修羅ら沙羅さら。——小説。32
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上、お読みすすめください。
修羅ら沙羅さら
一篇以二部前半蘭陵王三章後半夷族一章附外雜部
蘭陵王第二
レ・ヴァン・クアンの、——カンの部屋の中は薄暗かった。ひとつだけある窓にすぐならんで立った隣家の壁のせいで。光など完全に遮断して、昼間でも明けはじめの時間のくらさでしかないそれは、まだ早朝に今がいまだに明けはじめる寸前の一瞬の時間帶であるかのようにも人の目に擬態した。それは惡い事ではなかった。ここでは。ここの、彼等にとっては。部屋はすでに冷えていた。人影を無数にざわめかせながら。外のすでに熱をはらみはじめた温度がうそのように。そして曇った日、軈而雨の降るに違いない日の湿気さえなくて、からからに大気さえ干からびたようにも乾き、無残な迄に肌馴れない他人事の冷気をみなぎらす。惡い事ではなかった。壬生はそれを知っていた。ここは熱帯だった。日差しをさけた暗い、そして熱気を遮断した寒々しさはここではまさに恩寵じみた好条件だった。ここの、彼等にとっては。レ・ハンがそう自然にこの部屋になじんでいることは、せめてあめが
と、
レ・ハンはささやく、喉の奥に
せめて雨が
雨が降りしきってあなたをせめて潤しさえすれば。
死にかけた
渇いたひとりのあなたを。
壬生はすでに知っていた。レ・ダン・リーがそう自然にこの部屋になじんでいることは、ダン・ティ・タムがそう自然にこの部屋になじんでいることは、壬生はすでに知っていた。レ・ティ・カンが、レ・ヴァン・クアンがそう自然にこの部屋になじんでいることは、壬生はすでに知っていた。壬生はもはや知っていた。レ・ヴァン・クアンはまさに、死ぬには最適で、生きて行くにも最適の居心地のいい部屋で死んで行くのだった。かくて偈を以て頌して曰く
いつでもダン・ティ・タムは同じような泣き方をした
四年前にはじめてリーに逢った時
何か月か前、入院したレ・ダン・クアンの病室で
リーはレ・ティ・カンの家でクアンの膝に抱かれていた
誤って彼女に顏を合わせた時も
軟膏をぬられ、じゃれ合うようにクアンにぬられていた
ユエンは殊更に目をそらした
肌に赤變の疾患があったから。その病名は
憎しみと軽蔑を以て、タムからだけ
私はしらない。軈而
いつでもダン・ティ・タムは同じような泣き方をした
家の前にバイクに止まった女が居た。ちょうど
タムはそこにいないレ・ハンの背徳をなじった
わたしの目の前で。待ち合わせしていた
彼女さえいなければ、こうならなかったに違いないと
ベトナム人の友人を待っていたから。飲んだくれの
本当かどうかしらない。それは
チャン・ティ・ホア。女はその六月
タムを憎み軽蔑するユエンがわたしに訳して聞かせた言葉にすぎない
おそらくは子供の夏休みの六月に、父親に預けた
あの時も
娘を引き取りに来たのだった。その
いつでもダン・ティ・タムは同じような泣き方をした
女は、——ダン・ティ・タムは
一か月前に
見ず知らずのタムは私を無視し、大声で
まだ生き生きしていたすでに在宅治療のクアンを見舞って
奧の日影のクアンを呼んだ。その時には
彼がすでに死んだ人であるかのように
あどけなくも笑って、父親が
クアンがわらって殊更に、死んだ人を歎くタムの深い歎きを
立ち上がる前にレ・ダン・リーは自ら駆け寄った。おそらくは
慰め、諫めるように慰め、励ますように叱咤した
母親の名前を
あの時も
呼びながら?
いつでもダン・ティ・タムは同じような泣き方をした
私は気付いた。その時に
ほんの数日…一週間以上?
引き裂かれて在るに違いないと
前に
彼女たちは深い憎しみの中に
新型コロナの再流行の前に
家族、とよばれる彼等の単位は
前の新型コロナの流行の名殘りで
遅れてバイクに近づいたクアンは私を紹介し
不織綿のマスクで顏を半分かくしてさえも
そして
その時も
その時彼女は
顏半分だけでダン・ティ・タムは同じような泣き方をした
わたしにだけ極端に親密な眼差しをくれたから
やつれはて
ヒエンも、ユエンも
すでにレ・ヴァン・クアンは死に懸けていた
レ・ハンもだれもがその目に
窶れはて
彼女に軽蔑の眼差しを浮かべていたことは、その時には
体中に癌化した自分の細胞を分裂させ
気付かない儘だった
繁殖させ
レ・ダン・リーは殊更にも
夜川禮波天
そこが自分の家であるかのようにふるまった
すでに流動食以外喉にとおらない
母親の至近のそこでだけ
呼吸器をつけた体にレ・ハンは注射を打つ
スクーターの前に身をすべらし込みながら
羸禮波天
まるでクアンの膝だけが
互いに寄り添わないレ・ハンのかたわら
自分に赦された唯一の場所であるかのように
すこし背後のすこしだけ左りななめで
息をひそめていたリーは
ダン・ティ・タムは同じような泣き方をした
まさに
かくに聞きゝ此ノ日壬生レ・ヴァン・クアンが死にたるを耳に聞きタりシは午前十時なりき此ノ時壬生レ・ティ・カンが家ノ前の隅なるにひとり誰かノ止めたるバイクに座りて待てり外の外なル外気わヅかに冷やみて潤ひき是レ空曇りテくもり空なるゆゑならん前なル大通りに時にバイク等貨物車両等バス等自動車等まばらに通りキ閑静と觀ズべきや雑然と感ずべきズ壬生いぶかりきかくてなにというでもなク壬生あざ笑ふにゝて笑ミかけて笑ミをはりもせズ壬生外國人なレば誰も掃除等の死の刻迎えんが爲の準備等手伝わせズ又壬生に手伝フ氣もなかりキ壬生ひとり心に陰惨ヲのミ感じき所以は知らず壬生みづからにもゆゑん知られざルまゝ見るもノ悉く又聞くもノ悉くたダ惨状をのみさらしてありけるにも感じキ人と人のこゑひビきゝ人と人の息ヅかひゝびきゝ人の人の気配亂れかクて人の歓声じみたる聲立チ騒ぎ立ちて喚声ジみたる聲同じくに立チ騒ぎ立ちて又時同じくに罵声の如き立チ騒ぎ立ちて壬生振り返り見ルともなくに察しきかクて須臾もなクて屋内ひときわにしずまりキかクてまたかすかにも仄かにも物音さまザまに立ちはジめきて泣き聲又泣きてすすりテ泣く聲又すすりテすすりあげテ泣きて泣き騒ぎ泣ク聲壬生の耳にはきこえざりき壬生彼等かノ女等家屋に沈痛に默してあるやらんと思ひて想ひヲりきややありてユエン壬生が背後にそノ気配投げて言葉かけずて壬生振り返らずてユエン唇に壬生の見せたる背にレ・ヴァン・クアン遂に死にテ死にをはりタるを告げき壬生思ハずに驚キて振り返ルに壬生の目ユエンが目に淚ながレおちて那我禮ながれ盡きるともなくに甚だシきを見て覩をはりたる間もなくにすデにみヅからの双渺もすデにシて淚に視界ゆがミゆがめゆがミて湯我女琉こと甚だシき異形のミさらしてありけるに気附きゝかクて頌して
あなたに話そう。
いつ死ぬかも知らない人間は
まさにあなたの爲に話そう。
いつでも人を待ちぼうけさせる
背後に、無残な程の横溢を見る気がした。
自分でも
振り返られない背後の、音響に。
自分がいつ死ぬか判らない彼は
その聲の、男たちの立てた聲の
或は
その罵声のような、悲嘆するかの、怒声のような、非難するかの、時に嘲弄し又は愚弄するかの
死にふれるまさにその瞬間に
それら聲。
死にふれた
その聲と聲が群れて羣らなり叢らなす聲の繁茂のはなれた場所で。
触感をまさにあざやかにも自覚すべき意識は
バイクの、誰かの知らないバイクの上で。
すでに消滅さえして
背後に、無残な程の横溢を見る気がした。
彼は自分の死の時をさえ見ない
振り返られない背後の、音響に。
彼さえ
その聲の、女たちの立てた聲の
その時をは見なかった
その罵声のような、悲嘆するかの、怒声のような、非難するかの、時に嘲弄し又は愚弄するかの
私は待った
それら聲。
待ち望むわけではなく
その聲と聲が群れて羣らなり叢らなす聲の繁茂のはなれた場所で。
待った
日差しの中で。
待つということに存在する
いつ雨が降り出すのだろうと私は想った。
その時の來たる時を待ち望む
曇り空の下で。
あきらかな渇望の翳りを
いつ降出すのだろう、と。
その色を
私は思った。
明らかに
ふたたび降り出しそうな雨の気配を充満させた空は。
わたしは知った。まるで
もうすぐに、と。
わたしはひとりだけ、うらぎりのものように
すでに雨は降って已んだ。草はいまだに濡れてゐた。
クアンの死を待った
路面は既に乾いていた。
ひとりで、だれもとおなじように
ところどこに水をためた儘に。
ひとりで、それぞれに違う時間の中に
ざわめきが一瞬立ったあとの沈黙に、
私たちはクアンが死ぬのを待った
誰れもがまるでそれが礼儀であったかのように、
わたしは見ていた
ただ従順に隨うように落ちた沈黙のあとに、背後に気配がした時に私はレ・ハンが來たのだと思った。
最期の時を迎えようとするクアンとは無関係に
自分の父親の死を私にだけ誥げる爲に。
町にさまざまにその
知っていた。
すがたを赤裸々にさらした無数の
とおくの物音の他人事の群がりの中から足音が聞こえたいたことは。
翳りの肉体の群れを
サンダルをコンクリートに引きずるような。
死者、ないし死に行こうとする者への敬意も
蟹股でするように歩くような。
むしろそれへの意識さえも無く
あのいつもの、だれもがさらす無様な歩き方で。
意識など兆しさえしない肉体は様々に
まるで、足を意図的に障害させた愛玩動物に過ぎないかのような歩き方で。
腐った匂いと血の玉を
まるで、纏足にでも拘束されていたかのような。そして猫背の儘のけぞって
玉散らせた。見上げた傍らの
振り返ったそこにユエンを見た時、わたしは彼女と同じようにほゝ笑んだ。
樹木にも、その向こう
お互いを静かに赦し合うかのように。
葉盡きた上の上空にも
わたしたちは、ただ優しかった。
さらに路面の
その眼差しさえもが。
その濡れ、あるいは乾いたアスファルトの
壬生は記憶している。一人で家の前に時間をつぶしていた壬生は、背後にひときわ大きな沈黙が広がって、——陥穽。急になにかに落ち込むように、そして軈而しずかに聲が立って、そのさまざまな聲のささやきごえの集合が轟音にも、そしてそれぞれの自分勝手をさらして沈黙した時に、その時まさにレ・ヴァン・クアンは今この時にこそ死んだのだと思った。静かだった。通りの向こうのパン屋の女亭主が軒先に出て上を見た。まさに降り出しそうな雨を確認していたに違いなかった。——まだ、と。壬生は思った。その時に、まだ降らない、…
雨など。
と。そう思ったことを壬生は記憶していた。ユエンが彼にクアンの死を告げた時に、改めて心にすでに悲しみが咬んでいたことに気付く。悲しみ、と。ひとことのうちにそうやり過ごすしかない、暗い、色彩の有る、色めいた、甘い、絶望的な、未来のない、やわらかな、親しい、感情の塊り。ユエンが自分の瞼を拭う手つきを見せて居たのを、——壬生の爲に?——ユエン自身の、あるいはほかでもない逝けるクアンの爲に?壬生はそれをは見なかった。さらに彼女を通り越して振り向いたそこ、カンの家の中にユエンを誘った、眼差しの片隅で。家屋の翳りを潜り改めて室内の温度と湿気に肌をあわせる。そして壬生はひとにすれ違って、つぎの人にすれちがい、その知った顏の老婆がユエンになにか指示を出したのを聞いた。あるいはいまさらにユエンを慰めたのかも知れなかった。そしてユエンは壬生に置き去りにした。ユエンは壬生に、怨ましげな眼差しに心を殘すとてなかった。ユエンが自分にかのタムの不埒を小声になじり始めたのを老婆は彼女に事の始末をたくした眼差しの内に、笑んで聞き、聞いて行け
往け
逝け、迎えられた魂よ。
その
見出した光りの、まさにいまだあかき方へ!
…と。
そしてユエンを赦した。ユエンはだれよりも可愛らしかった。そして理知的だった。他の宇宙から来たんだよと、死んだ夫はユエンを殊更に愛でゝ云った。かくて偈を以て頌して曰く
不意に巻き上がったようにこそ思った
レ・リーは逃げてしまったに違いない
その轟音、歓声と聲、聲と喚声の騒ぎ立った家屋の中の空気に
そう思った
その音響に
姿を
その容赦の無い厚みの雑然に
父の死の時にも
人々は静まり返ることさえなくて、口々に歎き、歎いて笑い
まさにその時に限って
笑って悔しみ、悔しんで呪い、呪ってレ・ハンを愛で
あるいは知らないうちに
愛でて非難し、非難した軽蔑の中に男も女も年長者はその豊かに肥大した臀部を眺めた
すがたを隠してしまった
まるで自分の爲に子供をうんでくれるかのいうに
レ・ダン・リーに
他人事の眼差しの儘に
ゴック・アインに辱められた少女
カンの、いまやカンとクアンのあるいはカンとクアンとレ・ハンの
ゴック・アインに辱められたことの
時にダン・ティ・タムの
周囲の認知に
彼と彼等とかの女等と彼女の部屋の中に
ふたたび、そしてしられるたびになんども
そして、亡きクアンが病んでいた時の儘に横たわっている寝台に縋って
改めて嘗て辱められ
そして絶対に死体には指先をさえふれないように
やがてまた辱められつづける少女
あやうく上手に避け通しながら、——穢れもののように?
だれも気にしていなかった
ダン・ティ・タムは泣き叫んだ
泣き叫ぶタムさえも
その背後の、自分のベッドに座ったカンの
泣き叫びまさに、いまこの時が
あさくだけ淚をにじませた眼差しの間にレ・ハンは立ってゐた
ただ自分の爲にだけ世界にあたえられたかのようにも
誰もわたしに気付かなった
泣き叫ぶタムさえも
わたしが入ってきた事には、敢えてのようにだれも気付かずに
彼女が何処に行ったのか
レ・ダン・リーはどこにいたのだろう?
レ・ダン・リーは気に止められてさえいなかった
その時に、私の眼差しが見出さなかったその少女は
人々のさまざまな
醜い、あきらかに穢らしい十二歳の少女はいっぱしの
いろいろな眼差しの交差のなかにも
もの心ついた十二歳とも思えない
タムは泣き叫んだ
見苦しい赤い少女は
いまさらのように彼女は
わたしは気付いた
はじめて淚し
すでにレ・ハンは気付いていたのだった
はじめて叫ぶかのようにも
かの女をだけ見つめていたわたしの眼差しに
彼女はひとりで泣き叫んだ
焦がれて?
事実、慥かに
まさか
間違いなく彼女は
彼女を愛したつもりはなかった
タムはあざやかに、もはや
自覚など。事実、愛してなど居なった
あざやかすぎるほどに悲しんでいた
レ・ハンは重苦しげに、ひとりで私をゆるしたような眼差しを呉れた
タムはあざやかに
わたしは彼女を見ていた
あざやかすぎるほどにも歎いていた
突然に、レ・ハンはまるで別人のようにも
あざやかに
時と場所を異ならせたようにも?
あざやかすぎるほどにも彼女に
いきなり微笑んだ彼女は、素直過ぎて痴呆じみた笑みの素直を
いま、此の時には
素直の儘にわたしにくれた——あなたは
彼女にもう未来など無かった
と
誰もが知っていた
あなたは今日にも、父親の死にも泣かないに違いない
彼女を殊更に見つめはし無い儘に
わたしはそう思った
彼女以外に、彼女の
あなたは悲しみさえもしない
親族はどこにもゐなかった
レ・ハンの爲に、彼女と同じようにわたしは微笑もうとした
彼女とその娘以外に
同じに、微笑んだはずだった
彼女にその親族は居なかった
わたしは外に出た
すくなくとも
部屋の外の一階の居間は
死んだ夫の死んだ体の傍ら
悉くの電気器具さえ取りはらわれて
カンとレ・ハンの家の中には
空間はただ広く、あつまった人々のあつまりに狭くした
レ・ダン・リーは逃げ出したに違いなった
知っていた
わたしはそう思っていた
いくつもの顏がそれぞれの顏を曝した
たとえば虐められて?
知っていた
たとえばここでも辱められて
いくつもの顔がそれぞれの顏の骨格に合わせて表情を作る
あるいはレ・リーにさえ
聞いた
死ぬゆくクアンに
聲の群れ
タムにさえ辱められて
ユエンが長老格の老人のかたわらに恭しく座って話し込んでいた
なぶりものにされて
彼女は当分そのままそうするだろう
忘れた事はない
年長者にだけは愛させるユエン
彼を殺して仕舞った時の事は
媚びを知るから
事故だったのだろうか
同年配と年下に厭われるユエン
あるいは確信犯的な?
驕りを知るから
計画的で、且つ衝動的な?
レ・ハンはいつも遠巻きに親しむ
大津寄を殺した時に
ずる賢いレ・ハンは
わたしは茫然とした
老いた女の声がした
想いもしなかった時の中に
叫ぶような聲だった
思いもしなった場所の中に
短じかい、一瞬だけの聲だった
まさにひとりで取り残された、と
怒号とも誓願とも励ましともないその聲の不可解に振り返ったわたしは
思いだした
見た。その老婆
振り返ったそこに
いつかユエンに聲をかけた菜食料理屋の老婆は
レ・ハンを見た時
出て来たレ・ハンの背をさすっていた
彼女がむせび泣いた
今、まさにレ・ハンは直立し、背筋を流したままに
その振るえる唇を
さらした蟹股の上であられもなく号泣した
瞼を
叫ぶように
見たその時に
喚くように
私はそんな風にな気はしなかった
淚は溢れてながれ
そう思った
しゃくりあげるだけの
その時に、わたしはむしろ息を潜めて
泣き聲を喉に知らせない儘に
まるで初めて見る世界の中にゐたかのように
0コメント