髙橋氏文 原文及び現代語訳。1。先代舊事本紀に依る日本武尊傳



以下所謂『髙橋氏文』飜刻ス。底本『伴信友著/髙橋氏文考注』。是未完大部ノ註書也。附註ノ考證ニ關ス大半ヲ割愛ス。其九割已上ニ及。但シ割愛部分ニコソ此書ノ美点在ルハ事實也。冀、原書ニ當ラレル叓ヲ。

是奧書ニ以下ノ如。大岡山書店發行。昭和六年九月二日印刷。昭和六年九月五日發行。著作者ニ伴信友。

[●」割註。[・]傍註。[※]飜刻者附註。本文[渡][爾]等是所謂助詞ノ字。原書小字ニテ記ス。

亦若干私釋譯附ス。



伴信友は彼の

未完の論攷の序文に如是く云う。已下は

その全文である


髙橋氏文考注序

髙橋氏文、今の世に在ることを聞かず[——現存し無い]。たま〱、本朝月令・政事要略・年中行事祕抄に、引載[ひき/ひきのせ]たる[——引用されて居たの]を、とりあつめて、讀みるに、其氏の元祖、磐鹿[——イハガ、と訓ず]六雁[——ムツカリ、と訓ず]命、景行天皇[——卽ち、倭武尊の父]東國に行幸の後、淡の浮島の行宮にて[——日本書紀等に云ふ、倭武尊の東征の後に、死んで白鳥に成った以後の事蹟で在る。]、大御饌[おほみけ]の事に仕奉り、膳臣[かしはでのおみ]とめされて、膳職[かしはでのつかさ]の事をゆだねたまひ、大嘗・神嘗の獻物のことを定め仕奉り始めさせたまひたるゆゑよし、又身まかり[——躬罷る…卽ち死し]たる時、大御使を遣はして、宣らしめたまへる詔詞を書載[かきの]せ、そのほかに記せる事どもゝ、こと〲く[——悉く]、其家の舊[ふる]き傳說を、書しるせる古文にて、古典に見えざる古事[ふること/いにしへのこと]はたすくなからず、いともめでたき古事になむありける。然るに、それ引記せる本ども、とり〲に誤寫ありて、讀ときがたきところの多かるを、年頃[——此の頃]其異本どもを得て、見るごとに挍へ合せ[——校訂して]、また他書どもの中に、いさゝか引しるせるをも併せ見て、互に挍へ訂し、さてその事の次第に依りて、三條を表章して[——三章に別けて]、はやく考注を書さしめたるがありつるを、此ごろおもひおこして、さらに考そへてかくは注せるなり。但し、さる中には、おのづから强たる說もありぬべく、又くだ〱しきことゞもうちまじり、かつはこゝにいはでもあるべき事を、[・因に(イ)]おもひえたるまゝに、いひすぐせるもあり。すべてかたなりにおぼゆる下書なれば、なほつぎ〱に正しあらためてんかし。

[※茲下一字]天保十三年三月廿日

[※天保十三年ハ西暦ノ凡ソ1843年。御代ハ第120代(神功數ヘズ)仁孝天皇。征夷大將軍ハ第12代德川家慶。天保10年5月ニ所謂蠻社ノ獄。高野長英、渡邊崋山等受獄。同12年所謂天保ノ改革。]


…磐鹿六獦を謂はゞ主人公とする

所謂『髙橋氏文』を讀む時、我々が

先ず攷ておく可きは景行天皇の

事蹟で在る。何故なら

景光天皇の事蹟を背景とする中で

磐鹿六獦の物語は進行して行くからで在る。仍て

先代舊事本紀に據る系譜と事蹟を飜刻する。已下は即ち

景行天皇本紀の全文である底本は

≪合名會社經濟雜誌社≫刊行の『國史大系第七卷』是の奧畫に

明治三十一年七月三十日印刷/同年八月六日發行と在る。底本は

『古事記』、『先代舊事本紀』、所謂『神道五部書』是伊勢神道正典及び

『釋日本紀』を収録し此の『凡例』の『舊事本紀』該当箇所は以下の如し。曰く


一、先代舊事本紀は中山繁樹が度會延佳本を校訂上木せしものを原とし紅葉山文庫本前田家所藏安貞年間古寫本其他の異本を以て之を比校し古事記日本書紀和名類聚鈔新撰姓名綠國造本紀考などの諸本を參考せり

一、標註は毎行鼈頭に掲げその一行に屬するものはすべて○符を挿みて連記すること旣刊の國史大系に同じといへとも先代舊事本紀及ひ釋日本紀等原より板本にりし者は舊に從ひ□[※是飜刻表以  ]を冠して之を區別せり

一、本卷龞頭及び傍訓に擧けたる諸本は多く繁を避けて省畧に從ふこと左の如し

(先代舊事本紀)

紅葉山文庫本  官本  傍訓には(官)としるす

前田家所藏安貞年間古寫本  前本  傍訓には(マ)としるす

船橋家本  船本

寛永印本  寛本  傍訓には(寛)としるす

國造本紀考  國造考

一、原本の古訓はその誤謬の尤も甚しきものを訂して大抵之を存し音便の如き皆舊に從へり且つ諸本の訓讀を異にせるものあれは之を左傍に註し其下に書名を加へて之を區別せり

一、古事記及ひ舊事本紀に出てたる歌謠は初學者の人一讀了解し難きものあり卽ち古事記傳記紀歌集其他の諸書を參考し左傍に漢字を加へて之を註釋せり

一、歷代天皇の御名朝廷山陵殊に當時の地名及神名等は和名抄延喜式等に據りて之が分註又は頭註を加へ以て讀者の參攷に便にせり


景行天皇。[頭。書紀七]

諱ハ日‐本[ヤマト]大‐足‐彥[オホタラシヒコ]忍‐代‐別[オシロワケ]ノ尊[※ハ]者。活‐目‐入‐彥[イクメイリヒコ]五‐十‐狹‐茅[イサチ]ノ天皇[※第十二代垂仁]第三ノ[※太(イ)]子[ミコ]也。母ヲ曰(二)皇后日‐葉‐洲‐媛[ヒハスヒメ]ノ命ト(一)。丹‐波[タニハ]ノ道‐主[ミチノウシ]ノ王[ミコ]ノ之女也。[頭。官本前本寛本、三下有太字、然恐衍]


その諱[いみな]を

日本大足彥忍代別の尊と申される天皇(——卽ち景行天皇で在る)は

活目入彥五十狹茅の天皇(——卽ち第十二代垂仁天皇で在る)の第三の

太子で在らせられた。母は皇后、日葉洲媛の命と申し上げる。此の方、丹波の

道の主の王の御娘に在らせられる


元年歲次[さいし]辛未秋七月。皇太子尊卽(二)天皇位ニ(一)。尊テ(二)皇后ヲ(一)曰(二)皇太后ト(一)。尊テ(二)皇太后ヲ(一)追テ贈ル(二)太皇太后ヲ(一)。


景行天皇御世の元年の歲次は辛未。秋の七月に

皇太子[すめらひつぎ]の尊[みこと]は天皇[すめらみこと]の位に卽し賜うた。皇后(——卽ち

御母日葉洲媛の命で在る。)を尊びて曰く

皇太后と申し、更に皇太后を尊びて太皇太后の位を追って贈り給うた


二年二月。播磨ノ稻‐日[イナヒ]ノ大‐郎‐姬[オホイラツメ]立テ爲(二)皇后ト(一)。誕(二)‐生[アレマス]三[ミ]バシラノ男[ヒコミコ]ヲ(一)。[頭。二月、日本紀作三月]


二年二月。播磨の稻日の大郎姬を立てゝ皇后[すめらきさき]と爲し給ひ、軈て

三柱の皇子を生み賜うた


第一大‐碓[オホウス]ノ命。

次ニ小‐碓[ヲウス]ノ命。

次ニ稚‐倭‐根‐子[ワカヤマト子コ]ノ命矣。


始めに

大碓ノ命。次に

小碓の命。次に

次ニ稚倭根子命で在る。卽ち

此の小碓の命が所謂日本武尊である。亦

是に據って後に御世二十年に十六歳で小碓命は熊襲を征伐したの莫ら

此の雙生兒の生年は御世の四年で無ければ為ら無い


其一二ノ皇子ハ曰[※一日(イ)]ニ同シ胞ニ雙[フタゴ]ニ生[ア]レマセリ。[頭。子下脱一字日作曰竝據日本紀改補]天皇異[アヤシ]トシテ(レ)之ヲ則誥[タケ]ビタマヒテ(マ)(二)於碓[ウス]ニ(一)。故レ曰(二)大‐碓[オホウス]小‐碓[ヲウス]ト(一)。小碓ノ尊幼シテ有(二)雄畧[ヲゝシ]キ之氣[イキ](一)。及(レ)壯[ヲトコザカリ]ニ容‐貌[ミカタチ]魁‐偉[スグレテタケシ]。身‐長[ミノタケ]一‐丈[ヒトツヱ][※丈(ヂヤウ)ハ十尺約ソ三メートル。]力[ミチカラ]能ク扛[アゲ]玉フ(レ)鼎[カナヘ]ヲ[※鼎ハ支那ノ鐵鎌]焉。』


その一と二の皇子は一日に

[/古傳に曰く]

同じ曰に同じ胎[はら]から雙兒[ふたご]に生まれ坐した。天皇は

是を奇異[あや]しみ賜ひ[タケ]ビタマヒテ(マ)碓[※臼][ウス]に向かい賜うて誥[叫び呼び]

[/諭し敎へ]

[/告げ]

給うたので在る


故レ曰(二)大‐碓[オホウス]小‐碓[ヲウス]ト(一)。


故に此の雙生兒を大碓小碓と呼んだ


小碓ノ尊幼シテ有(二)雄畧[ヲゝシ]キ之氣[イキ](一)。及(レ)壯[ヲトコザカリ]ニ容‐貌[ミカタチ]魁‐偉[スグレテタケシ]。身‐長[ミノタケ]一‐丈[ヒトツヱ][※丈(ヂヤウ)ハ十尺約ソ三メートル。]力[ミチカラ]能ク扛[アゲ]玉フ(レ)鼎[カナヘ]ヲ[※鼎ハ支那ノ鐵鎌]焉。』


小碓の尊は幼くして雄畧の御氣——卽ち

荒振り猛しい御魂靈以て在らせられて、男盛りの

壯年に至るに及んではその御容貌[ミカタチ]は勝れて魁偉[スグレテタケ]しく、身の丈は一ト丈

卽ち十尺(——今に謂う10メートルで在る)にして亦御力は鼎——卽ち

支那の大なる鐵鎌を輕く持ち上げ給うほどで在った


四年。天皇幸ス(二)美濃ノ國ニ(一)。左右奏‐言[マヲサク]


御世の四年。天皇は

美濃の國に行幸[いでま]す。左右の隨者は奏上して言さく、


[※從者]此國ニ有(二)佳‐人[カホヨキヒト](一)。曰(二)弟‐媛[オトヒメ](一)。容‐姿[カタチ]端‐正[キラキラシ]。八‐坂‐入‐彥[ヤサカイリヒコ]ノ皇子[※第10代崇神ノ御子。]ノ之女也。


——此の國に稀なるほの佳人が居ります。名を曰く

弟媛と申してその容姿[カタチ]は端正にして

綺羅々々しく、八坂入彥の皇子の娘で御座いますとか

…と


天皇欲[※オボ]シ(二)入爲(一レ)妃。[頭。妃據前本補]幸ス(二)弟媛ノ家ニ(一)。聞テ(二)乘‐輿[スメラミコト][※乘輿ハ帝ノ支那風ノ謂。尊稱。]車‐駕[イデマス]ト(一)。則隱ル(二)竹‐林[タカムラ/タカハラ(マ)]ニ矣。


天皇は妃に娶さんと欲し賜うて

弟媛の家に出で坐し賜うた時に、御帝の出で坐す車の音を聞いた弟媛は

竹林に隠れ込むのだった


天皇權[ハカ]リテ(レ)令ト(二)弟媛ヲ至ラ(一)而。居テ(二)于泳[クゝ]ノ宮ニ(一)。[頭。萬葉集云三野之國之高北之八十一隣之宮]鯉‐魚[コヒ]ヲ浮ヘテ(レ)池ニ。臨‐視[ミソナハシテ]而[※戲レ]遊ヒ玉フ。[頭。遊、官本寛本無]時ニ弟媛欲[ホ]リシテ(レ)見マク(二)鯉ノ遊フヲ(一)。密[ミソカ]ニ來[キ]テ臨(レ)池ヲ。天皇則通[※遇(イ)][メ]シテ(レ)之矣。[頭。通、官本前本寛本作遇]弟媛以‐爲[オモヘラク]。


天皇は弟媛を誘い出さんと謀り給うて泳ノ宮(——三野[卽ち美濃]の國の

髙北の八十一隣りの宮[是今の

岐阜県可児市久々利乎]である。)に鯉を池に浮かべ見せびらかしながら遊び

戯れ給うた。時に弟媛は

鯉の泳ぎ遊ぶのを見たく想って秘かに訪れて

池の前に臨んだ。天皇は直ちに是を宮に召し通して持て成し給ひ

軈て独り語散り給う

註。萬葉集卷十三國謌大觀番號三二四二。百岐年

三野之國之

高北之

八十一隣之宮尓

日向尓

行靡闕矣

有登聞而

吾通道之

奥十山

野之山

靡得

人雖跡

如此依等

人雖衝

無意山之

奥礒山

三野之山

ももきね/みののくにの/たかきたの/くくりのみやに/ひむかひに

行靡闕矣/ありとききて/わがゆくみちの/おきそやま/みののやま

なびけと/ひとはふめども/かくよれと/ひとはつけども

こころなきやまの/おきそやま/みののやま


[※景行天皇]夫婦之道ハ。古今達‐則[カヨヘルノリ]ナリ也。然ドモ於テ(レ)吾ニ而不(レ)便[ツヤ〱モアラズ(マ)][※便ハ緣乃至情ニ通ズ]。


——夫婦の道は古今決まり切って変わる叓も無い。赦し合い

たゞ翳りも無く睦み合うという叓だ。ところが貴女は私に

些かも心を赦そうとはし無いのですね…


則請テ(二)天皇ニ(一)曰。


仍て、弟媛は天皇に乞うて申し上げた


[※弟媛]妾[アレ/ヤツコ(マ)]性[ヒトゝナリ]不(レ)欲セ(二)交‐接[トツギ]ノ之道ヲ(一)。今不(レ)勝[タ]ヘ(二)皇‐命[オホミコト]ノ之威[カシコミ]ニ(一)。暫ク納[メサレマイリ(マ)](二)帷‐幕[ミアラカ/ヲホト(マ)]ノ之中ニ(一)。然ドモ意所ナリ(レ)不(レ)快カラ。亦形‐姿[カタチ]穢‐陋[キタナクイヤシ/カタクナシ(マ)]。久シク之不(レ)堪(レ)陪[ツカヘマツル]ニ(二)於掖[※腋]‐庭[ウチツミヤ/ウチツミカド(マ)]ニ(一)。[頭。掖、原作腋、據官本前本寛本改]唯有(二)妾カ娣(一)。名ヲ(二)八‐坂‐入‐姬[ヤサカイリヒメ]ト(一)。容‐姿[カホカタチ/スガタ(マ)]美‐麗[ウルハシ]。志モ亦貞‐潔[タマシクイサギヨシ]。宜(レ)納[ツカ]ヒ玉フ(二)後‐宮[イチツミヤ]ニ(一)。


——私は私の性質[さが]として

夫婦の道曳いては母子の道をも求めざる者に御座います。今

御帝の輝く御稜威に堪えられずに

暫く帝の宮の内に身を寄せ納めたとしても決して幸福と想う叓

終に御座いますまい。亦

私の姿狀ちは美麗しくは在らず寧ろ穢らしいほどで御座いますれば、永く

御帝の宮の内に御遣え申し上げるに耐えられるものでも御座いません。たゞ

私に妹が御座います。その名を八坂入姬と申しまして

容姿は美麗にして心持ちも貞節を守って淸らに潔く

是をこそ後宮にお召し入れ下さいませ

…と


天皇聽シ玉フ(レ)之ヲ。仍[※依テ]喚[※メシ]テ八坂入媛ヲ(一)爲テ(レ)妃[ミメ]ト。生[ア]レマス(二)七男六女ノ皇子ヲ(一)。


天皇は是をお聞き入れに爲られ賜うて仍て八坂入媛を呼び召して妃と爲し給い

軈て生れ坐したのは七男六女の御子である


第一稚‐足‐彥[ワカタラヒコ]。


第一の御子は稚足彥(…一男)


次ニ五‐百‐城‐入‐彥[イホキイリヒコ]。


次に五百城入彥(…二男)


次ニ忍‐足‐別[オシタラシワケ]。


次に忍足別(…三男)


次ニ稚‐倭‐根‐子[ワカヤマト子コ]。


次に稚倭根子(…四男)


次ニ大‐酢‐別[オホスワケ]。


次に大酢別(…五男)


次ニ五‐十‐狹‐城‐入‐彥[イサキイリヒコ]。


次に五十狹城入彥(…六男)


次ニ吉‐備‐兄‐彥[キビノエヒコ]。


次に吉備兄彥(…七男)


次ニ渟‐熨‐斗‐姬[ヌノシヒメ]。


次に渟熨斗姬(…一女)


次ニ渟‐名‐城‐姬[ヌナキヒメ]。


次に渟名城姬(…二女)


次ニ五‐百‐城‐入‐姬[イホキイリヒメ]。


次に五百城入姬(…三女)


次ニ麛‐依‐姬[カゴヨリヒメ]。


次に麛依姬(…四女)


次ニ高‐城‐入‐媛[タカギイリヒメ]。


次に高城入媛(…五女)


次ニ弟‐姬[オトヒメ]。


次に弟姬(…六女)


次ノ妃三‐尾[ミヲ]ノ氏[カハ子(マ)]磐‐城‐別[イハキワケ]之妹水‐齒[ミヅハ]ノ郎‐媛[イラツメ]。[頭。磐城別國造本紀云三尾君祖石撞別命兒石城別王]


次の妃は三尾の氏の磐城別の妹

水齒郎の媛である——三尾君の祖は石撞別の命の御子

石城別の王である


生(二)五‐百‐野[イホヌ]ノ皇女ヲ(一)。


五百野の皇女を生れます


次ノ妃五‐十‐河‐媛[イカハヒメ]。


次の妃は五十河媛


生(二)神‐櫛[カムクシ]ノ皇子ヲ(一)。

次ニ稻‐背‐入‐彥[イナセイリヒコ]ノ皇子。


神櫛の皇子を生れます。次に

稻背入彥の皇子を


次ノ妃阿‐倍[アベ]ノ氏木‐事[コゴト]之女高‐田‐媛[タカタヒメ]。[頭。木事之女前本无四字]


次の妃は阿倍の氏の木事の娘、高田媛


生(二)武[タケ]國‐凝‐別[クニコリワケ]ノ皇子ヲ(一)。


武國凝別の皇子を生れます


次ノ妃日向ノ髮‐長[カミナガ]大‐田‐根[オホタ子]。


次の妃は日向の髮長大田根


生(二)日向ノ襲‐津‐彥[ソツヒコ/ヨソヒコ(マ)]ノ皇子ヲ(一)。


日向の襲津彥の皇子生れます


次ノ妃襲‐武‐媛[ソノタケヒメ/ヨソノタケヒメ(マ)]。


次の妃は襲武媛


生(下)國‐乳‐別[クニチワケ]ノ皇子ト與ヲ(中)國‐凝‐別[クニコリワケ]ノ皇子ヲ(上)。[※此ノ二皇子モ雙兒乎]


國乳別の皇子と國凝別の皇子とを生れます


次ニ國‐背‐別[クニセワケ]ノ皇子。亦ノ名ハ宮‐道‐別[ミヤチワケ]ノ皇子。

次ニ豐‐戶‐別[トヨトワケ]ノ皇子。


次に國背別の皇子。此の皇子、亦の名は

宮道別の皇子と申される。次に

次に豐戶別の皇子


次ノ妃佳‐人[カヲヨキヲミナ]ヲ曰(二)御‐刀‐媛[ミハカシヒメ]ト(一)。


次の美貌で知られた妃はその名を曰く

御刀媛と


生(二)豐‐國‐別[トヨクニワケ]ノ皇子ヲ(一)。


豐國別の皇子を生れます


冬十一月。都[ミヤコツク]ル(二)於纏‐向[マキムク]ニ(一)。謂(二)日‐代[ヒシロ]ノ宮ト(一)。


御世四年の冬十一月、纏向に都を

(——皇居を)

披き給うた。是を日代の宮と申す


天皇聞メシテ(下)美濃ノ國造名ハ神‐骨[カムホ子]ノ[※/八瓜命]之女[ムスメ]。[頭。神骨、古事記作神大根王日子坐王之子國造本紀所謂八瓜命也]兄‐遠‐子[エトホコ]。弟‐遠‐子[オトトホコ]。竝有ト(中)國‐色[カホヨク](上)。則遣シ(二)大碓ノ命ヲ(一)。使玉フ(レ)察[ミ]セシメ(二)其婦‐女[ヲトメ]ノ之容‐姿[カタチ](一)。時ニ大碓ノ命便密[ミソカ]ニ通[タハ]ケテ而不(二)復‐命[カヘリコトマヲ]サ(一)。由テ(レ)[※是ニ]恨ミ玉フ(二)大碓ノ命ヲ(一)。[頭。由下是字脱據日本紀補之]


天皇は

美濃の國造、名は神骨と申す者の娘

兄遠子と

弟遠子とが

竝んで國に竝ぶ者の莫い程に美しいと聞き給うて直ちに

大碓の命を

遣はしその女の容貌かたちを試し見させ給うた。時に

大碓の命は秘かに此の女と密通し

都に還っては來無かった。據って天皇は

大碓の命を

恨み疎んだので在る。…と

是が先の御世の四年の段で在るなら、此の時大碓命は

生誕直後の乳飮み兒で在る。明らかに矛盾がある。亦

復命し無いと云うなら、神代の天稚彥と同じく

歸朝し無かった叓に成ら無ければ爲ら無い。假に舊事紀が

日本紀を切り貼りしたのならば、日本紀系譜の條末を其の儘茲に挿入したので在る。但しそれは

餘りにも不自然に想える。書紀條末のそれを中途に挿入する樣な編集をしたのなら

抑々不自然な條は削除するか

御世十六年の條にでも切って入れて仕舞えばよい。此の

意味不明な杜撰さは理解でき無い。逆に、假に

舊事記を日本紀が切り貼りして更に極端な潤色を施したのなら、在り獲無くは無い。——と

私は想う。何故なら

日本記は一書云、一書云の集積で在って、少々矛盾しようがその

スタイルが總て解決して仕舞うテクストだからで在り

亦、最も後発の勅撰史書で在るなら散乱する先行文書を収集し

整理し組み合わせ一気に読み進めることが出來る樣に編纂するのが仕事の本義で在って

テクストが諸矛盾を重ねようが知った事では無い。寧ろ

諸説在ることそのものがテクストの誠意でさえ在る筈なのだから


十二年秋七月。熊‐襲[クマソ]反[ソム]キテ之不(レ)朝[ミツギタテマツラ]。八月。幸(二)筑紫ニ(一)。巡リ(二)‐伐玉フ諸ノ國ノ不ル(レ)從(レ)命[オホミコト]ニ者ヲ(一)。』


御世十二年の秋七月に熊襲は叛ひて

朝貢し無かった。八月。天皇は筑紫に巡って

此れ等

諸々の國の隨はざる者等を

伐ち賜た。卽ち

最初の熊襲征伐で在る


十三年。於(二)日向ノ國ニ(一)有(二)佳‐人[カホヨキヲミナ](一)。曰フ(二)御‐刀‐媛[ミハカシヒメ]ト(一)。即爲テ(レ)妃[ミメ]ト生(二)豐‐國‐別[トヨクニワケ]ノ皇子ヲ(一)。


十三年。日向[ひむか]の國に美貌の佳人が在った。此の人は名を

御刀媛と申された。卽ち妃と爲され賜うて軈て

生みませる御子は豐國別の皇子で在る


二十年春二月辛巳ノ朔。甲申[・四日]。遣シテ(二)五‐百‐野[イホヌ]ノ皇‐女[ヒメミコ](一)。令[※/命][※シメ]玉フ/[詔』シ玉フ(レ)祭ラ(二)天照太神ヲ(一)。[頭。令、前本作命、屬上句]

冬十月。遣(二)日‐本[ヤマト]武[タケ]ノ尊ヲ(一)。令玉フ(レ)擊(二)熊‐襲[クマソ]ヲ(一)。時ニ年[ミトシ]十六歲。[頭。○按日本紀、日本武尊撃熊襲者、繫二十七年]


二十年(…但し

日本書紀は是を

二十七年と記す)。春の二月、卽ち

辛巳の月の朔、卽ち

甲申の日に

五百野の皇女を遣はし給うて

天照太神を祀らせ給うた。冬十月。日本武の尊を遣し賜ひて

熊襲を撃たせ給ふた。此の時に日本武の尊は

御年十六歲で在った


三[※/四(イ)]十六年八月。[頭。官本作四、未知孰是]


御世三十六年(——乃至

四十六年)の八月。…と云う叓は

三十六年莫ら小碓命は三十二歳。亦

四十六年莫ら四十二歳で在る

大臣物部ノ膽‐咋[イグヒ]ノ宿禰ノ女[ムスメ]五‐十‐琴[イゴト]姬ノ命ヲ爲(レ)妃ト。生(二)五‐十‐功‐彥[イゴトヒコ]ノ命ヲ(一)。

天皇は大臣で在る物部の膽咋の宿禰の娘

五十琴姬の命と申す女を御妃と爲し玉ふた。軈て

五十功彥命を生みませる


五十一年春正月壬午朔。戊子[・七日]。詔シテ(二)群‐卿[マヘツギミ]ニ(一)而宴‐數‐日[トヨノアカリヒヲヘス]矣。時ニ皇子稚‐足‐彥[ワカタラシヒコ]ノ尊。武內ノ宿禰。不(レ)參[マ井](二)‐赴于宴リノ庭ニ(一)之。天皇即問玉フ(二)其故ヲ(一)。因テ以奏曰サク。


五十一年の春正月。壬午の朔。戊子の日に

集はせた

羣卿に天皇は御言宣り給ふて、數日に亙って酒宴を披かれ賜ふた。時に

皇子で在らせられる稚足彥の尊、及び武內の宿禰は是の宴の庭に

參り

赴かずに

在った。恠しんで天皇は

卽ち

その故を問ひ給うて、是に因って稚足彥の尊と武內の宿禰は

斯く

奏上し申し上げたので在る


[※稚足彥尊與武內宿禰]夫宴‐樂[トヨノアカリ]之日ハ。群卿百‐寮[※/官][モゝノツカサ]。[頭。百、前本作官]必情在テ(二)戲遊ニ(一)。不(レ)存[オ]ラ(二)國家ニ(一)。若有テ(二)狂‐生[クルヘルヒト](一)。而伺(二)墻‐閤[ミカキ]ノ之隙[ヒマ]ヲ(一)乎。故レ侍ヒテ(二)門‐下[ミカド]ニ(一)。備フ(二)非‐常[オモヒノホカナル]ニ(一)。[頭。隙。官本寛本作陳]


——臣謹んで申し上げまする。それ

宴の樂[トヨノアカリ]の日は羣卿百の寮[司]

必ず心は戲れ

眼差しは遊びに奪はれて在って、決して

國家の大事には御坐いませぬ。故、若しも臣の

狂ひ叛する者供が御垣[み‐かき。卽ち門[みかど]]の隙を窺ふて在れば

是を

如何に爲しましょうか。故に門下に[みかど。卽朝廷の周辺に]控へて

萬一の非常の時に

備へてゐたので御座います

…と


時ニ天皇詔曰ハク。


此の時、天皇は御言宣り給ひて曰く


[※天皇]灼‐然[イヤサコナリ]。


——將に


則異ニ寵[メグ]ミ玉フ(レ)之ヲ焉。秋八月。稚足彥ノ命立テ爲(二)皇太子ト(一)。[※第13代成務][●年二十四。]命シテ(二)武內ノ宿禰ニ(一)。爲(二)棟梁之臣ト(一)。[頭。成務爲皇太子與下分齟齬事見下]


卽と殊更に是を悦んで二人を寵愛し給うたのだった。軈て

秋の八月。稚足彥の命を皇太子に立て給ひ(——稚足彥の命、卽ち

後の第13代成務天皇、此の年二十四で在らせられた。)、亦

武內の宿禰にも勑命下され玉ひて是を棟梁の臣と爲し給ふた。…臣等は

武内の宿禰をその頭に戴いたのである。ところで、此の

稚足彥の命の母は御世四年の條の八坂入彥の皇子の娘弟媛の娣で在る八坂入媛。ちなみに

八坂入彥の皇子は景行天皇の祖父第10代崇神天皇の皇子であり

稚足彥の命は此の妃と

天皇との間の息子で在る。そして、上の系譜で判るが、此の皇子は

此の妃と生し賜うた一番目の御子で在る。皇太子に立ったのが御世の五十一年に

二十四歳でと云ふのだから生年は

御世の二十七年。八坂入媛を妃と爲して二十三年目に生まれた第一子だと云ふ叓に成る


初天皇與(二)武內宿禰(一)同日ニ生[ア]レマセリ之。故有(二)異ナル寵[ミウツクシミ]焉。


初め

天皇と武內宿禰とは

同日に生れ坐し給ひ、此の故に

斯くも稀にして他に異なる寵愛を

戴いたので在る。——と、すぐ前の逸話の必然性

武内宿禰の棟梁之臣と成った根據を完全に否定する。或いは

否定し無い迄も無効にして仕舞う。茲には

それと目立たない語りの技法論的な矛盾が存在している。卽ち

テクストは何かを隱して在る事を

そっと

告げている、としか

私には想えない。同日の生誕。つまり

景行天皇と武内宿禰は雙兒だったのではないか


日本武ノ尊平[コトム]ケテ(二)東ノ夷[エミシ]ヲ(一)還參ルトテ未ルニ(レ)參。薨レヌ(二)於尾張ノ國ニ(一)矣。[頭。按日本武尊薨干伊勢國能褒野陵式云能褒野墓在伊勢國鈴鹿郡]


日本武の尊は東の蝦夷の亂を平定して

都に還り參ろうとして未だに還り參りもし無い内に

異鄕、尾張の國に薨去爲された。尾張。卽ち恐らくは日本書紀に云ふ≪尾張氏之女

宮簀媛≫、…小碓命の遠征中に娶した妻の女の家で死んだ、と

そう思しき

記述に成ってゐる。で在れば

日本紀の尾張の妻の家を出て向かった先の蛇=山の神の呪いに依る小碓命の

死の

事蹟など抑々何も無かった叓に成る。少なくとも、舊事本紀の撰者は

そう云ってゐる。亦

是が御世五一年莫らば、日本武尊の沒年は四十七歳


初娶テ(二)兩‐道‐入‐姬[フタチイリヒメ]ノ皇女ヲ(一)爲テ(レ)妃[ミメ]ト。生(二)稻‐依‐別[イナヨリワケ]ノ王ヲ(一)。


(日本武尊は、)初めての妃として兩道入姬の皇女——第十一代

垂仁天皇の娘、つまり景光天皇の異母娣を妃と爲して

稻依別の王を生み坐し給ふた


次ニ足‐仲‐彥[タラシナカツヒコ]ノ尊。


次に足仲彥の尊


次ニ布‐忍‐入‐姬[ヌノシイリヒメ/ヌノヲシイリヒメ(マ)]ノ命。


次に布忍入姬の命


次ニ稚‐武[ワカタケ]王。


次に稚武王


又吉‐備[キビ]ノ武‐彥[タケヒコ]ノ女吉‐備[キビ]ノ穴‐戶[アナト]ノ武‐媛[タケヒメ]ヲ爲テ(レ)妃ト。生(三)武‐卵[タケミコ/タケツゝミ(官、マ)]ノ王ト與ヲ(二)十‐城‐別[トホキワケ]ノ王(一)。[※是モ雙兒乎]


亦、吉備の武彥の娘、吉備の穴戶の武媛を妃と爲して

武卵の王與と十城別の王とを

生み玉ふた


又穗‐積[ホヅミ]ノ氏忍‐山[オシヤマ]ノ宿禰ノ女弟‐橘‐媛[オトタチバナヒメ]。生(二)稚‐武‐彥[ワカタケヒコ]ノ王(一)。[頭。氏、此下前本有女字]』


穗積氏の忍山の宿禰娘

弟橘媛をして稚武彥の王を

生み賜ふた


五十二年夏五月甲辰朔。辛未[・二十八日]皇后播磨ノ大‐郎‐姬[イラツヒメ]ノ命薨。秋七月。八坂入姬ノ命立爲(二)皇后ト(一)。


御世の五十二年

夏五月甲辰朔

辛未(——二十八日)皇后

播磨の大郎姬命が薨罷り給うた。そして

秋七月に、八坂入姬の命を引き立てゝ新たな皇后と爲され賜うたので在る


五十八年春二月辛丑ノ朔。辛亥[・十一日]幸シテ(二)近江ノ國ニ(一)居マス(二)志賀ニ(一)三歲。是ヲ謂(二)髙‐穴‐穗[タカアナホ]ノ宮ト(一)。


五十八年

春二月辛丑の朔

辛亥(——十一日)近江の國に行幸爲されて賜うて

志賀に留まり坐し坐す叓

以降三歲に及んだ。是を髙穴穗の宮と謂ふ


六十年冬十一月乙酉ノ朔。辛卯[・七日]天皇崩マシヌ(二)於高穴穗ノ宮ニ(一)。年[ミトシ]百‐六[モゝチマリムツ]歲。後ノ帝ノ二年葬[ツル](二)於山‐邊[ヤマノヘ]ノ道‐上[ミチノヘ]上陵ニ(一)。[頭。按上文垂仁三十七年大足彥命立爲皇太子今百六歳崩則所謂三十七年者未生以前也古事記作御年壹佰參拾漆歳者得實乎]


六十年

冬十一月乙酉の朔

辛卯——七日

天皇は

高穴穗宮に神去り給ふた

御歳は百六歲で在らせられた

後嗣の帝の二年に

山邊の道上の陵に

葬られ賜ふた


夫[コ]ノ天皇所(二)生[ア]レマセル男女總テ八‐十‐一[ヤソマリヒトハシラ]ノ皇子之中ニ。男[ヒコミコ]五‐十‐五[イソマリイツハシラ]。女[ヒメミコ]二‐十‐六[ハタチマリムツバシラ]。


此の天皇の生み爲し賜ふた男女は凢て

幷せて八十一の皇子皇女

その中に男——ひこみこは五十五柱

女——ひめみこは二十六柱で在る


就‐中‐際[コノナカニ]畱メ(二)六バシラノ皇子ヲ(一)。[●男[ヒコ]五バシラ。女[ヒメ]一バシラ。][頭。男五女一、前本爲本文]以‐外[コノホカ]ハ皆封[コトヨサシマス](二)州‐縣[クニアガタ]ニ(一)矣。


その中六柱の皇子をのみ(——彦皇子は五柱

姫皇子は一柱である。)宮中に留め置いて

その外は皆周邊の州縣[クニアガタ]に散らした

/を支配=封じさせた

/に排除した=封じた


皇‐子[ヒコミコ]五‐十[イソバシラ]。皇‐女[ヒメミコ]二‐十‐五[ハタマリイツハシラ]。合セテ七‐十‐五[ナゝソマリイツバシラ]。各封[コトヨサシテ](二)州縣ニ(一)不(レ)入レ(二)國‐史[クニツフミ]ニ(一)。[頭。○二十五、官本寛本五作六][頭。七十五、官本寛本五作六]


皇子は五十柱

皇女は二十五柱

合せて七十五柱

その悉くを地方州縣に散らせて

/を支配=封じさせて

/に排除して=封じて

故に國史に入れる叓は出來無い。卽ち

いずれにせよ最早彼等は大倭中央には屬さ無い、と

字義の儘に從ばそう讀める。或いは

當時の大倭朝廷の権力範囲の小さゝと影響力の脆弱さ

乃至

今我々が見て居るのが飽く迄も

大倭という一つの地方共同体の史的事象に過ぎ無い

云う叓にも

今更に気附かせてくれるかも知れ無い。已下

皇子の一覧が列擧される。是は

舊叓本紀の書式で在る


稚‐倭‐根‐子[ワカヤマト子]ノ命。

大‐酢‐別[オホスワケ]ノ命。

吉‐備[キビ]兄‐彥[エヒコ]ノ命。

武‐國‐凝‐別[タケクニコリワケ]ノ命[●筑紫ノ水[ミズ]間ノ君ノ主。]

神‐櫛‐別[カムクシワケ]ノ命[●讚岐ノ國造ノ祖。]

稻‐背‐入‐彥[イナセイリヒコ]ノ命[●播磨別ノ祖。]

豐‐國‐別[トヨクニワケ]ノ命。[●喜‐備[キビ]別祖。]

國‐背‐別[クニセワケ]ノ命。[●水間君ノ祖。]

忍‐足‐別[ワケ]ノ命。[●足、官本前本作之恐非]

日‐向[ヒムカ]ノ襲‐津‐彥[ソツヒコ]ノ命。[●奄‐智[アンチ]ノ君祖。][頭。○奄智日本紀作阿牟]

國‐乳‐別[クニチワケ]ノ命。[●伊‐與[イヨ]ノ宇[ウ]‐和別ノ祖。]

豐‐門‐入‐彥[トヨイリヒコ]ノ命。[●大‐田[オホタ]別ノ祖。]

五‐十‐狹‐城‐入‐彥[イソサキイリヒコ]ノ命。[●三河ノ長‐谷‐部[ハセベ]ノ直ノ祖。]

稚‐屋‐彥[ワカヤヒコ]ノ命。

彥‐人‐大‐兄[ヒコヒトノオホエ]ノ命。

武‐國‐皇‐別[タケクニスメラワケ]ノ命。[●伊奧[イヨ]ノ御‐城‐別[ミキワケ]。添[ソフ]ノ御杖ノ君ノ祖。]

真‐稚‐彥[マワカヒコ]ノ命。

天‐帶‐根[アメタラシ子]ノ命。[●目鯉部君祖。][頭。目鯉、官本作自鯉]

大‐曾‐色‐別[オホソシコワケ]ノ命。

五‐十‐河‐彥[イカハヒコ]ノ命。[●讚岐ノ直。五‐十‐河[イカ]別ノ祖。]

石‐社‐別[イハサワケ/イハソワケ(マ)]ノ命。

大‐稻‐背‐別[オホイナセワケ]ノ命。[●御‐杖[ミツエ]ノ君ノ祖。]

武‐押[タケオシ]別ノ命。

豐‐門‐別[トヨトワケ]ノ命。[●三島ノ水‐間[ミスマ]ノ君。奄智ノ首。壯子ノ首。粟[アハ]ノ首。筑紫ノ火ノ別ノ君ノ祖。]

不‐知‐來‐入‐彥[イサクイリヒコ]ノ命。

曾‐能‐目‐別[ソノメワケ]ノ命。

十‐市‐入‐彥[トヲチイリヒコ]ノ命。

襲‐小‐橋‐別[ソノヲバシワケ]ノ命。[●兎‐田[ウダ]ノ小‐橋[ヲバシ]別ノ祖。][頭。印本兎田作三田(前本同)]

色‐己[シコ]焦[コル(松、マ)]別[ワケ]ノ命。[頭。○焦、官本作集]

熊‐津‐彥[クマツヒコ]ノ命。

息‐前‐彥‐人‐大‐兄‐水‐城[オキナガヒコヒトオホエミヅキ]ノ命。[●奄‐智[アムチ]ノ白幣造ノ祖。][頭。原作弊、據官本前本寛本改]

熊‐忍‐津‐彥[クマオシツヒコ]ノ命。[●日向ノ穴‐穗‐別[アナホワケ]ノ祖。]

櫛‐見[クシミ]皇命。[●讚岐ノ國造ノ祖。]

武‐弟‐別[タケオトワケ]ノ命。[●立‐知‐備[タチゝヒ(マ)]別祖。]

草木ノ命。[●日向ノ君ノ祖。]

稚‐根‐子[ワカ子コ]ノ皇‐子[ミコ]ノ命。

兄‐彥[エヒコ]ノ命。[●大‐分[オホキダ]穴‐穗[アナホ]ノ御埼別。海‐部[アマベ]ノ直。三‐野[ミヌ]之宇‐泥[※詭]‐須[ウ子ス]別等祖。][頭。泥誤作詭據古事記改之]

宮‐道‐別[ミヤヂワケ]ノ命。

手‐事‐別[タコトワケ]ノ命。

大‐我‐門‐別[オホカトワケ]ノ命。

豐‐日‐別[トヨヒワケ]ノ命。

三‐川[ミカハ]ノ宿‐禰[スク子]ノ命。

豐‐手‐別[トヨタワケ]ノ命。

倭[ヤマト]ノ宿‐禰[スク子]ノ命。[三川ノ大‐伴‐部[オホトモベ]ノ直ノ祖。]

豐‐津‐彥[トヨツヒコ]ノ命。

五‐百‐木‐根[イホキ子]ノ命。

弟‐別[オトワケ]ノ命。[●牟宜都[※ムゲツ]君祖。][頭。弟別、前本作弟引○牟前本作弔]

大焦[コル(松、マ)]別ノ命。

五‐十‐功[イコト(マ)]彥ノ命。[●伊勢ノ刑部ノ君。三川ノ三‐保[ミホ]ノ君ノ祖。]

櫛‐角‐別[クシヲヌワケ]ノ命。[●茨‐田[マムタ]ノ連ノ祖。]

定ル(二)皇子ニ(一)六バシラ之中。男[ヒコミコ]五[イツバシラ]女[ヒメミコ]一[ヒトツバシラ]。[定皇云々六字、前本作以下皇子之中]

兒ハ大‐碓[オホウス]ノ命[●守[モリ]ノ君等ノ祖。]

次ニ小‐碓[ヲウス]ノ命。[●追テ號ス(二)日本武ノ尊ト(一)][頭。追號云々、前本爲本文]

次ニ豐‐國‐別[トヨクニワケ]ノ命。[●日向ノ諸‐縣[モロアガタ]ノ君等ノ祖。]

次ニ稚‐足‐彥[ワカタラシヒコ]ノ尊。

次ニ五‐百‐城‐入‐彥[イホコイリヒコ]ノ命。

次ニ五‐百‐野‐姬[イホヌヒメ]ノ皇‐女[ミコ]ノ命。[●伊勢ノ天照太神齋祠。]

已上五‐十[イソ]バシラノ皇子。其二十五皇女ハ。不(レ)在(二)入[イ]ル限ニ(一)。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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