修羅ら沙羅さら。——小説。47
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上、お読みすすめください。
修羅ら沙羅さら
一篇以二部前半蘭陵王三章後半夷族一章附外雜部
夷族第四
嘘だ、——と。壬生は思う。壬生は知る。十歳の頃、その年に、春に雪など、三月に雪など、——と。降りはしなかった、ひとかけらさえ、と、壬生は、稚彦を思い出したその昼に、その日の何度目かの戯れに、ゴックの乳首に唇でだけやわらかく、ひそかに彼女の爲にだけやさしく咬みつき、むしろ舐め取るようにも噛みつきながら、嘘だ、——と、体温。壬生は、そしてさびしいの?
と。
どうして寂しいの?
舌がふたたびふれた。
わたしがいるに、どうして?…と
壬生の舌が、ふたたび離れ
ゴックは未だ目を閉じないままに、…淋しいの?
ふれそうな至近に、舌が
知ってる。——と。思う、ゴックは
停滞して、壬生の舌は
あなたは寂しい、今…と、
何にも触れずに
あなたの故郷にいないから
軈て唇は
わたしの肌だけが
吐く。
そのあたたかさだけが
息を、その
すでにやすらかに棲むべき故郷と知りながら
吐き出された息が
寂しいあなたの爲にだけ
ゴックの肌に
わたしは肌を
触れた時に
ささげたのだった、と、ゴックは聲を鼻にだけかすかに立てゝ、まばたきもせずに仰向けの、板張りの床の堅さとつめたさを背中に感じた一階の居間の見上げられた天井に、外のなにかゞ光り搖らませた陽炎のわなゝく翳りを——光りを?ゴックは見て時に、まさにその時に我を忘れた。にもかゝわらず、と。壬生の唇は自分の濡らした唾液の迹の、肌の上に濕めり、乾かずに唇をふたゝびぬらしたのに厭いながら、——今。と、眼差しの中には——今も。と、雪の色が。その、——今。と、温度。指先にふれたその、——今。と、凍り付き、とけてゆく——今。と、その温度さえもが、——今。と、かくて偈に頌して曰く
見てごらん
知っていた
もう
あなたにだけに
茫然として
みつめられながら
沈む日の
ゴックにだけに
最後の光の紅に
みつめられながら
朱に
知っていた
橙に
私を見詰める
黄に
そのまなざしに
その複雑に
その爲にだけ
そまった肌を
笑んだ眼を
見てごらん
そらして、そっと
わたしに戀した
右をみれば
あなたの最後の
窓の向こうには
ただひとつだけの
破滅じみた
あなたの愉しみ
夕焼けの色
目を奪われ
焰のかたちを
見つめながらに
さらしはしない
失神すれば?
燒盡の
それ以外にもはや
その一瞬前の
あなたのイノチに
最後の色
価値など無いと
今空は、断りもなく
あなたさえもが
破滅した
知っているから
かクに聞きゝ八月此の月通シてダナン都市封鎖繼續せり故壬生ゴックが家に遁レ外出等なシ又ゴックかつて壬生と俱なりテ勤務シたりき送り出シ會社閉鎖繼續さレたレばゴック壬生と俱なりテ外出せず市場等規制かゝりて一人にツき三日に一度ノ來場入場ノみに制限スゆゑにゴック三日に一度市場に詣でゝ食材等買いだめき壬生を頑なに俱なはず此レ壬生の身ノ危険及ぶをゴック厭ひたりキゆゑなりき一か月に渡りて終日ゴックが家に籠リをれば壬生及びゴック自然睦ミて睦ミ壬生ユエンが家に一度も歸り詣ヅることなシ又壬生ユエンに斷りなク家出でたればユエン是レを探シて探シ求めキは道理なレどもゴックひそめて壬生が在宅のこと誰にも語らず明かさずテ又ユエンとゴック互ひに連絡シ合ふ仲になけレば壬生ヲ問ひて訪ふもノ誰もあらざりきかクて八月の六日ノ日朝此ノ時殊更に救急車がサイレン鳴り響ク多かりき壬生一度目に未だゴックが傍ラに寢りタるに聞きゝ後二度目に9時にメ覺めたるゴックが爲に目玉燒き作りたルに聞きゝ後三度目食パン等ゴック購入に出でゝ不在なル十時前聞きゝ後壬生未だゴック歸らずシて二階なるゴック部屋にありてなにといふともナくに窓の外町を見ルに聞きゝかクて此ノ時に壬生足ノ下に並び立チたル樹木の切れ目に見ゑたる路面にゴックが乘りタるスクーターの歸り着けルを見きかくて頌シて
その朝に
サイレンの音に
もの珍し気に
ゴックを起こそうとした私を
うす目に見上げて彼女は見つめた
憎しみと(…あどけない)
限りもない(…あくまでも)
軽蔑と(…自分が)
容赦もない(…だれかに憎まれることが可能である事さえも)
懐疑のうちに(…きづかない、そんな)
にらみ、薄めの儘に(…あどけない)
言葉もなく(…あどけないあなたよ)
そして(…知れ)
失神するように眠り落ちていくゴックを見た
微笑乍ら(…すでにして)
かならずしも(…すでにしてその身の穢れさえ)
ゴックを(…あなたは)愛したという譯でもなく(…すでにして)
あきからに(…知っていた事を)彼女を(…あなたは知れ)
やさしく愛してやりながら
何だったのだろう?(…あなたは)
わたしは思う
愛という、その言葉もて
人の語りたがるその心の
事象、ないし現實の
行爲の
事象
それは
それ固有の倫理を以てさえ
事象
それは
それ固有の理想を以てさえ
殊更にも
時にそれは語られながらも
あの宇宙の事象の地平で
愛もやはり永遠に
立ち止まるのだろうか
みずからの一瞬の上に?
いくつもの
ブラックホールのひとつのそこで
永遠に?
愛してる?
女たち
ゴックは一度も
いつでもわたしに
問わなかった
そのうつくしさに?
愛してる?
こがれてひそかに
一度もゴックは
体臭を嗅いだ
わたしには
断ち切る気も無い
その理由
わたしへの想いの、ひそかな
それはすでに知る
形見にそれをしたのを
ゴックはひとりで知っていた。すでに
裝って、誰も、自分さえも信じない…まさか
自分だけがもはや
擬態のうちに…まさかあなたを。まさか
だれよりも
わたしが、忘れさるなど
なにものより私に愛されてだけいると
なに、食べたい?
わたしはささやく
耳元に
抱きしめるように
寝起きの儘に
ベッドの上に
崩れた胡坐に茫然とする
ゴックを胸に
抱きよせた後で
彼女の爲に
なに、たべたい?
彼女の爲に
おなか、すいたよね?
彼女の爲に
ダイエット?
彼女の何の爲に?
微笑の爲に?
充足の爲に?
充足の、確信の爲
確信の、その維持の爲に?
幸福の爲
隔離の倦怠と
隔離された親密の
幸福の爲に?
明日のかたちだに見えない
今の
故にこそまさに明らかな
今のまさに全き幸福の今の
その現存の爲に?
おなかいっぱいだよ
甘える
女は時に
いま…
殊更に
おなかね、…
いつでもかすめるとるように
いっぱいだよ
私に甘えた
うそ
まるで
うそじゃないけど
私の何かをそれによって
太るから食べないよ
巧妙に
たべなよ
一瞬で
なんで?
盗み取って仕舞ったかのように
太ってもいゝの?
或は——わたしが太ってもいいの?
ダイエットしなよ
弱みを
だから食べないよ
逃げられない
俺、ひとりで喰うの?
絶対的な弱みを
いやなの?
にぎり盜ったかのようにも
さびしいじゃん
ほくそ笑み
でも太るよ
軽蔑に、限りなく近い
太ったらさ、
充足を曝し
…ね
女は見た
ダイエットしなよ
わたしを
目玉燒き
これみよがしに
なに?
見つめながら
先生、日本の目玉燒き作れる?
かすめとるように甘え
なんで?
あるいは私は
お腹すいたね
わたしはすでに知っていたのだった。そこに
たべたい?
なにも
朝だからね…
穢れたものなどなかったのだった。ただ
じゃ、俺、…さ
心の儘に
好き?
あまりにも無垢に
卵、あったっけ?
女たちは
目玉焼きって、
わたしに甘えた
…あったな
見上げた眼差しに
いいよ…
好き?
いいよ、ねぇ
なくていゝ?
ね。いいよ…
ゴックが云った
好きにして
パン、なくていゝ?
好きにしていいよ…
いらないよね
先生の
太るからね…と
いいよ…
なくていゝ?
ね。いいよ…
ゴックが云った
好きにして…
いゝよ、と
ね。いいよ…
微笑むわたしに
やわらかくても…
買ってくるよ
ね。いいよ…
ゴックは云った
いいよ…
わたしの爲に慌てながら
かためでも…
他人の失敗を
ね。いいよ…
その眼差しの
いいよ…
いちばん見える所に
ひっくりかえしても…
見せつけながら
ね。いいよ…
パン、いるよね
いいよ…
ゴックは云った
ね、…
失敗を曝した
フタをしても…
どこかの他人を
ね。いいよ…
名指しゝないで詰るかのように
もっと燒く?…
わたし、買ってくるよ
もっと、…ね?
ゴックはひとりでそう云った
好きにして…
三度のサイレンをひとりで聞いた
その音
たぶん、東の方に
壁の向こう
振り向いても見えない
壁の向こう
まるで他人事のように
まるで
かかわりのない
外国の
他人の身に受けた
災害のように
わたしの知らないところで
その事件は毎日
起きていた
まるでわたしだけ
ゴックと
私とゴックだけ?
取り殘されたように
どこかでだれかが、
あるいはだれもが?
そのヴィルスに苛まれた
私の目は
いまだその症例を見なかった
世界中に
溢れかえっていたというのに
私の鼻は
いまだその匂いを嗅がなかった
医療所で、防御服の向こうに
何人も
医療関係者が嗅ぎ取ったその
あざやかな息吹を
私の耳は
いまだその叫び聲を聞かなかった
失われた家族を
ないし父、母
ないし息子、娘
孫、友人、師
それら
それらの爲に
彼等を思って叫ばれた聲
泣き声…?
を、…罵り
非難し、呆れ
茫然とし、そしてふたたび咎めるような——誰を
聲、…その聲を
他人のように
異人のように
まったく異なる種族の
まったく異なる野蛮なる
鼠か蜥蜴か蛇のように
野蛮な異族の異なる奇妙な人であったかのように
わたしは自分を
自分自身に
いつか擬態させて見せながら
それ
かかわりのない他人の身の
切実で追い詰められた
イノチを想う
まさに
言葉さえ通じない
異人のように
顏さえしらない
他人のように
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