修羅ら沙羅さら。——小説。50


以下、一部に暴力的な描写を含みます。

ご了承の上、お読みすすめください。


修羅ら沙羅さら

一篇以二部前半蘭陵王三章後半夷族一章附外雜部

夷族第四



壬生は外廊下に立ってしばらく外の空気を吸った。遠くに、だれかが頭のなゝめ上で驚くほどの耳元に立てた笑い聲を聞いた。足の下のだれかが誰かと語り合ううちに立てた笑い聲。そうに違いなかった。何の因で耳元に聞こえたのか壬生にはわからなかった。壬生はたゞ町を見た。隣の家に窓があった。窓の向こうにひとりの女が壬生を見ているのを壬生はようやくに気付いた。壬生の気付かなかった時間がそこにあった。もとから見えていたに違いなかった。六十代に見えた。佛間の中に朝の線香を立てた後、女はその女にしては巨大な兩手に果物をつかむように抱えていた。立ち尽くし、兩眼をはっきりとひらき、そこに立って壬生をだけ見ていた。身じろぎしなかった。女には女の必然があるに違いなかった。その必然を壬生は気付かなかない儘、まるで、と。

獸のような聲を聞く

壬生は、あなたの…

と。壬生は

その、

あなたのその喉が、と。

獸のような聲を聞く

壬生は思い、そしてそれ

あなたの息遣う喉が、と。

獸のような聲を聞く

壬生は思う、まさに、と、いま

まさにいまあなたの喉に

獸のような聲は立つ、と、女はあきらかに目に壬生を咎めていた。非難し、糾弾し、その眼差しには一遍の軽蔑も侮蔑もない。まして嫉みも妬みも。なぜひたすらに女はわたしをとがめだてるのか。容赦もなく。そう壬生は獨り言散るように思い、壬生はショートパンツだけを身に着けていた。あるいはそれが赤裸ゝすぎる格好だったのか。それを女が咎めるはずもなかった。ここではだれもが、男たちならまさに…、と。

獸のような聲がたつ、と。

壬生は、獸の

どんな?

獸のような

どんな?

獸のような聲が

大きいの?

聲がたつ、と。

壬生は思う。みずからにだけささやくように、文字通りささやき聲もて聲が立ち、と、

くさい?

聲が立ちつづけ

くさすぎる?

獸の

きたなすぎる?

獸の聲が

へんなやつ?

聲が立ちつゞけ、と、壬生は

どんなやつ?

聲が立つ。

男は肌を曝した。ここでは、だれもがその炎天下には。壬生はそらすともなくに視線を流し、流れた視線の儘に家屋と家屋の切れ目の向こうに、遠くに山が薄く霞んで見えるのを見、まるで、…と。

すでに青い。…生きてる?

壬生は思う。

空はすでに、…まだ?

まだ生きてる?…と

壬生は、空はすでに靑かった。

思った。

獸の

死にかけた

獸のような聲を立てながら

まさに靑く

生きてる?…と

まさに生きてる?

壬生は想い、まだ、…と。

まさにひたすらに靑く

死にそうな獸のように、

と、壬生は、…まだ

わずかの雲さえも

生きてるね?

壬生は

わずかの白い雲さえも

思った。

まだそこで

あなたはひとりで

いずれにせよまだ、と

壬生は思う。

まだ生きてるね?かくて偈もてかさねて頌して曰く

   見た

    救わなかった

   すでに

    わたしは

   その扉

    わたしはあなたを救わなかった

   バスルームの扉

    なぜ?

   靑いペンキの鐵製の

    壊れたひとたち

   そして同じ鐵の

    救われるべき

   飾りの鐵線が糸のように、からみつく糸のように、なにかをかたどって蔦のように

    救われるべきもろもろの、それらすべての中で

   見た

    救い得るものなど果たして?

   扉の向こうに

    あっただろうか?

   のけぞった人

    一部分の一瞬さえ

   ないし獸

    ひとかけら

   或は

    ないし僞造した

   すくなくともかつて人だった

    時に擬態した

   もはや人のかたちを殘さない獸の(…叫んだ獸)

    まぼろしの中の

   獸がわめく

    陽炎としてさえも

   見た

    なかった

   剝き出した目

    なにも

   眼球は(血走って?)

    救わなかった

   見開きながら何も(たばしって?)見ない

    あなたは

   同じように(たばしり走って?)

    あなたはわたしを

   叫ぶように(吹き零れるように)

    救わなかった

   まさに

    なぜ?

   叫ぶようにえづきながら

    痛みさえ…

   母の敎へたまひし哥

    あなたはわたしを傷つけなかった

   見開いた眼

    一度だって

   なにを?(…獸のこゑ)

    いつも

   まさに同じように

    わたしではない誰かを

   時に(我が母の敎へたまひし)

    わたしの肌に

   なにを?

    わたしの骨に

   發作の久生が

    傷つけたから

   さらしたのと

    久生という、美しい

   同じようなそれ

    美しい名前など忘れて

   なにを、あなたは

    翳りの中に

   見開いた、何も見なかった右目に、そして

    あなたは咬む

   その左にも目

    死んだ翳りの

   わなゝいていた唇

    死者の翳りに

   わなゝきかけて

    あなたの喉笛

   不意にさらした停滞の一瞬

    脛と脛の骨に

   唇の色

    不意に拓いた口蓋に

   だれをしゃぶったの?

    噛みつかれながら

   それで?(齒はもはや)

    同じように

   見た(もはや齒は牙だった)

    生きたあなたが息遣い

   なにをなめたの?

    息をひそめながら

   その奥の(…舌)

    わたしの脛を咬んだのと

   舌で(…出来損ないの、極度に複雑な精彩を欠く紅)

    同じように

   のたうちまわる

    六歳の?

   なに?(のたうち回れ)

    お尻を咬む

   それは…(まさに生き生きと)

    七歳の?

   のたうちまわる(獸たち)

    二の腕を

   見た

    糸をひく

   胸

    母の唇と齒に唾液

   女の、ふくらみ

    咬む

   豐かにふくらみ、かつ

    五歳の?

   ふくらみのかたちさえわなゝきのなかに尋常をなくした

    どうして?

   見た

    右手の小指

   わなゝく(わななき、わなゝく)

    頬の肉

   のけぞった胸は(わななけ、心よ)それみずからのかたちを(思うが侭に)否定した

    噛みつく

   なきさけぶように

    噛み千切ることを恐れ乍ら

   わなゝく

    あなたは必死に

   急激にしぼむ須臾の激動

    その恐怖と闘いながら

   血も?

    わたしは見ていた

   急激にしぼむ腹

    ただひたすらに赤裸ゝな、あなたの恐怖

   血も、そしてその

    あなただけの

   血管の中でも?(…その血さえもが?)

    咬む

   そこから?

    髪の毛

   飛び散れ(わなゝけ)

    九歳の?

   汗はしたゝる。その太ももに

    咬む

   たぶん(他人じみた体液のその)

    十歳のふくらはぎ

   そこから(温度を知れ!)生まれたよ

    咬む

   眼の中を這う血管に欠陥

    齒は咬む爲に生まれた

   たぶん、鳩尾にも

    決して

   膨大に

    絶対に

   ふきだせ

    噛み千切って

   見た

    血を流させないように

   吹き出せ

    時には過失、不意に

   見た

    思ってもいなかった流血

   もはや、雲の上まで

    それは過失

   わたしは扉の向こうに

    咬む

   すでに

    鼻を

   死ねばいゝのに(むしろ)

    咬む

   のけぞった(吼えろ、むしろ)頸

    唇を?

   咽仏は?(…咆えろ獸ら。)

    十一歳の

   のけぞった

    そしてたぶん

   死ねばいゝのに

    八歳のそれも

   どこに?

壬生同ジき時外廊下手摺に蜥蜴這フを見キ蜥蜴が肌色黄ばみたる白なりキかクてかさねテ偈に頌シて曰く

   夢のような眼差し

    潤み

     潤い

      人を見て潤み

   潤い

    人知れずにも

     潤み

      潤い

   ひたすらな夢

    淺い

     かなしいほど淺い

      春の夢のなかの

   いちばん淺いうたゝねの夢が

    それでも久遠にふれた一瞬に

     不意に獲得した永遠の夢

      そんな夢の

   夢を見る眼差し

    そのうつくしい

     わたしのように

      うつくしい人の名は久生

   うつくしい名前

    壬生久生ではなく

     北浦久生

      壬生はわたしが

   もう二度会う可能性も無い

    不在の父

     戸籍の上にだけ

      わたしを育み

   壬生はわたしが

    夢にさえ見たことも無い、顏もない

     壬生はわたしが

      逢ったことも垣間見たことも無い父なる人の

   投げ捨てるように

    壬生はわたしにくれた二字

     北浦久生

      かの女はわたしを育てなかった

   わたしに咬みつき、ことあるごとに

    笑う息の

     聲をたてない息の

      ひそめた息に

   時にわたしを

    ひとりで咬み、ことあるごとに

     生み、生み棄てて

      わたしを育てはしなかった

   狂気の人

    藥物のせい?

     狂気の人

      なぜ?壊れた叫ぶ獸のようなひと

   子供に母の

    眞實を敎えてはいけない

     譬えその見かけが誰の目にも

      一人息子の目にさえも

   あきらかに異形に過ぎなかったとしても

    北浦恵美子が私を育てた

     まるで娘と他人のような名前

      北浦恵美子が秘密にした

   その娘の

    久生が咬んだ眞實をは

     その孫に

      かたくななまでに隠し通し

   母なる獸のあきらかな異形を

    気付かなかったことに強制する個人的倫理

     狂気の人

      おかあさんにそっくりね

   うつくしいひと

    誰も云った。さゝやく

     おかあさんにそっくりね

      狂気の人

   大津寄稚彦の父も

    母も、その夫も

     その夫の

      その妻も。さゝやく

   おかあさんにそっくりね

    うつくしいひと。わたしと同じくに

     幼い稚彦はひとり

      その父と母、母とその夫

   その夫の妻のむこうに見る

    わたしを

     聲もたてず

      息をするのを忘れたように

   六歳?

    茫然として

     私を見る

      五歳?

   まるで

    七歳になる年?

     私をはじめて見るように。稚彦は

      彼以外の

   誰かを始めてみたように。人の言葉を

    生まれて一度も口にしなかった

     稚彦は

      うつくしいひと

   狂気のひと

    嘘のようななめらかな隆起

     それは鼻

      久生の鼻

   時に包帯が

    なぜ?

     なぜあなたは自分を壞すの?(カミソリで?)

      包帶を巻いた恵美子はすでに

   叩け(ふいに手に)

    鏡に(ふれたそれ、恵美子の無駄毛処理用カミソリでゞも?)

     鏡を(——その向こうを?)

      恵美子はすでに治療に馴れた

   ぶち壊す爲に?

    顏面で

     うつくしい夢のようなうつくしい顔面で

      悲鳴も無く?

   ちしぶきしぶく

    苦痛の

     痛みの…ちしぶきしぶく

      悲鳴も無く?

   あまりにも清楚な唇

    ちしぶきのしぶき

     咬む

      みずからの…ちしぶきしぶく

   唇をもはや

    噛み千切ろうと、…嘘

     どうしてあなたは一度も噛み千切らなかったの?

      やればできたのに…ちしぶきしぶ

   あなたの唇を…嘘

    どうしてあなたは一度も噛み千切らなかったの?

     やればできたのに…ちぶしきぶしき

      あなたの唇を

   噛み千切らないように

    全部嘘。…

     あまりにも清楚な喉があんまりにも清楚に女の

      女らしい女のかたちをなぞって、ちぶしくしきぶく。そして…嘘

   無慚にも清楚なまゝで足の爪に至る

    うつくしいひと

     夢のような

      彼女は自分で飛び降りた(開かれた朝の窓に駈け寄って跳躍)

   眼の前で(…鳥。)

    わたしの(…鳥は羽搏いたのだった。)眼の前

     手のとどく距離(眼の前で、)…嘘(鳥は、)

      十四の春に









Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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