藤原定家の和歌二。拾遺愚草上より『二見浦百首』。原文。
已下據有朋堂文庫版『山家集、拾遺愚草、金槐和歌集』
是大正十五年十一月十三日印刷同十六日發行。有朋堂書店。
他、續國謌大觀戰前版等参照。
拾遺愚草上
詠百首和歌(二見浦百首、文治二年圓位上人勸(二)進之(一))
侍從
春二十首
よしの山かすめる空をけさみれはとしはひと夜のへたてなりけり
みち絕ゆる山のかけはしゆきゝえてはるのくるにもあとはみえける
なにとなくこゝろそとまる山のはにことしみそむる三か月のかけ
はる來ぬとかすむけしきをしるへにてこすゑにつたふうくひすのこゑ
雪きえてわかなつむ野をこめてしも霞のいかてはるをみすらん
かれはてし草のとさしのはかなさもかすみにかゝるはるのやま里
かせかをるをちの山路のむめのはないろにみするはたにのしたみつ
梅の花したゆくみつのかけ見れはにほひは袖にまつうつりけり
あさなきにゆきかふゝねのけしきまてはるをうかふるなみのうへ哉
をちこちの四方のこすゑはさくらにてはるかせ薰るみよし野のやま
あを柳のかつらきやまのはなさかり雲ににしきをたちそかさぬる
いまもこれすきてもはるのおも影ははなみるみちのはなのいろいろ
あらしやはさくよりちらすさくら花すくるつらさは日かすなりけり
をしましよ櫻はかりのはなもなし散るへきための色にもあるらん
いしはしる瀧こそけふもいとはるれちりてもしはし花はみましを
いつこにてかせをもよをもうらみましよしのゝ奧も花は散るなり
またきよりはなをみすてゝゆく鴈やかへりてはるのとまりをは知る
はなのちるゆくゑをたにもへたてつゝかすみのほかにすくるはるかな
をやまたの水のなかれを知るへにてせきいるゝなへに鳴かはつかな
くれぬなりあすもはるとはたのまぬに猶のこりけりとりのひと聲
夏十首
散りねたゝあなうの花やさくからに春をへたつるかきねなりけり
なへて世にまたてをみはやほとゝきすさらはつらさに聲やたつると
あやめくさかをるのき端のゆふかせにきくこゝちするほとゝきす哉
うらめしやまたれまたれてほとゝきすそれかあらぬかむらさめのそら
さみたれの雲のあなたをゆく月のあはれ殘せとかをるたちはな
なつふかきさくらかしたにみつせきてこゝろのほとを風に見えぬる
なをしはしさてやはあけんなつのよの岩こすなみに月はやとりて
おほゐ河をちのこすゑのあを葉よりこゝろに見ゆるあきのいろいろ
つゝきたつ蟬のもろこゑはるかにてこすゑもみえぬならのしたかけ
なつそしるやまゐのしみつたつねきておなしこかけにむすふ契りは
秋二十首
夕まくれあきのけしきになるまゝにそてより露はおきけるものを
わすれつるむかしをみつる夢をまた猶おとろかす荻のうはかせ
これもこれうきよのいろをあちきなく秋のゝはらの花のうはつゆ
あきのきてかせのみたちし空をたにとふひとはなきやとのゆふきり
み渡せは花ももみちもなかりけりうらのとま屋のあきのゆふくれ
あきといへはひとのこゝろにやとり來てまつにたかはぬつきの影哉
いつるよりてるつき影のきよみかた[淸見潟]そらさへこほる波のうへかな
いとはしよつきにたなひくうきくもゝあきのけしきはそらに見えけり
なかめしとおもひしものを淺茅生にかせふくやとの秋のよのつき
あきのみそふけゆく月になかめしておなしうきよは思ひしれとも
有明のひかりのみかは秋の夜のつきはこのよになをのこりけり
くれてゆくかたみに殘るつきにさへあらぬひかりをそふるあきかな
ゆふやみになりぬとおもへはなかつきの月まつまゝにをしき秋かな
おほかたのあきのけしきはくれ果てゝたゝやまのはのありあけのつき
はつ鴈のくもゐのこゑははるかにてあけかたちかきあまのかは霧
やまかつの身のためにうつころもゆゑあきのあはれを手にまかす覧
そこはかとこゝろにそめぬした草もかるれはよはるむしのこゑこゑ
うつろはむまかきの菊は咲そめてまついろかはるあさち原かな
神なひのみむろのやまのいかならんしくれもてゆくあきのくれかな
たたいまの野原をおのかものとみてこゝろつよくもかへる秋かな
冬十首
神な月かたもさためす散るもみちけふこそあきのかたみとも見め
ふゆきてはいり江のあしのよをかさね霜おきそふるつるの毛ころも
しも冴ゆるあしたの原のふゆ枯れにひとはなさけるやまとなてしこ
しくれつるまやのゝき端のほとなきにやかてさしいる月の影哉
はれくもるおなしなかめのたのみたに時雨にたゆるをちの里ひと
ものことにあはれ殘こらぬみやま哉おつるこの葉もかるゝくさはも
あさゆふのおとはしくれのならしはにいつふり變るあられなるらん
さひしけのふかきみ山のまつはらやみねにもをにもゆきはつもりて
あと絕えてゆきもいくよかふりぬらむ斧のえ朽ちし岩のかけ道
をしみつゝ暮ぬるとしをかねてよりいまいくたひとしるよなりせは
戀十首
世のなかよ髙きいやしきなそへなくなとありそめし思ひなるらん
おもふとは見ゆらんものをおのつからしれかしよひの夢はかりたに
このよゝりこかるゝこひにかつもえて猶うとまれぬこゝろなりけり
こひこひておもひしほとはえそなれぬたゝ時のまのあふ名はかりは
あまの原そら行つきのひかりかは手にとるからにくものよそなる
君といへはおつる淚にくらされて戀しつらしとわくかたもなし
戀つよしこゝろつからもなけくなりこはたかそへしおも影そさは
あちきなくつらきあらしの聲も憂しなとゆふくれにまちならひけん
しかはかりちきりしなかもかはりけるこのよにひとをたのみけるかな
ひたちおひ[常陸帶]かこともいとゝまとはれて戀こそみちのはてなかりけれ
述懷五首
見しはみなむかしとかはる夢のうちにおとろかれぬは心なりけり
おのつから有はあるよになからへてをしむとひとに見えぬへきかな
みるもうしおもふもくるし數ならてなといにしへを忍ひそめけん
ありはてぬ命をさそと知りなからはかなくもよをあけくらす哉
つきのいりあきのくるゝをおしみても西にはわきてしたふこゝろそ
無常五首
まほろしよ夢ともいはしよのなかはかくてきゝみるはかなさそこれ
おしなへて世はかりそめのくさまくらむすふたもとにきゆるしら露
世の中はたゝかけ宿すますかゝみ見るをありともたのむへきかは
あすはこんまてゝふ道もひとの世のなかきわかれにならぬものかは
ひとしれぬひとのこゝろのかねこともかはれはかはるこのよなりけり
雜
神祇五首
さやかなるつきひのかけにあたりてもあまてる神をたのむはかりそ
なかなかにさしてはいはしみかさやまおもふこゝろは神も知るらん
きくことにたのむこゝろそすみまさる賀茂のやしろのみたらしのこゑ
うきこともなくさむみちのしるへとや世をすみよしと天くたるらん
いかならんみわのやまもと年ふりてすきゆくあきのくれかたの空
曉
しのゝめはよものくさ葉もしをるまていかにちきりて露の置くらん
夕
そこはかと見えぬ山路のゆふけふりたつにそひとのすみかともしる
夜
むかしおもふ寢覺のそらにすきゝけんゆくへもしらぬ月のひかりの
山家
やまふかき竹のあみとにかせさえていくよたえぬるゆめちなるらん
田家
しき[鴫]のたつ秋のやまたのかりまくらたかすることそこゝろならては
山
あけぬとも猶おもかけにたつたやまこひしかるへきよはのそらかな
河
よそにても袖こそぬるれみなれさを[水馴棹]なほさしかへる宇治のかはをさ
別
わするなよ宿るたもとはかはるともかたみにしほるよはのつきかけ
旅
つきよするうらわの波をふもとにてまつそてぬらすみねのまつかせ
ふるさとをへたてぬみねのなかめにも越にしくもそせきはすゑける
楊貴妃
みかきおく玉のすみかもそてぬれてつゆときえぬる野邊そかなしき
李夫人
ほのかなるけふりはたくふほともなしなれし雲居にたちかへれとも
王昭君
うつすともくもりあらしとたのみこしかゝみの影のまつつらきかな
上陽人
しらさりきちりもはらはぬ床のうへに獨りよはひのつもるへしとは
陵園妾
馴れ來にし空のひかりのこひしさにひとりしをるゝきくのうはつゆ
文治二年はおよそ西曆 1186年。賴朝の治世下。所謂壇ノ浦の戰は壽永四年西曆1185年。仍て平家滅亡翌年。
圓位上人は西行。
文治は後鳥羽天皇御代。源氏方は改元無の治承五年。
安德天皇在世中源氏方に卽位。仍て此の時神器繼承なし。
後鳥羽天皇生年治承4年1180年崩御延応元1239年於隱岐。
定家生年は應保二年是西曆1162年。仍て滿二十四。
皇太后宮大夫藤原俊成生年永久2年1114年。没年元久元年1204年。仍て滿七十二。
佐藤義清[のりきよ]は生年元永元年1118年。没年文治6年1190年。保延6年1140年出家。圓位後に西行。仍て滿六十八。
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