修羅ら沙羅さら。——小説。16


以下、一部に暴力的な描写を含みます。

ご了承の上、お読みすすめください。


修羅ら沙羅さら

一篇以二部前半蘭陵王三章後半夷族一章附外雜部

蘭陵王第二



タンから隱れたその、埃りを溜めた棚の影にレ・ダン・リーは嗅いだ。耳元に、聞き取れ無い程に鳴ったレ・ハンの笑った息の吐かれた、その匂いを。匂いと言う程の匂いも無い、にもかかわらず鮮明な生き物の体内の温度のある匂いを、そして素肌を曝した儘の姉の、大人のからだの肌の匂いを。姉と戯れた男の肌がうたたしい程にも立てた芳香を、名殘らせた気がした癖のある匂い、砂糖黍を発酵させたような。餘りにも見すぼらしい戯れを、レ・ダン・リーに誇った姉をリーは赦した。姉の爲に笑んだ。横に流した眼差しが庭に立ったまま、頭のおかしなタオが、赤いパーティードレスのそすをまくって顏の汗を流しながら、そこからは丸見えの自分たちを見ているのを見た。レ・ダン・リーはふたたび笑んだ。唇から笑った聲さえこぼれた気がして、そしてレ・ダン・リーは思わず息をのんだ。意識もなく、レ・ダン・リーは息を止めた。まみれた。汗に、そして汗にまみれて、肌を汗の粒が、そしてまさに背中のくぼみに流れ落ちたのを虫食いだらけだよ。

と。

知っていましたか?

蟲喰いだらけだったんだよ。知れ。お前の、その——と、

はばたいたのでした。

貴樣の背骨に咬みついた蝶の

その羽根はきのうもひそかに、と。

そして我に返ったタオはまみれた。蝶の吐き捨てた蟻の亡骸の傾斜に、ひからびて行った涙に、タオはひとりで、そしてタオはひなたで汗まみれだった。タオが鼻に笑ったのを背後にマンゴーの實が諫めた。レ・ハンは眼差しのむこうに遠く見ていた。壬生が自分たちの方を見た一瞬を。そのあまりにも短かった刹那の短さの須臾の一瞬に、レ・ハンは自分が彼の眼差しを見つめそこなったに違いなく想われたとき、壬生の目は突き当りの翳る隅の、使われない戸棚の雙つ並べられたそこにひそんだしたレ・ダン・リーさえ自分に見蕩れた気配の、なまめいた陰湿さに籠るのをひとりで膿んだ。かくて偈を以て頌して曰く

   姉はまるで少年のように美しかった

    褐色と白が

   ならんだ齒のどこかに牙を

    白と褐色が俊敏に

   隠し持った少年のように

    緩慢に

   整えた爪のどれかに

    翳る影と影の

   棘を生やした少年のように

    翳りの翳りに駆けて

   笑いもせずに咬みつくだろう

    音も立てずに

   軽蔑するよりすみやかな速度で

    身を潜めた。その

   褐色の肌にそんな幻を陽炎わせた

    白と褐色と

   妹はまるで幼虫のように醜かった

    褐色と白は

   蝶になど永遠になる術もなくて

    失踪するように

   そのままに蠢く幼虫の春のように

    連れ去られたように

   甲虫になど永遠になる力もなくて

    身を隠し

   そのままに這う幼虫のぬらした迹のように

    すでにその時にもう犯罪者だったかのように

   威厳と共に微笑むときも

    身をまるめ

   ただ卑屈をしかさらさないだろう

    翳りの中に

   眞っ白い肌に現実の凄惨をたゞひとり現じた

    目配せをして

かくに聞きゝハンとリーを放置せる昼食の後タン自らの部屋に入り入りてスマートホンの音ひゞかす炊事場に片付けもの放置せり是れユエン言さくわたしが片付けるから、と

義務として?

妻の

強制されたわけでもない傲慢なまでの

義務として?壬生の手伝はんとすルをユエンは拒絶すゆゑなり英語にわたしが片付けルからとタンの手伝はんとすルをもユエンは拒絶しベトナム語にわたしが片付祁流迦良登かくテ皿等放置常なり壬生寝室にハン又はリーを探シてふたりはをらざりきゆゑに壬生炊事場裏にハン又はリーを探してふたりはをらざりきマンゴーの樹木日に照りテゆゑに葉と葉ゝ枝と枝ゝ翳りを投げ翳りおとし翳らせき上の葉と葉ゝ枝と枝ゝにものノ動く音サル?

猨が?

さる?

眞っ赫な裸に柔毛を茂らせて

振り返った猿が?ありき壬生見上げズ猫はかクまで上に這いのぼれるやかくに壬生心に疑へり又鼠はかクまで上に這いのぼれるやかくに壬生心に疑へりかくて表なる庭にハン又はリーを探してふたりをらザりき遠くにサイレン鳴り鳴りて響き飛飛岐弖那利救急車の音ならんCovid19に憑かれタるあラたに発見さレたるやかくに壬生思ひキ庭の先なる道に人影なしその先河流れ光に泥の河白濁しきらめきさざめききらめき散るに人影なり通に人通りも無き是レ何処に於いてもすでに常なりて久しきゆゑに壬生ふたタび居間にハン又はリーを探シてふたりをらざりきゆゑに壬生仏間にハン又はリーを探してふタりをらざりきi-padが念佛常にひくク鳴り飛飛岐岐是レ常に常なりタオが叫き聲背後に聞こゑ振り返ルに佛間向かふの中庭にタオ立ちてひとり壬生が方を見て飛登里那里岐タオが媺しさいまさらにたゞあざやかに觀じて壬生の眼雙つ俱なりて窓が格子の向こうにタオを見キ振り返るに夢のように?

夢にあこがれた夢の女のように?

いじましい、

馬鹿げた、

愚かな夢の不意の実現の莫迦馬鹿しさのように東なる庭が椰子ノ樹ノ影に隱れテゐたるレ・ダン・リー顏出して壬生を見かくて笑みかけ覩をはりてひとりレ・ダン・リーは笑みき壬生その笑ミに應へずこコろにハンを探シ目にリーの笑ム顏の影淡い斑らに翳りタるヲ乃美見キその頭乃上に椰子葉こスれテ音鳴りき壬生の肌に風は感じざりき又リーのくクりたる髪の先のわずかの騒ぎに風觀ぜられ又くクられて埀れたる髪の根元に風觀ぜられず又くクられたるにくクられきラざりシ髪ノ美陀禮を風須臾數本ざわめかしきゆゑにたゞ知らざり見えざる大気さまざまの陥穽なすどこかしらに風吹き流れてありシやラん迦久弖頌シ氐

   あなたに話そう。

    その少女は聲を立てただろうか?

   まさにあなたの爲に話そう。

    ゴック・アインに

   笑った。リーは。

    からだだけ愛されながら

   聲もなく。

    その少女は

   かならずしも聲を殊更にひそめひかえたふうもなく。

    喉に聲を立てただろうか?

   リーはただ聲をたてないで笑った。

    ふたり以外に

   わたしの方こそ間違っていたのだった。

    蜥蜴さえいなかったその日の部屋で

   リーの顏が曝した事象にわたしは何かのその固有の意味をさぐろうとしていた。

    ゴック・アインの腕の中で

   その時にふと思い出した。

    壁に這う

   寝室にハンを探した時に、——リーを?彼女を探した時に、私はすぐさまに匂った氣がした。

    蜥蜴の裸眼の眼差しさえ無い儘に

   リーが体内から零れおとしたものの匂いが。

    レ・ダン・リーは

   思った。

    聲をたてただろうか?

   ハンの残した体臭だったに違いない。

    その喉に

   思った。

    その鼻に

   自分の体臭など気付かない。

    その唇に

   女たちが云った。

    ヴィンコムで…と

   あなたはいつもいい匂いがする、と。

    ゴック・アインは云った

   乳児の口元の匂いに砂糖をまぶして、さらに後ろに百合の冴えた凶暴な匂いを置いたかのような。

    ヴィンコム・センターの本屋の前で

   わたしは一度もかがなかった。

    彼は笑んで

   ゴック・アインは嗅ぎ取りはしなかったはずだった。

    まるで昨日の天気を話す様に

   彼自身の鼻には。

    彼女は僕を見ていた

   あの悪臭を。

    ゴック・アインはそう云った

   美しく可憐で、凶暴な褐色のしなるゴック・アインの体躯の放った悪臭を。

    だれも

   誰もが知る悪臭を。

    だれも周りにいないで、だれも

   かれが最後に毀したレ・ダン・リーも知ったに違いない悪臭を。

    だれの目も彼女を素通りするように

   或は彼女が怯えた悪臭を。

    だれにも

   彼女がおののきを以て知った悪臭を。

    だれにも關わらない儘に

   彼女がひそかに、時にはあからさまに歓喜して嗅いだ悪臭を。

    彼女は僕は見ていた。ずっと、

   そのなめらかな肌の、雨に擊たれた野生の獸の濡れた柔毛のような匂いを。

    ゴック・アインはそう云った

   そのなめらかな肌に埀れながれおちる汗の、雨に擊たれた野生の獸の濡れた柔毛のような匂いを。

    私を見て、そして鼻に笑いながら

   その凶暴な唇のほゝ笑んだかたちに、匂う雨に擊たれた野生の獸の濡れた柔毛のような匂いを。

    ゴック・アインはそう云った

   わたしが感じたその匂いは、——ハンが体の中から垂らしたその匂いは、すでにハンのものだったに違いない。

    数歩あるいて振り返ったら

   わたしもはっきりと匂ったから。

    彼女はやっぱり僕を見ていた

   レ・ダン・リーは思ったのだった。

    もう数歩あるいて振り返ったら

   おそらくは、今まさに自分はひとりでハンの男にみつめらていると。

    彼女はやっぱり僕を見ていた

   ショートパンツだけに身を隠して、じぶんを見ている男に。

    だから

   今まさに自分はひとりでハンの男にみつめらていると。

    僕が彼女に手招きした時

   姉を抱いて、そのあとで喰って喰い終わった男に。

    彼女はまさに、喜んで走った

   今まさに自分はひとりでハンの男にみつめらていると。

    僕のもとに

   レ・ダン・リーは眼をそらさなかった。

    僕はその日の

   知っていた。

    グイン・ヴァン・ヴーとの約束を破った

   私は、レ・ダン・リーは私を、自分の男であるかのように私を見ていた。

    彼女の爲に

   そして、自分を抱いた男であるかのように私に笑んでいた。

    グイン・ヴァン・ヴーとの待ち合わせを破った

   自分勝手に素直に、私に赦しをくれた眼で。








Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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