私本雜阿含經——漢文原文および書き下し文および現代語訳附語釈等若干1
雜阿含經(五十卷)〔ぞうあごんきょう、[梵]Saṃyukta Āgama、(相應部[巴]Saṃyutta Nikāya)〕
據大正大藏本No.99
雜阿含經卷第一
宋天竺三藏求那跋陀羅譯
〇1
如是我聞
一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園
爾時世尊告諸比丘
「當觀色無常如是觀者則爲正觀
正觀者則生厭離厭離者喜貪盡喜貪盡者說心解脫
「如是觀受想行識無常如是觀者則爲正觀
正觀者則生厭離厭離者喜貪盡喜貪盡者說心解脫
「如是比丘心解脫者若欲自證則能自證
我生已盡 梵行已立 所作已作 自知不受後有
「如觀無常苦空非我亦復如是
時諸比丘聞佛所說歡喜奉行
かく聞きゝ
一時、佛、舍衞國〔[梵]Śrāvastī〕祇樹給孤獨園〔[梵語]Jetavane ’nāthapiṇḍadasya-ārāme〕にありき。
その時、世尊、告げて諸比丘らに言さく
「まさに色に無常を觀ぜよ。
かくに觀ぜばすなはち正しく觀ん。
正觀せばすなはち厭ひを生じ離れんとす。
厭離せば貪りの喜びは盡きん。
喜貪盡くれば心に解脫を說かん。
「かくに受、想、行、識に無常を觀ぜよ。
かくに觀ぜばすなはち正しく觀ん。
正觀せばすなはち厭ひ生じ離れんとす。
厭離せば貪りの喜びは盡きん。
喜貪盡くれば心に解脫を說かん。
「かくなり、比丘らよ。
心解脫せば、あるひは自ら證しせんとし、まさに自ら證しせん。
我が生はすでに盡きゝ
梵行すでに立ちき
なさるべきはすでになされき
自ら知れり。…後の有をは受けず、と。
これなり。
「無常を觀ずるが如くに苦、空、非我また復〔ま〕たかくなり。
時に諸比丘ら、佛が說けるを聞き歡喜し奉行せり。
かく我聞きゝ。
その頃、佛は舍衞國〔しゃえいこく、シュラーヴァスティ、[梵]Śrāvastī〕にいた。
かの祇樹給孤獨園〔ぎじゅ‐ぎっこどく‐おん[梵]Jetavane ’nāthapiṇḍadasya-ārāme〕に。
それは棄てられた孤独者らに施しをした〔Anāthapiṇḍada〕須達多〔スダッタ、Sudatta〕が佛に捧げたジェータ太子の森〔祇陀林、Jetavana〕の寺である。
かくて、世尊はもろもろの比丘らに告げて言った。
「その目に見た色に、あなたはまさに觀るがいい
此の色、此れは常なるものではなかったと
かくに觀れば、あなたはそれをまさに正しく觀るだろう
正しく觀たその裸形に、あなたは色に結ばれてあるのを厭いはじめる
やがて離れようとしはじめる
厭い、離れれば盡きる
色に色を貪る喜びは
貪りの喜びが盡きれば心は、解脫をささやく
「かくに色を受けてその受
かくに受け想うてその想
かくに想うて行ってその行
かくに行って識ってその識
それらにまさに無常を觀よ
かくに觀ればあなたはすなはち正しく觀る
それらの裸形を
正しく觀ればあなたは厭ひはじめる
受、想、行、識にある今を
そして離れようとしはじめる
受、想、行、識にある今から
厭い、離れれば盡き果てる
受、想、行、識に貪るのその喜びこそは
貪りの喜びが盡きれば心はささやく
それらからのあなたの解脫を
「かくて比丘らよ
心が解脫すれば、或は心は自らそれを證明しようとし
まさに心は自ら證明し切り證しを得るだろう、かくに…
わたしのイノチはすでに盡きた
われらの叡智はすでに竆わまった
なさるべきもの、それはすでになされ果て
自ら知った。…もはや後には何も存在し得ない、と
「無常を觀るが如くに苦しみ、空しさ、非我を觀よ
これらもまた此のようなものだ
かくて、もろもろの比丘らは佛が說くのを聞き、歡喜し、修行した。
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