修羅ら沙羅さら。——小説。51


以下、一部に暴力的な描写を含みます。

ご了承の上、お読みすすめください。


修羅ら沙羅さら

一篇以二部前半蘭陵王三章後半夷族一章附外雜部

夷族第四



バスルームの扉を開けた時壬生はそこに匂いが充満していたのを感じて弱音。おどろくほどの。そしてあえてのけぞりもしなかった。他人の躰の中の内臓の弱音。おどろくほどの。乃至そこに溢れかえった躰液の匂いを想わせて室内は臭気に倦み弱音。おどろくほどの。籠る濕氣た匂いに温度さえ感じられた。扉をあけた瞬間に停滞した臭気が弱音。おどろくほどの。それでも一氣に外気に觸れて清凉さに薄められた。そのあからさまな一瞬の存在にはに気附いた。猶もひたすらに匂った。扉をあけても聲、弱音。おどろくほどの。そのくゞもった、喉のならす音聲の已むことはなかった。ふりむきもしない。音声は室内に響きさえせずに、弱音。おどろくほどの。便器の周りにだけ小さくなっていた。そこにしか音が存在しないように弱音。おどろくほどの。感じた。壬生は嘘をつかれたように思った。コンクリートの壁と、鐵の扉の向こうにまで漏れて顯らかに聞こえつづけたそれは、耳を澄まさなければ聞き取れもしないほどにしか、そして匂いと音のさざめきの中に、ゴックは膝間付いて尻だけを突き出し弱音。おどろくほどの。便器を抱えて吐いていた。壬生はゴックが壬生の、彼女を見つめているまさに壬生の存在にさえ氣づいていない事實を確信し、ゴックは吐いていた。わずかの吐瀉物は弱音。おどろくほどの。音をさえ立てなかった。唇だけが濕めった音を立て、雪菜のように、と。壬生は弱音。おどろくほどの。吐くゴックが胃液をだけようやく吐いて、そして唇の糸をひき埀れる儘に任せているのを感じ弱音。おどろくほどの。汚くないよ、と。

わたしは、…と。

ゴックはさゝやく、そこに、背後に、扉を開けたのが壬生以外にはありえない事を感じ、すでに壬生を感じ終わってゴックは壬生を感じ、そして感じ切り、まさにまざまざと感じ切り切ってゴックは

愛してる

さゝやく、心に、…穢くないよ、と、心にだけ

さゝやく、わたしは

愛してる?

心に、その

穢くないよ

愛してる

心にだけ、その

吐いてるだけ、なにも

愛してる

心にだけ、その、それ

穢くないよ、いま

愛してる

心に、心の爲にその心にだけ

わたしも、なにも

愛してる

さゝやく

穢くないよ、と、ゴックは、そして——なにしてるの?

聞いた。壬生は、自分の喉が発した聲を

——なに、してるの?

壬生はさゝやく。その嘔吐のひそかな、殊更に潜められた音に被せるように、敢えて被せて、蔽い被せて、その音響を染めて、塗り込めようとする…と。

想う。

壬生は、…聲で?

俺の聲で?

——なに、してるの?

生まれるよ

もうすぐイノチが、と、ゴックは、もうすぐ、あたらしく

思ってもいなかった

あたらしいイノチが、と、

思ってもいなかった僥倖

——大丈夫?

さゝやいた瞬間(——ゴックの、ただゴックの爲にだけさゝやいた瞬間に)壬生は言葉を失い壬生は自分が沈黙し、(窓の外には空が)黙り、默するにまかせ、(あまりにも青いはずだった。)ゴックの喉は(…あきらかに。)吐き続け、…吐いてるの?

想う。ゴックは、

吐いてるよ、と、壬生は思った、あなたは

吐いてるの?…愛してる

穢くないよ、と、心に

吐いてるの?

わたしは、と、ゴックは

心に

穢くないよ

ささやく。

心に。むしろ壬生の爲にだけゴックは、かくて偈に頌して曰く

   音を聞く

    そこにいたの?

   胎内の

    ひとりで

   極度の、そして

    ずっと

   殊更なほどにちいさな變化が

    そこにいたの?

   音を立て

    ぼくに

   立てさせられた音が鳴った

    あなたの

   喉に

    その

   生まれるだろう

    あなたのいばしょは

   わたしは思った

    ひみつにしたままで

   もうすぐ

    そこにいたの?

   そこから

    きょうはもう

   生まれるだろう

    あめはふらない

   吐かれる喉の

    そこにいたの?

   その反対側の

    かならずしも

   出口から

    ひみつにするきはなかったのだった

   血にまみれて?

    かならずしも

   或は切り開かれた

    ひみつにしたきはなかったのだった

   胎の中から

    そこにいたの?

   血にまみれて?

    もうすぐそらに

   わたしのように

    はながさく

   ゴックのように?

    そこにいたの?

   久生のように

    もうすぐそらが

   久生がそうして

    はなをかむ

   そうしたように

    そこにいたの?

   生み出す

    ぼくはあなたをさがさなかった

   ゴックが?

    そこにいたの?

   ゴックのように

    あなたをみすてたわけではなくて

   胎の中から

    ぼくはあなたをさがさなかった

   血にまみれて?

    まいそうされた

   叫ぶ聲とゝもに

    はなのかおりは

   はじめて外気を

    そらのその

   吸い込んだ肺

    せきらゝなあをに

   はじめて異物に

    とけていった

   肺がふれる

    そこにいたの?

   吐く

    ぼくをひとりで

   ゴックは吐いた

    まちもしないで…おれを

   吐く

    そこにいたのを?…わすれてた?

   ゴックは罵るように

    ぼくのこの…おれのことなんかわすれてた?

   喉に吐いた

    そんざいを、けれど

   吐く

    あなたはいちどは

   ゴックはそこで

    わすれていただろう?

   便器に縋り

    そこにいたの?

   すがりつくように

    とりたちようたえ

   便器をかゝえて…兩手に

    そこにいたの?

   吐いた(両手のふるえ)

    そらが

   吐く

    そらがはく

   ゴックはまさに

    だえきをたらして

   便器の口に

    そこにいたの?

   顏を突っ込み

    ぼくはあなたを

   髪の毛を

    みいださなかった

   その濡れたふちにまでも

    みつめるまなざしは

   へばりつかせて

    ぼくはあなたを

   吐いた








Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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