじらなければならない、そんな色をさらす。グイン・ヴァン・ナムは甲高い笑い声を立てる。邪気のかけらもない。いずれにせよグイン・ヴァン・ナムとわたしたちは検疫を通過した。今敢えて頌に顯かせばまるでその日いきなりに
むごたらしいほど
そこだけ戒厳令がしかれたように
くすんだ青の
まるで野に
青い防護服
見えない獸が放たれたように?
日差しの下に
息をひそめるでもなくて
白濁を散らし
背後の方に笑い聲が立つ
その女は
叢がって
ひとりで日差しの下に立ち
眼の前に
病院の
防護服の女は眉間をしかめた
ビルをかすめた向こうの方を
斜めの前に
なぜか見ていた。ひとりで
手袋の儘マスクの内に
彼女は
指を突っ込み頬を掻く
日差しの内に
笑った。背後でふたたび
白濁を散らし
防護服の
なにを?
ざらつく音はさらさらと
なにを?
しきりに空間のどこでも鳴り
あなたは
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