修羅ら沙羅さら。——小説。19
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上、お読みすすめください。
修羅ら沙羅さら
一篇以二部前半蘭陵王三章後半夷族一章附外雜部
蘭陵王第二
その時に、自分のそれに昼間に感じたのと同じ感覚が、陥穽に堕ちたように、ふいに芽生えたのを壬生は懐かしくさえ思った。レ・ハンの時と同じく、零れ、滲みだしたように、その陰湿な感覚を壬生は、そして想った、雪菜にさえ、——と。十代の頃にさえ、と、壬生は、——なぜ?と、恠しみ、壬生は、女などに、——と。
射精など(——あなたは)…女などに…
なぜ?
母親のせいなのだろうか?
十二歳の時に、彼の(——あなたは)目の前で大口を開けて笑った、その。
なぜ?
壬生がからだの中に(——あなたは)果てたのをユエンは、その(——まさにあなたは、大人になった。…と)喜びの失せた眼差しの中に(——ようやく、と、)ただ、言葉もなく(ユエンは、自分の喉の奥にだけ)赦した。そんな目をしているように(ささやき、ユエンは)覆いかぶさった壬生には(赦した。)見えた。死の(壬生を。)可能性が、周囲に拡がっていたからだろうか?壬生は(だれもが)思った。いつもよりは広範囲に、普段よりは(だれもが、)はっきりと。明ける前の夜の(だれもが、雪崩れるように)いまだ暗いころ、壬生は(大人になる。サパの雪が)腕の中に眠るユエンの寝息を(溶けて、)聞いた。そのときに(くずれおちるように、)唐突に亂れる寝息が(…と、)變らず永遠に(雪が、いまだ、…と、)持続するかのように、壬生は(いまだ一度もわたしの)思って(わたしの見たことのない)陰惨さをだけ觀じた。かくて偈を以て頌して曰く
その夜に
ひとがしぬまえに
だれがあなたを愛するだろう?
もはや自分の気配さえなくした気がした
ここではだれもがあわててへやを
醜い子
靜かだったから
かたづける。その
だれがあなたを愛おしむだろう?
封鎖されたその町は
しんだもののたましいを
ダン・ティ・タムさえ
もはやかたわらに立つ
すみやかにむかえにこさせるために
あなたをむしろ
ユエンの寝息さえまるで
ひとがしぬと
ののしり聲に
いつかにつかれた嘘を
ここではいちにちじゅう
纏わせた
いまさらにやっと想い出したように思った
うちをひとびとにかいほうする
だれがあなたを愛するだろう?
観光都市は
いもんのきゃくを
醜い子
最早
ちゅうやをわかたず
だれがあなたを愛おしむだろう?
そこに住むひとしかいなくなれば
むかえいれるために
どうして
どこよりも簡素な町でしかなった
にわかいえのまえのろめんに
だれもが生まれなければならないだろう?
観光都市は
はみだしてもへいきで
どうして
あまりに無防備に
テントをはって
黙って滅びてはならないのだろう?
素顔だけをさらした
だれをもむかえる
だれがあなたを愛しただろう?
まだどこかにレ・ダン・リーが
テーブルのうえに
醜い子
そのままの格好で
スイカのたねがまきちらされる
だれがあなたを愛おしんだだろう?
ココナッツの下に
テーブルのしたに
どうして
ひとりでたっているような気がした
スイカのたねのからがまきちらされて
だれもが誰かに
身を起こした私には気が付かなかった
ときにふまれて
愛されなければならないのだろう?
自分にさえすでに満足していたユエンの寝息は
おとをたてた
どうして
暗がりというにはあまりに明るかった
もうすぐクアンはしぬにちがいない
そのままに捨て置かれ
観光都市は
いまだにしなないクアンのかげりは
どうして
壁の向こうの遠くに誰も見ないライトアップをさらしていたに違いなかった
ユエンがこゑをたてそうになった、そのときに
そのままに忘れ去られてはならないのだろう?
観光都市は
てんじょうにつきだしてこうもんをかんだ
あなたは見たか?
惰性の中でだれにも求められなかった、誰の爲でもないきらびやかさを曝し
さめのそれのように
醜い子
そこに輝き出していたにも違いなかった
いつかしげったはのならびで
その蝶が
ココナッツの下にタオがいた
すきほうだいに
白い翅の
その翳りが
かれのこうもんをかみちぎった
粉末をわずかに散らして
斜めに螺旋を描いて伸びた肉と、肉に
だれかがしんだとき
目には見えない
喰い憑かれた骨と、骨に
あさからばんまでひらかれたうちの
散った粉末の
斜めにさかだち喰い千切られた肉と
テーブルをだれもおとずれない
わずかな散り塵りのその気配のうちに
筋のような管を浮かべた
よるのふかい
浮かぶように
重力など
そのしんやには
飛び去ったのを
顚倒した世界観が見せた一瞬の陥穽だったと
ねずのばんの
もはやだれが
わたしの眼差しにだけはっきりと告白して
しろしょうぞくのおんなたちが
だれがあなたを愛しただろう?
まだどこかにレ・ダン・リーがひそんでいるように思った
ささやきあって
すでにだれが
その影を
こゑをかさねる
だれがあなたを愛おしんだだろう?
又は気配を
ときにはわらい
まるで嘘のように
わたしには探す気をさえ
そのこゑがなり
かぎりなく愛してしまったかにも
起こさせないで
鳴りひびきながらも
ゴック・アインは擬態して
かくに聞きゝ7月29日すデにダナン市飲食店舗各種こトごとくテイクアウトのミ許さルかくて店内飲食禁じられたりきかくて住民感染恐れたれば外食制限せりかくて自炊せりかくて会社等ことごく閉鎖スかくて早朝いまだユエン汗流しタるに壬生にゴックから着信ありキ壬生こレを無視せりユエンを気遣へる譯でもなくにかクて後ユエン送りかくて後ゴック・アインが家ヲ詣でき壬生道中に見ルに会社事務所等軒なみシャッター閉じ多里岐迦久弖ゴック・アイン在宅なりき訪問ゴック・アインを又油彩に描かンと想ひ附きタるゆゑなり壬生ゴック・アインと語りタるに壬生に画家を紹介せんと言シきこレ壬生が上書きシたるカンバス数枚の元繪の画家なりきゴック・アインすでに二十數枚彼ノ油彩を購入シをはりき壬生笑みゴック・アインがかたわらにゴック・アインが爲にのミ笑みてかくて壬生承諾せりゴック・アインいツとも明言せザりき迦久弖ゴック・アイン壬生を求めキゆゑに壬生ゴック・アインを赦シき壬生ゴック・アインに用を足さずゴック・アイン笑ひき諦メることなく又諦メざるトもなクにたゞゴック・アイン壬生に戯レき壬生なスが儘にまかせキかくて頌シて
あなたに話そう。
まさにあなたの爲に話そう。
その日影で見たプルシャン・ブルーのような。
わたしに油彩画を教えたのは大津寄虎次郎という男だった。
その乾く前のカーマイン・レッドのような。
なぜデッサンを教えなかったのだろう?
その厚塗りのコバルト・ブルーのような。
彼は画家ではなかった。
その溶いたキクナドン・バイオレットのような。
厳島で能面を作った。
そのうすいマゼンタ・イエローのような。
能面と、時に雅楽面と、多くの時には土産用の蘭陵王面。
その日の下のコバルト・バイオレットのような。
あくまで簡易的なもの。
その西日に見たグレイ・オブ・グレイのような。
大津寄虎次郎は身寄りがなかった。
そんな白。
自分以外にはひとりも。
白。
戦争のせいだったのかもしれない。
白のいくつかのヴァリエーション。
大津寄虎次郎はわたしが十歳だった時、すでに七十近かった。
グラデーションがかる白。
絵が好きだった私の為に、祖母はかれに私に教えさせた。
抜けるような白。
ふたりは親密なゆうじんだったから。
砂のような白。
大津寄虎次郎は平成元年の1月8日にひとりで死んだ。
行き止まりのような白。
居宅の緣に座って、腹を切っていたのだった。
あわい白。
遺書は何も残さなかった。
絶望的な白。
緣は東に向いていたかも知れない。
濃すぎる白。
そして大津寄虎次郎はきちんと北東を向いていたのかもしれない。
絶望的なまでの白。
誰も彼が右翼だとは思わなかった。
裏切りの白。
腹を切った、かつて交安に拘束されて拘禁されていたマルクス主義者が。
懐疑的な白。
長崎と広島がもうすぐ焦土になるころに。
不安の白。
だれも彼の殉死をうたがわなかった。
歓喜の白。
あばれた腸と、苦痛にあばれた肉体の、緣に前のめりずりおちかかった儘に時を止めた。
沈黙の白。
その樣を祖母が見出した。
みずからをみずからに隠し通した白。
彼に土産物をとどけようとしたのだった。
そのジンク・ホワイトのような白。
私の父が京都に出張した時の土産を。
そのシルヴァー・ホワイトのような白。
ゴック・アインを見た時にわたしは彼を描こうと思った。
そのチタニウム・ホワイトのような白。
道具は彼が用意した。
そのパーマネント・ホワイトのような白。
彼にとっては戯れだった。
そのセラミック・ホワイトのような白。
わたしの眼差しを独占し自らのかたちに淫させる、色めいた戯れだった。
その紫がかった白。
私にとっては彼のかたちがあまりに不可解に見えたからだった。
その橙がかった白。
そのかたちの嘘の美しさが。
その朱を暗示させた白。
わたしにも等しい美しさが。
その匂うような白。
レ・ダン・リーを壊した美しさが。
そのブルーに近い白。
わたしは彼を処罰するように描いた。
空の真ん中のブルーに。
まるで強姦するように。
空のふもとのブルーに。
まるで掠奪するように。
空のあがりかけのブルーに。
まるで拷問するように。
雲の切れ目の日照のすぐそばに見えたブルーに。
まるで侮辱するように。
海のブルーに。
まるで凌辱するように。
磐を打ったしぶきの匂わせたブルーに。
まるで愚弄するように。
覗き込まれた海の人の影の反映のブルーに。
まさに、彼の肉体に、——精神に?あますところなく刻むために。
海の紺碧の波立ったブルーに。
鮮明な痛みを。
霞みを知った淡かすむブルーに。
あきらかに知らしめるために。
蝶の羽根に見た一瞬のブルーに。
鮮明な痛みを。
しげった葉が時に影に暗示した気配としてのブルーに。
まざまなと敎えこむ爲に。
人の肌の翳りの色がわずかにきざす暗示としてのブルーに。
鮮明な痛みを、まさにその肉体に。——精神に?
セザンヌのいくつかのブルーに。
皮膚に。——精神に?
セザンヌの水浴のいくつかのブルーに。
肉に。——精神に?
セザンヌのリンゴの塗りつぶされた下のかすかなブルーに。
筋肉に。——精神に?
セザンヌの手の血管らしき翳りに薰った気がした思い出のブルーに。
筋に。——精神に?
あくまで白く。
軟骨に。——精神に?
その雪のような白。
咬み合う骨格に。——精神に?
ふる雪のような白。
毛髪にまで、うぶ毛にまで、——精神にまでも?
ただ、白というだけの棄てられた白。
まさに調教するように。
無理なポーズを厭わなかった。
まさに調教するように。
ゴック・アインは、ひそかにそれを愉しんで居たに違いなかった。
まさに調教するように。
見られる苦痛を。
まさに調教するように。
肉体の痛みを。
まさに調教するように。
苦痛をみられることを。
まさに調教するように。
痛みをのみ知る肉体を。
まさに調教するように。
そのむえせぶ無言の痙攣を。
まさに調教するように。
ゴック・アインが用意したのは使い古しのカンバスだった。
最初二枚用意した。
さまざまなかたちで、様々に、さまざまな白をそれぞれに塗った、ただ白い絵画。
ベトナムの画家が描いたものだと云った。
ゴック・アインは、手に取って見る私を返り見て。
その九月、一年近く前の日曜日に。
抽象画には違いなかった。
色彩をだけ、その白のヴァリエーションをだけ用いた、簡素な。
あるいは複雑な?
同じ色は一つもなかった。
同じ白の色彩の中で。
どれもが固有のその白だった。
或は、——と。
——雪、書いたのかもしれないね。…これ。
そういった私にゴック・アインは無音の笑みをやさしくくれた。
いつもの軽蔑の色を潜ませて。
——雪、見たことある?
私は云った。
ゴックアインは応えた。——あるよ。
と。
——日本で?
——日本とベトナムで。
——ベトナム?
——北のサパで、時々雪はベトナムにも降る…
わたしは白いおうとつを、ゴック・アインの形に色彩の直線と曲線でつぶした。
彼を、あるいは愛する爲?
あくまで独善的に、かれの痛みを知った肉体の、その事実に淫する爲に?
愛する爲に?
ホルバインの油のそれと絵具のそれの混ざった、揚げ古しの食用油を腐らせたような臭気の中で?
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