修羅ら沙羅さら。——小説。78
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上、お読みすすめください。
修羅ら沙羅さら
一篇以二部前半蘭陵王三章後半夷族一章附外雜部
夷族第四
かくに聞きゝ8月26日早朝壬生は夢を見キかくて頌して
空を見ていた
心さえ奪われていた
その芳香に
おそらくはあお向けているわたしの
空を見ていた
周邊にそれら芳香は甘やいで、そして
いやがうえにも甘く、ひたすらに
蜜の馨?…あまく
空を見ていた
なにが匂うのか、むしろわたしは疑いさえ無く
なにを心に探そうとするわけでもなくに
空は靑
空を見ていた
見るしかなかった。もはや眼玉を
右へ、ひだりへ、動かす纔かの力さえ
わたしにはすでに与えられてはいなかった。だから
空を見ていた
瞬きもせずに、その青い、ひたすらに眩む
逆光を、薰り立つ
甘やぐ芳香、耳に鳴る。鳥たちの
空を見ていた
無数の鳥たちのそれら、羽根の羽搏く無數の音ら、あまりにも
まぶしすぎて私は
感じた、網膜が
空を見ていた
痛みとともに燒けて行くのを。網膜が
痛みとともに干からびて行くのを。網膜が
痛みとともに變色するのを
空を見ていた
鳴り騒ぐ羽音ら、わたしは見ていた。靑の輝きに
踊る至近の黑い影ら、それら、恐らくは鳥たちの嘴が
わたしの眼球を抉ろうとした。だから
空を見ていた
むしろ、その向こうの青を、わたしは鳥の嘴の突き刺さる翳りの
黑い色の
一瞬を
空を見ていた
わたしは見ていた。その向こうに空を
嘴がささり、それ、黑い翳りの
向こうに空を。なんども
空を見ていた
なんどでも、深く突き刺さる嘴の、痛みと鳴り騒ぐ羽音のざわめき
匂い立つ
正体の無い甘い匂いの只中に
目を開いたまま
夢から醒めたように?ゴックは立ち止まった。まるで、——ゆめから。いまゝさに…そしてゴックは、…夢から、あなたは。我に返って、——ひとりで夢から、ひとりでに覺めたかのように、と。壬生は心にさゝやく。立ち止まったゴックはひとり、自分の息を整えようした。胸が揺れ、息はあららぐ儘だった。壬生は何度か鼻で笑い声を立て、短くだけ立った自分の笑い声を何度か耳に聞き、頭のどこかで反芻した。その響きを、ゴックは…やばい、と。
——疲れた…
吐きそう…と
——ね?
吐く?…と、…また?
——疲れない?
吐きそう、と。ゴックは想い、さゝやく
——大丈夫?
壬生は應えた
——俺?
——大丈夫そうだね
——疲れたの?
——疲れたよ
——辛そうだもん、と、ゴックは思わずに、…だって、妊婦だよ?そう言いかけて、我に返ったように、そして息を飲んだ。熱がある、と。ゴック思った。おもわずに掌を自分の額にあてそうになり、思い直し、すぐさまに額に手を当てた。息をあらゝげながらむしろ、皮膚は冷えて、おどろくほどに掌は、他人事じみた冷たさを感じた。——どうしたの?
壬生がさゝやき、今のソファの向こうから身を近づきかけた時に、
——疲れた…
思い出したようにつぶやいたゴックは壬生の眼の前を、すれ違いながら通り過ぎた。ゴックは外に出た。玄關の戸は、開け放した儘だったから、それをそのまゝ通り抜けて朝の、その日差しの直射に肌をさらし、誰かが鐵門の飾りの鐵の葉と花、花と蔦、蔦と葉のしろいそれらのかさなりの向こうから、肌を曝した自分を見出すかもしれない事は知っていた。知りながら、かならずしもその事實にはっきりと気づいた氣がしなかった自分の心を恠しみながら、心に恠しみがあったことにゴックは気付かない。壬生はゴックの、壬生にだけさらした背中のなめらかな筋肉と、贅肉と、骨格にながれる翳りの色の、揺らぐともなくかたちを崩してゆくのを、時におもわず自分の爪に指先でさわりがら、壬生は見ていた。不意に自分が失神したような實感があった。ゴックに、そして、…熱?
と、ゴックは、…熱が?
ふたたび今正に、自分が狹い庭の中で、狹い庭におびたゞしい翳りをなげおとしていく重にもかさねた樹木、その二本の並んだ向こうに、と。気付く。ゴックは見ていた。ゴックはまさにそれに気附き、まさに見た。白い門の、白い壁の飾りの切れ目の鐵のは葉と花、花と蔦、蔦と葉のしろい色彩、花ら蔦ら葉らの散亂その向こうを、ゴックは見ていた。ゴックはまさにそれに氣付き、まさに見た。道。道には向こうに、隣の壁が、そして植栽が、路上の照りあがった白濁。翳りの下に、色彩が不意の奔流を曝して荒れ狂い、樹木の?赤い椅子…プラスティックの?そしてバイク。二台の黑と白、と…熱?
と、ゴックは、…熱が?
ゴックが力尽きたように、尻から地面に座り込むのを、壬生は見ていた。すぐさまに土の上に、仰向けて横たわったゴックは両腕に顏を隠した。目を保護しようとしたかのように、…日影。ゴックが横たわったそこに、たとえ目をあけて正面を見ても、そこには樹木の茂った葉のさまざまの、木漏れ日さえないことを、壬生はその目に知っていた。かくて偈に頌して曰く
わたしは覺えている
覗き込んだ
ベランダから下を
知っている
部屋の中からは、たとえ十二階でも
必ずしもそこが
地上をはるかに離れた上空だとは
眼差しは気付かない
まるで地上にいるかのように
一變する風景
ベランダから下を見たときに
顯らかに
すでに知っていた事實を
眼差しは告げられて
眩む?
高さに?
もう十分近く立っていた
そう思った
久生がそこから
消えてから
消失
まさに
消滅…消滅?
滅びはしない
ベランダの下に、そこにまだ
大半の細胞は
その機能を失いながら
いまだに息づいていた筈だった
すでに死に
死に絶えるには早すぎる
すでに死に
もう久生は
その十分くらい?
茫然としては居なかった
まるで卑屈な裏切り者?
わたしはむしろ
卑怯な僞善者?
奇妙に廣がる安堵
わたしは彼女を裏切った
安堵?
まるでなにもかも
私の人生すらもが?
息絶え、行きつき、行き止まって安息
私の人生さえもが終わり、すべて
片付いた後の、終わり果ての風景を見るように
そんな終わりの向こうに、向こうに、向こうに
いわば彼岸?
わたしは安堵していた、その
安堵にした自分にむしろ
もはや
もう?
そんな終わりの向こうに、向こうに、向こうに
いわば彼岸?
感じられた倦怠
皮膚の内側をすりむかれたような?
糞まみれの豚ども
吐く…息を、わたしは…
我に返った氣もしないまま
そんな終わりの向こうに、向こうに、向こうに
いわば彼岸?
何を確認するために?
ベランダに
母の、母の、母のあとを追い?
出た瞬間の——光り!
明るさに目が
光り!
眩む一瞬の、そんな終わりの向こうに、向こうに、向こうに
いわば彼岸?
私は未だに茫然としたままで
なんら、なんらの混濁
私は、にも拘らずに、冴えた…
なんら、なんらの混乱
ただ
悲しみよ!
醒めて冴えた…覚醒感?
飛びたった!悲しみよ!
わたしは外気に、そして外の音響に一気に身をそんな終わりの向こうに、向こうに、向こうに
いわば彼岸?
身をさらしながら
飛び立った!
奇妙な迄の静けさ、なぜ?
人が一人飛び降りたのに?
光り!
眩む一瞬の、そんな終わりの向こうに、向こうに、向こうに
いわば彼岸?
私は未だに茫然としたままで
わたしは覗き込んだ
覗き込み、吸い込まれるような
まさに吸い込まれるような
上空の風
わたしは
吹け
気が遠くなる感覺の一瞬
吹け上空に、その上空の
終わったの?
やさしい風たち
あなたはもう、終わったの?…と
死者たち
壁にへばりついた
はるかな下に、その路上
肉、極彩色の
アスファルトの上に
死者たち。それら
見出された
不滅の
人だかりは
玉散る
なぜなぜこんなに、なぜなぜこんなに
久生の死んだ——砕けた、不意の、誰も予想だにしなかった不意の
吹っ飛んだ?
死躰が落ちてきた、死体の
吹っ飛んだ?
叩きつけられて死んだ死體の…生きていた
彼女は部屋では、ここではまさに
死んだ肉体を取り圍んだ人々
人、ひと、そして
聲もなく?
なぜ
頭。かれらの…
なぜなぜこんなに、なぜなぜこんなに
まさか心に混乱は
靜かなのか?遠い底に
冴えて
底に
醒めて
突き当りに
醒めて
叩きつける重力…重力の
さめさめ冴えて、そして
血まみれなのか?
私の混亂、思い乱れたわけでもない
血まみれなのか?それさえ…それさえ…
ひとりだけの、わたしの
聲
とおくにだれかの、だれもが、だれかが、そこ
底で立てていた聲が
聞こえるように
聞こえて仕舞ったかのように
十人ばかり
サイレンの音
救急車の…誰が?
誰がまだ、その死人がいきているなどと?
のぞきこみ、わたしは見ていた
まさか、だれが
哀しみ?やがて…と、思う。わたしは
だれがまだ生きているなどと?
哀しみを感じるに違いない
どこのだれが?
心が落ち着いたら
彼女…母の
彼女の爲にだけ
と
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