修羅ら沙羅さら。——小説。74
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上、お読みすすめください。
修羅ら沙羅さら
一篇以二部前半蘭陵王三章後半夷族一章附外雜部
夷族第四
ゴックが聲を立てて笑った。壬生はそれを聞き、振り返り見たときにはゴックはすでに笑った聲の残滓だにもなくて、窓を背にした逆光に立ち尽くして壬生を見、そしてゴックの蟹股を壬生は見た。ゴックは明らかに歎くような眼差しで壬生を見ていて、壬生はその足元に白い蜥蜴が一匹だけ、伺い窺い這うのを見た。壬生は、…いとしいひと、と。
かなしいの?
愛しい人
かなしいの?
と、ゴックは、あなたは今、と
かなしいの?
なぜ?
かなしいからかなしいの?と、ゴックは心に、そして壬生は見ていた。這い、匐いかけて立ち止まり、立ち止まって首を纔かにも動かしもしない儘にその眼球にだけ周囲の上下、周囲の左右、周囲の前後、あるいは四維を見て伺い、見て窺う、その蜥蜴の眼。蜥蜴は不意に、…まるでいま、と。
その眼差しの、はっきりとは見つめない端のほうに
見つめていたなにかを——足を?
わたしの足の
爪のピンク色を、とゴックは
はげかけた装飾
見つめながら
ラメのあるの装飾
あなたは爪など見向きもしないで
爪の装飾
まなざしの決して
三日前に自分で塗った
見てはいなかった
爪の色、その色の
わたしをだけを
光澤。千ゝにきらめく
見つめていた、と、這い、匐いかけて立ち止まり、立ち止まって首を纔かにも動かしもしない儘にその眼球にだけ周圍の上下、周囲の左右、周囲の前後、あるいは四維を見て伺い、見て窺う、その蜥蜴の眼。蜥蜴は不意に、笑って、と。
ゴックはさゝやく、その、…笑ったら?(…時には)
喉の奥に、心にだけ、…わたしの爲に
わたしの爲にだけ
笑ったら?(…時には)
わたしに見せる爲にだけにと、ゴックはさゝやき、這い、匐いかけて立ち止まり、立ち止まって首を纔かにも動かしもしない儘にその眼球にだけ周囲の上下、周圍の左右、周囲の前後、あるいは四維を見て伺い、見て窺う、その蜥蜴の眼。蜥蜴は不意に、——太った?
思い出したようにゴックが云った。壬生はすでに彼女の眼を見詰めて、ただ、その昏い眼差しを危ぶみながら、——ね?
——なに?
——太った?
兩手を広げて見せたゴックの裸身は逆光の中に削られてむしろ、豊滿な肉をさえそぎ落とし、瘦せさらばえた印象をだけなげて、だれよりも、と。
壬生は思う、あなたは今、と、壬生は
ひとりであなたは
と
もはや何の希望さえないかの眼差しに見た
と、聲を立てないで、ゴックの爲にだけかすかに笑んだ壬生をゴックは猶も見ていた。息遣った瞬間に掻きあげられて、めくれあがっていた前髮のわずかが、おともなくたてゝ落ちた時に、壬生はその毛先が立てたはずの見えない飛沫の玉散るのを想った。かくて偈に頌して曰く
大津寄稚彦が死んだ後で
北浦渚が
私の所爲で?
その娘
彼自身の所為で?
郁美と和美に虐げられ
わたしは代々木に移った
辱められて
その四丁目の
涙をこらえて
代々木八幡の近くの髙臺に
処刑の日に
十四歳のわたしは久生と住んでいた
涙をさえ失って
わたしと久生を
最後の言葉をつぶやくような
恵美子の弟が引き取った
叱責の聲をわたしは聞いた
北浦隆俊という名の
部屋の向こう
いまだ五十をすぎたばかりで
壁の向こうの
髪の毛の見事になくなった彼は
彼女たちの今に
まるで在家の沙門か不良の僧侶に見得た
甲高い聲にささやかれた
電源開発の會社で
叱責の聲を聞いた
原発の開発に従事した
渚はいつも
放射のせいで?
自分こそが
その黑ゝと伸びた眉と睫毛
犠牲者だったように叱責した
放射能のせいで?…まさか
渚はいつも
東京の本社で
自分こそが
あやういことには
まさに悲惨のただなかにいると
金の不始末以外の一切に手を貸さない儘に
自分の心にだけ
放射能のせいで?…むしろ燒き盡されてしまえ
その事実をかみしめうつむいたように
坊主あたまに
彼女は娘達を叱責した
落書きをする夢を見た
泣き声を聞いた
例えば口から巨大な像を咥えた
郁美と和美の
蠅の一匹の落書き
すすり泣く
一年だけ一緒に住んだ
泣き声を聞いた
彼の購入したマンションで
郁美と和美の
自分の一階上の
喚くような
最上階近くの小さな部屋が
非議を訴えたかのような
中古で売り出されたときに
泣き声を聞いた
指値して購入した彼は
郁美と和美の
その日当たりのいゝ部屋
やさしい母親
十二階の
三十をようやく超えた
下にざわめく音響など
岡山生まれの
なにも傳えずに静かな部屋
やさしい母親
夜、横たわった
いつでも洋食と
ベッドの上で
具だくさんの味噌汁を作った
車の通り過ぎる音をだけ
わたしは聞いた
耳の近くに鳴らせた
叱責する
わたしと久生はその部屋に放置された
犠牲者の壁づたいの聲のこっちで
夢のような
わたしと久生の
室内より広いルーフバルコニーに
ふたりの爲に
植栽を広げた
用意された和室の畳の上で
夏に極度に
久生の喉が立てる
暑苦しくなる部屋
音声
北浦渚がわたしたちを忌んでいたのを
敢えて隆俊はなにも云わなかった
わたしはすでに赦していた
尋ねさえしなかった
むしろ
まして
二人の幼い子供を抱えた彼女の
非難など
心の内を
大津寄稚彦の死について
わたしは憐れんだ
敢えて渚はなにも云わなかった
七歳と五歳と
尋ねさえ
夫に二十歳も離れた渚は
慰めさえしなかった
毎日六時に歸ってくる
まして
彼女の夫に
糾弾など
わたしと久生の身の上を案じた
大津寄稚彦の死について
わたしたちを忌み
郁美と和美は
わたしたちを排斥しようとは
大津寄稚彦の死など
言葉の端にもにじませないで
知りもしない筈だった
わたしたちを憎み
ないし
あるいは恐れたその心の不安は
ひそめられた夫婦の会話で
言葉の端にもにじませないで
子供たちの
當たり前だとわたしは思った
おさない無知を確信した
わたしは危険な人間だった
傲慢な無防備のせいで
彼女には
ひそめられもしなかった会話の中で
わたしはあやうい人間だった
郁美と和美は
彼女には
あるいは
そして久生は
知っていたに違いなかった
濁音で
その耳と
人の唇が
その
はじめて唇に知ったに違いない
貪欲な
聞いたことも無い音響で
容赦もない頭脳で
ほゝえみながら(…あくまでも)
彼女は知りもしないことへの
久生は(…ほゝえみながら彼女は)叫んだ
妄想にさえ色取らせながら
久生は(…咬みつく)喚いた
大津寄稚彦の死を
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