髙橋氏文/伴信友版 原文



以下所謂『髙橋氏文』飜刻ス。底本『伴信友著/髙橋氏文考注』。抑々所謂『髙橋氏文』ハ伴信友ノ篇纂ニ依ル。

是奧書ニ以下ノ如。大岡山書店發行。昭和六年九月二日印刷。昭和六年九月五日發行。

[●」割註。[・]傍註。[※]飜刻者附註。本文[渡][爾]等是所謂助詞ノ字。原書小字ニテ記ス。



○伴信友云。

髙橋氏文考注序

髙橋氏文、今の世に在ることを聞かず。たま〲、本朝月令・政事要略・年中行事祕抄に、引載たるを、とりあつめて、讀みるに、其氏の元祖、磐鹿六雁命、景行天皇東國に行幸の後、淡の浮島の行宮にて、大御饌の事に仕奉り、膳臣とめされて、膳職の事をゆだねたまひ、大嘗・神嘗の獻物のことを定め仕奉り始めさせたまひたるゆゑよし、又身まかりたる時、大御使を遣はして、宣らしめたまへる詔詞を書載せ、そのほかに記せる事どもゝ、こと〲く、其家の舊き傳說を、書しるせる古文にて、古典に見えざえう古事はたすくなからず、いともめでたき古事になむありける。然るに、それ引記せる本ども、とり〲に誤寫ありて、讀ときがたきところの多かるを、年頃其異本どもを得て、見るごとに挍へ合せ、また他書どもの中に、いさゝか引しるせるをも併せ見て、互に挍へ訂し、さてその事の次第に依りて、三條を表章して、はやく考注を書さしめたるがありつるを、此ごろおもひおこして、さらに考そへてかくは注せるなり。但し、さる中には、おのづから强たる說もありぬべく、又くだ〱しきことゞもうちまじり、かつはこゝにいはでもあるべき事を、[・因に(イ)]おもひえたるまゝに、いひすぐせるもあり。すべてかたなりにおぼゆる下書なれば、なほつぎ〱に正しあらためてんかし。

[※茲下一字]天保十三年三月廿日


第一章

○伴信友云。此章は、本朝月令[●此書全篇、世に在ることを聞かず。塙保己一が、群書類從に収めたる、四月より六月までの部の缺本と、其卷のまた缺たる一本を、見たるのみなり。云々。]六月朔日、内膳司、供(二)忌火[イミヒ]御飯(一)事の下に、髙橋氏文云とて、此文を載たり。年中行事祕抄[●作者詳ならず。奧書に、本云、永仁之頃、被(二)書始(一)之處、自然被(レ)閣(レ)之畢、嘉曆令(レ)終(二)寫功(一)者也。次に建武元年云々。]の、同條の下に、此文中を略て載たるをも、挍へ合せて採れり。又、谷川士淸の、日本書紀通證に、此氏文を引き載たるは、此祕抄なる文を摘出たるものなるに、己が見たる本どもと、異なる所のあるは、これも一本として、挍へ採れり。谷川本と云ふは是なり。但し、其中に、誤字の著[シル]きはとらず。


一。掛畏卷向日代宮御宇。大足彥忍代別天皇。五十三年癸亥八月。詔(二)群卿(一)曰。朕頋(二)愛子(一)。何日止乎。欲(レ)巡(二)狩小碓王[●又名倭武王」所(レ)平之國(一)。

○掛けまくも、畏き、卷向[マキムク]の日代[ヒシロ]の宮に天[アメ]の下治[シロ]しめしゝ、大足[オホタラシ]彥[ヒコ]忍代別[オシロワケ]の天皇[スメラミコト]の、五十三年、癸亥[ツチノトヰ]の八月[ハヅキ]、群卿に、詔[ミコトノ]りして、宣[ノ]りたまひけらく、朕[アレ]、愛[カナ]しき子を顧[オモ]ふこと、何[イツ]れの日にか止[ヤ]まん。小碓[ヲウス]の王[ミコ](又の名は、倭武の王[※ヤマトタケルノミコ])の平[ム]け給ひし國々を、巡狩[メグリミ]んと欲[ホツ]すと、詔[ノ]り給ひき。


二。是月行(二)幸於伊勢(一)轉入(二)東國(一)。冬十月到(二)干上總國安房浮島宮(一)。

○この月、伊勢に行幸[イデマ]し、轉[ウツ]りて、東の國に、入りましき。冬十月、上[カミ]ッ總[フサ]の國、安房の、浮島の宮に、到りましき。


三。爾時磐鹿六獦命從駕仕奉矣。

○その時、磐鹿[イハガ]六獦[ムツカリ]の命、從駕[ミトモ]に、仕へ奉[マツ]りき。


四。天皇行幸於葛餝野。令御獦矣。

○天皇、葛餝[カツシカ]の野[ヌ]に行幸[イデマ]して御獦[ミカリ]せしめ給ひき。


五。大后八坂媛[渡]借宮[爾]御坐。磐鹿六獦命亦留侍。

○大后[オホキサキ]、八坂媛[ヤサカヒメ]は、借宮[カリミヤ]に坐[マ]しまし、磐鹿[イハガ]六獦[ムツカリ]の命も、亦、留[トゞマ]り、侍[ハベ]りき。


六。此時。大后詔(二)磐鹿六獦命(一)。此浦聞(二)異鳥之音(一)。其鳴(二)駕我久久(一)。欲(レ)鳴見(二)其形(一)。卽磐鹿六獦命。乘(レ)船到(二)干鳥許(一)。鳥驚飛(二)於他浦(一)。猶雖(二)追行(一)。遂不(二)得捕(一)。於是磐鹿六獦命詛曰。汝鳥戀(二)其音(一)欲(レ)見(レ)貌。飛(二)遷他浦(一)不(レ)見(二)其形(一)。自(レ)今以後不(レ)得(レ)登陸。若大地下居必死。以(二)海中(一)爲(二)住處(一)。

○この時、大后、磐鹿[イハガ]六獦[ムツカリ]の命に、詔[ノ]り給はく、この浦に、異[アヤシキ]鳥の音[コヱ]、聞ゆ。それ、駕我久久[ガクガク]、鳴けり。その形を、見まく欲[ホツ]す、と詔[ノ]りたまひき。卽ち、磐鹿六獦の命、船に乘りて、鳥の許[モト]に到れば、鳥、驚きて、他浦[コトウラ]に飛びき。猶[ナホ]、追ひ行けども、遂にえ捕[ト]らず。こゝに、磐鹿六獦の命、詛[トゴ]ひて、曰[マヲ]しらけく、汝鳥[ナレトリ]よ、その音[コヱ]を戀[シク]ひて、貌[カタチ]、見まく欲[ホツ]するに、他浦[コトウラ]に飛び遷りて、その形を見しめず。今より以後[ノチ]、陸[クスガ]に、え登[アガ]らざれ。もし大地[オホツチ]の下に居[ヲ]らば必ず死なむ。海中[ワタナカ]を以[モ]て住處[スミカ]と爲[セ]よ、と曰[マヲ]し給ひき。


七。還時頋(レ)舳魚多追來。卽磐鹿六獦命。以(二)角弭之弓(一)當(二)遊魚之中(一)卽着(レ)弭而出忽獲(二)數隻(一)。仍名曰(二)頑魚(一)。此今諺曰(二)堅魚(一)。[●今以(レ)角作(二)鈎柄(一)釣(二)堅魚(一)此之由也。]

○還ります時、舳[トモ]を頋[カヘリミ]すれば、魚多く、追ひ來[ク]。卽ち、磐鹿[イハガ]六獦[ムカリ]の命、角弭[ツヌハズ]の弓[ユミ]を以[モ]て、遊べる魚[ウヲ]の中に、當てしかば、卽ち弭[ハズ]に着[ツ]きて、出でゝ、忽ちに、數隻[アマタ]を獲[エ]つ。よりて、名づけて、頑魚[カタウヲ]と曰[イ]ふ。此[コ]を今[イマ]の俗[ヨ]の諺[コトバ]に、堅魚[カツヲ]と曰[イ]ふ。(今、角[ツヌ]を以[モチ]て鉤[ツリバリ]の柄[エ]を作[ツク]り、堅魚[カツヲ]を釣[ツ]るは、この由[ユヱ]なり。)


八。船遇(二)潮涸(一)[天]渚上[爾]居[奴]。掘出[止]爲[爾]得(二)八尺白蛤一具(一)。

○船[ミフ子]、潮[シホ]の涸[カ]るゝに遇ひて、渚[ス]の上に、居[ヰ]ぬ。掘り出[イ]ださむと爲[ス]るに、八尺[ヤサカ]の白蛤[シロウムギ]、一具[ヒトツ]を得つ。


九。磐鹿六獦命。捧(二)件二種之物(一)獻(二)於太后(一)。卽太后譽給[比]悦給[弖]詔[久]。甚味淸造欲(レ)供御食(一)。爾時磐鹿六獦命申[久]。六獦令(二)料理(一)[天]將供奉[止]白[天]。遣(レ)喚(二)無邪志國造上祖大多毛比。知々夫國造上祖天上腹天下腹人等(一)。爲(レ)膾及煑燒雜造盛[天]。見(二)河曲山梔葉(一)[天]高次八枚[爾]刺作[利]。見(二)眞木葉(一)[天]枚次八枚[爾]刺作[天]。取(二)日影(一)[天(弖)]爲(レ)縵。以(二)蒲[※左字艹ニ補]葉(一)[天]美頭良[乎]卷。採(二)麻佐氣葛(一)[弖(天)]多須岐[仁]加氣爲(レ)帶。足纒[乎]結[天]。供(二)御雜物[乎](一)結餝[天]。乗輿從(二)御還入坐時[爾]爲(二)供奉(一)。

○磐鹿[イハガ]六獦[ムツカリ]の命、その二種[フタクサ]の物を、捧[ササ]げて、太后に、獻りき。卽[カレ]、太后、譽[ホ]め給ひ、悦び給ひて、詔[ノ]り賜はく、いと、味[ウマ]く、淸く、造りて、御食[ミケ]に、供[ソナ]へまつらん、と詔[ノ]り給ひき。その時、磐鹿六獦の命、申さく、六獦[ムツカリ]、料理[ツク]らせて、供奉[タテマツ]らむ、と白[マヲ]して、 無邪志[ムサシ]の國造[クニノミヤツコ]が上祖[カムツオヤ]、大多毛比[オホタモヒ]、知々夫[チチブ]の國造[クニノミヤツコ]が上祖[カムツオヤ]、天上腹[アメノウハハラ]・天下腹人[アメノシタハラビト]等[ドモ]を、喚[ヨ]ば遣[シ]めて、膾[ナマス]に爲[ツク]り、及[マタ]、煑燒[ニヤキ]して、くさぐさ、造り盛[モ]りて、河曲山[カハヲヤマ]、梔[ハジ]の葉を見て、高次[タカスキ]、八枚[ヤツ]に、刺[サ]し作[ツク]り、眞木[マキ]の葉を見て、枚次[ヒラスキ]、八枚[ヤツ]に、刺しつくりて、日影[ヒカゲ]を取りて、縵[カツラ]とし、蒲[カマ]の葉を以[モ]て、美頭良[ミヅラ]を卷き、麻佐氣葛[マサゲヅラ]を採[ト]りて、多須岐[タスキ]にかけ、帶にし、足纒[アユヒ]を結[ユ]ひて、くさ〲の物[モノ]を供へ、結[ユ]ひ餝[カザ]りて、乘輿[スメラミコト]、御獦[ミカリ]より、還御入[カヘリイ]り坐[マ]す時に、供へ奉[マツ]らむとす。


十。此時勅[久]。誰造進物問給。爾時大后奏。此者磐鹿六獦命所(レ)獻之物也。卽歡給[比]。譽賜[天]勅[久]。此者磐鹿六獦命獨[我](心)[●(耳)波]非矣。斯天坐神[乃]行賜[●倍留]物也。大倭國者以(二)行事(一)負(レ)名國[奈利]。磐鹿六獦命[波]。朕[我]王子等[爾]。阿禮子孫[乃]八十連屬[爾]。遠[久]長[久]天皇[我]天津御食[乎]齋忌取持[天]仕奉[止]負賜[天]。則若湯坐連始祖。物部意富賣布連[乃]佩大刀[乎]。令(二)脱置(一)[天]副賜[支]。

○この時、勅[ノ]り給ひけらく、誰[タレ]しが造りて、進物[タテマツルモノ]ぞと、問[ト]はせ給ふ。この時、大后[オホキサキ]、奏[マヲ]し給はく、此者[コハ]、磐鹿[イワカ※儘]六獦[ムツカリ]の命が、獻[タテマツ]れる所の物なり、と申し給ひければ、卽ち、歡び給ひ、譽[ホ]め賜ひて、勅[ノ]り給ひけらく、此者[コハ]、磐鹿六獦の命、獨[ヒトリ]が心にはあらず。斯[コ]は、天[アメ]に坐[マ]す神の、行ひ賜へる物なり。大倭[オホヤマト]の國は、行事[オコナフワザ]を以[モ]て、名を負[オモ]する國なり。磐鹿六獦の命は、朕[ア]が王子[ミコ]等[タチ]に、生[ア]れ子孫[ミコ]の、八十連屬[ヤソツヅキ]に、遠く、長く、天皇[スメラ]が、天津御食[アマツミケ]を、齋[イハ]ひ、忌[ユマハ]り、取り持[モ]ちて、仕へ奉れと、負[オホ]せ賜ひて、則ち、若湯坐[ワカユエ]の連等[ムラジラ]が、始祖[モトツヤオ]、物部の意富賣布[オホメフ]の連の、佩[ハ]きたる大刀[タチ]を、脱[ト]き置[オ]かせて、副[ソ]へ賜ひき。


十一。又此行事者。大伴立雙[天]應(二)仕奉(一)物[止]在[止]勅[天]。日竪日横。陰面背面[乃]諸國人[乎]割移[天]。大伴部[止]號[天]賜(二)磐鹿六獦命(一)。

○又、この行事[オコナフワザ]は、大伴[オホトモ]、立雙[タチナラ]びて、仕へ奉[マツ]るべき物と在[ア]れ、と勅りたまひて、日の竪[タツ]、日の横し、陰面[カゲトモ]・背面[ソトモ]の、諸國人[クニクニヒト]を、割[ワカ]ち移して、大伴部[ベ]と、號[ナ]づけて、磐鹿[イハガ]六獦[ムカリ]の命に、賜ひき。


十二。又諸氏人。東方諸國造十二氏[乃]枕子。各一人令進[天]。平次比例給[天]依賜[支]。

○又、諸[モロモロ]の氏人[ウヂヒト]、東の方[カタ]の、諸國[クニグニ]の造[ミヤツコ]、十二氏[トヲアマリフタツウヂ]の枕子[マクラコ]、各[オノオノ]、一人づゝ進[タテマツ]らせて、平次[ヒラスキ]比例[ヒレ]、給ひて、依[ヨ]さし賜ひき。


十三。山野海河者。多爾久久[乃]佐和多流[岐美]。加幣良[乃]加用布[岐波美]。波多[乃]廣物。波多[乃]狭物。毛[乃]荒物。毛[乃]和物。供御雜物等兼攝取持[天]。仕奉[止]依賜。

○山野[ヤマヌ]・海河[ウミカハ]なるものは多爾久久[タニグク]の、佐和多流[サワタル]きはみ、加幣良[カヘラ]の加用布[カヨフ]きはみ、波多[ハタ]の廣物[ヒロモノ]・波多[ハタ]の狹物[サモノ]、毛の荒物[アラモノ]・毛の和物[ニゴモノ]、雜[クサグサ]の物等[ドモ]を、供御[ソナ]へ、兼攝[フサ]ね、取り持ちて、仕へ奉[マ]つると、依[ヨ]さし賜[タマ]ふ。


十四。如是依賜事[波]。朕[我]獨心[耳]非矣。是天坐神[乃]命[叙]。朕[我]王子磐鹿六獦命。諸友諸人等[乎]催率[天]。慎勤仕奉[止]。仰賜誓賜[天]依賜[岐]。

○かく依[ヨ]さし賜[タマ]ふ事は、朕[ア]が獨[ヒト]りの心に非ず。是[コ]は、天に坐[マ]す、神の命[ミコト]ぞ。朕が王子[ミコ]、磐鹿六獦の命、諸伴諸人[モロトモモロビト]等を、催し率ゐて、愼[ツツ]しまり、勤[イソ]しみ〔愼[ツツ]しみ、勤[イソ]しみて(イ)〕、仕へ奉[マツ]れと、仰せ賜ひ、誓[ウケ]ひ賜ひて、依[ヨ]さし賜ひき。


十五。是時上總國安房大神[乎]。御食都神[止]坐奉[天]。爲(二)若湯坐連等始祖意富賣布連子豐日連[乎](一)。令(二)火鑽(一)[天]。此[乎]忌火[止]爲[天]。伊波比由麻麻閇[天]供(二)御食(一)。並大八洲[爾]像[天]。八[乎]止古八[乎]止咩定[天]。神嘗大嘗等[仁]仕奉始[支]。[●但云(二)安房大神(一)爲(二)御食津神(一)者。今大膳職祭神也。今令(レ)鑽(二)忌火(一)大伴造者。物部豐日連之後也。]

○この時、上總[カミツフサ]の國の、安房の大神を、御食都神[ミケツカミ]と、坐[マ]せ奉りて、若湯坐[ワカユエ]の連等が始祖[モトツオヤ]、意富賣布[オホメフ]の連の子[ミコ]、豐日[トヨヒ]の連をして、火を鑽[キ]らしめて、此[コ]を忌火[イミヒ]と爲[シ]て、伊波比[イハヒ]、由麻々閇[ユママヘ]て、御食[ミケ]に供へ、並[マタ]、大八洲に像[カタド]りて、八乎止古[ヤヲトコ]・八乎止咩[ヤヲトメ]を定めて、神嘗[カムニヘ]、大嘗[オホニヘ]等[ドモ]に、仕へ奉り始めき。(但し、安房の大神を、御食津神と爲すと云ふは、今、大膳職の祭神なり。今、忌火を鑽[キ]らしむる大伴の造[ミヤツコ]は、物部の豐日[トヨヒ]の連の後なり。)


十六。以(二)同年十二月(一)。乘輿從(レ)東還(二)伊勢國綺宮(一)。五十四年甲子九月。自(二)伊勢(一)還(二)幸於倭纒向宮(一)。

○同じき年、十二月を以[モ]て、乘輿[スメラミコト]、東より、伊勢國、綺宮[カムハタノミヤ]に還り坐[マ]し、五十四年、甲子九月、伊勢より、倭の纒向[マキムク]の宮に、還幸[カヘリ]ましき。


十七。五十七年丁卯十一月。武藏國知々夫大伴部祖。三宅連意由。以(二)木綿(一)代(二)蒲葉(一)[天]美頭良[乎]卷[寸]。從(レ)此以來。用(二)木綿(一)日影等葛(一)[天]

○五十七年、丁卯十一月、武藏の國の、知々夫[チチブ]の、大伴部の上祖[カムツオヤ]、三宅[ミヤケ]の連[ムラジ]意由[おゆ]、木綿[ユフ]を以[モ]て、蒲[カマ]の葉に代へて、美頭良[ミヅラ]を卷きき。これより以來[コノカタ]、木綿[ユフ]を用ゐて、日影[ヒカゲ]等[ドモ]の葛[カヅラ]を副[ソ]へて、用ゐることゝ爲[シ]たりき。


十八。自(二)纒向朝廷歳次癸亥(一)。始奉(二)貴詔勅(一)。所(二)賜膳臣姓(一)。天都御食[乎]伊波比由麻波理[天]。供奉來。

○纒向[マキムク]の、朝廷[ミカド]の歳次、癸亥より、始めて、貴き詔勅[ミコトノリ]を奉[ウケタマハ]り、膳部臣[カシハデノオミ]の姓[ウヂ]を賜りて、天[アマ]つ御食[ミケ]を、齋[イハ]ひ、忌[ユマハ]りて、供[ツカ]へ奉[マツ]り來[キ]ぬ。


十九。迄(二)干今朝廷歳次壬戌(一)並三十九代。積年六百六十九歳。[●延曆十一年]

○今の朝廷[ミカド]の歳次、壬戌まで、並[アハ]せて、三十九代、年を積むこと、六百六十九歳なり。(延曆十一年)


第二章

○伴信友云。此章は、政事要略[●一條天皇の御世の頃の人、明法博士惟宗朝臣允亮撰。]、第廿六卷、年中行事部、十一月中卯日、新嘗祭條に、髙橋氏文云とて載たるを採りて、書表すはせるなり。又、年中行事祕抄、十一月中辰日、豐明節會の條に、此章の文を、いたく折略[コトソ]ぎて記し、又、中原師光朝臣の年中行事にも、祕抄より引出たりと見えたる同文のあるをも、批挍て訂せり。


二十。六鴈命七十二年秋八月。受(レ)病同月薨也。

○六鴈の命、七十二年の秋八月、病を受けて、同じき月、薨[ミマカ]りき。


二一。時天皇聞食而大悲給。准(二)親王式(一)而賜(レ)葬也。

○時に、天皇、聞こし食[メ]して、大[イタ]く悲しみ給ひ、親王[ミコ]の式[ノリ]に、准[ナゾラ]へて、葬[ハフリ]、賜ひき。


二二。於是宣命使遣(二)藤河別命。武男心命等(一)宣(レ)命云。

○こゝに、宣命使[センミヤウシ]、藤河別[フジカハワケ]の命・武男心[タケシヲゴコロ]の命等を遣はして、命[ミコト]ヲ宣[ノ]りて云はく。


二三。天皇[加]大御言[良麻止]宣[波久]。王子六獦命。不思[保佐佐流]外[爾]卒上[太利止]聞食[迷之]。夜昼[爾]悲愁給[比川]大坐[須]。

○天皇[スメラ]が、大御言[オホミコト]らまと宣[ノ]り給はく、王子[ミコ]六獦の命、思ほさざる外[ホカ]に、卒[ミマカ]り上[アガ]りたりと聞[キコ]し食[メ]し、夜晝[ヨルヒル]に、悲愁[カナシ]み給ひつゝ。大坐[オホマシ]ます。


二四。天皇[乃]御世[乃]間[波]。平[爾之天]相見[曾奈波佐牟止]思[保須]間[爾]別[由介利]。

○天皇[スメラ]の、御世[ミヨ]の間[アヒダ]は平[タヒラカ]にして、相見そなはさむと、思[オモ]ほす間[アヒダ]に、別[ワカ]れゆけり。


二五。然今思食[須]所[波]。十一月[乃]新嘗[乃]祭[毛]膳職[乃]御膳[乃]事[毛]。六鴈命[乃]勞始成[流]所[奈利]。是以六鴈命[乃]御魂[乎]膳職[爾]伊波比奉[天]。春秋[乃]永世[乃]神財[止]仕奉[志迷牟]。

○然[シカ]あれば、今、思ほしめす所は、十一月[シモツキ]の、新嘗[ニヒナヘ]の祭も、膳職[カシハデツカサ]の御膳[ミケ]の事も、六鴈の命の、勞[イタツ]き始め成せる所なり。是[ココ]を以[モ]て、六鴈の命の御魂[ミタマ]を、膳職[カシハデツカサ]に、いはひ奉[マツ]りて、春秋[ハルアキ]の、永き世の神財[カムダカラ]と、仕へ奉[マツ]らしめむ。


二六。子孫等[乎波]長世[乃]膳職[乃]長[止毛]上總國[乃]長[止毛]淡國[乃]長[止毛]定[天]。餘氏[波]萬介太麻波[天]乎佐女太麻[波牟]。若[之]膳臣等[乃]不(二)繼在(一)。朕[加]王子等[乎之天]。他氏[乃]人等[乎]相交[天波]亂[良之女之]。 

○子孫等[ウミノコラ]をば、長き世の、膳職[カシハデツカサ]の長[ヲサ]とも、上[カミ]ッ總[フサ]の國の長とも、淡[安房]の國の長とも定めて、餘[ホカ]の氏[ウヂ]は、任[マ]け賜はで、治め賜はむ。若し、膳[カシハデ]の臣[オミ]等[タチ]の、繼嗣[ツギ]、あらざらんには、朕[ア]が王子等[ミコタチ]をして、他[ホカ]の氏の人等[ヒトドモ]を、相交[アヒマジ]へては、亂らしめじ。


二七。和加佐[乃]國[波]。六鴈命[爾]。永[久]子孫等[可]。遠世[乃]國家[止]爲[止]定[天]授[介]賜[天支]。此事[波]世世[爾之]過[利]違[傍志]。

此の志を知りたびて、よく膳職の内も外も護り守りたびて、家(みや)の患ひの事等もなく在らしめ給ひたべとなむ

○若狹の國は、六鴈の命に、永く、子孫等[ウミノコラ]が、遠き世の、國家[クニイヘ]と爲[セ]よと定めて、授け賜ひてき。此の事は、世々にし、過り違へじ。


二八。此志[乎]知[太比天]。吉[久]膳職[乃]内[毛]外[毛]護守[利太比天]。家患[乃]事等[毛]无[久]在[志女]給[太戶度奈毛]思食[止]宣[太麻不]。天皇[乃]大御命[良麻乎]虛[川]御魂[毛]聞[太戶止]申[止]宣[太麻不]。

○此の志[ココロザシ]を知り賜[タ]びて、よく膳職[カシハデツカサ]の、内[ウチ]も外[ソト]も、護守[マモ]り賜[タ]びて、家[ミヤ]の患[ウレヒ]の事どももなく、あらしめ給ヘ賜[タ]べとなも、思[オボ]し食[メ]すと宣[ノ]り給ふ、天皇の、大御命[ミコト]らまを、虛[ソラ]つ御魂も聞き賜[タ]べと、申すと、宣り給ふ。


第三章

○伴信友云。

此の章も、本朝月令、六月十一日、神今食祭事の下に、髙橋氏文云とて載たり。此は第二章に論へるごとく、延曆十一年に、素より在來れる氏文に畫副たるものなり。


二九。太政官符(二)神祇官(一)。定(下)高橋安曇二氏。供(二)奉神事御膳(一)行立先後(上)事。


三〇。右被(二)右大臣宣(一)偁。奉(レ)勅。如(レ)聞先代所(レ)行神事之日。高橋朝臣等立(レ)前供奉。安曇宿禰等更無(レ)所(レ)爭。但至飯髙天皇御世(一)。靈龜二年十二月神今食之日。奉膳從五位下安曇宿禰刀。語(二)典膳從七位上高橋朝臣乎具須比(一)曰。刀者官長年老。請(二)立(レ)前供奉(一)。


三一。此時乎具須比答云。神事之日。供(二)奉御膳(一)者。膳臣等之職。非(二)他氏之事(一)。而刀猶强論。乎具須比不(レ)肯。如(レ)此相論聞(二)於内裏(一)。有(二)勅判(一)。累世神事不(レ)可(二)更改(一)。宜(二)依(レ)例行(一レ)之。自(レ)爾以來无(レ)有(二)爭論(一)。


三二。至(二)于寶龜六年六月神今食之日(一)。安曇宿禰廣吉强進前立。與(二)高橋波麻呂(一)相爭。挽(二)却廣吉(一)。 事畢之後所司科(レ)祓。于時波麻呂固辭。無(レ)罪何共爲(レ)祓。是言上聞更有(二)勅判(一)。上中之祓科(二)廣吉(一)訖。


三三。其後廣吉等妄想以(二)偽辭(一)加(二)附氏記(一)。以(レ)此申聞。自得(レ)爲(レ)先。因(レ)茲髙橋朝臣等雖(レ)不(二)敢被(一レ)訴。而憂憤之狀稍有(二)顯出(一)。


三四。去延曆八年爲(レ)有(二)私事(一)各進(二)記文(一)。卽喚(二)二氏(一)勘(二)問事由(一)。兼捜(二)撿日本紀及二氏私記(一)。及〔乃〕知(二)髙橋氏之可(一レ)先。而事經(二)先朝(一)。不(レ)忍(二)卒改(一)。思欲(レ)令(下)一先一後彼此無(上レ)憂。雖(レ)未(レ)勅(二)所司(一)。而每(レ)臨(二)祭事(一)。宜知(二)二氏(一)遞令(二)先後(一)。


三五。而今内膳司奉膳正六位上安曇宿禰繼成。去年六月。十一月。十二月三度神事。頻爭在(レ)前。猶不(レ)肯進。仍勅(下)應(レ)遞(二)先後(一)之狀(上)。此來頻已告訖。宜(下)此度佐(レ)次令(中)髙橋先(上)。而繼成不(レ)奉(二)宜勅(一)。直出而退。竟不(二)仕〔供〕奉(一)。爲(レ)臣之理豈如(レ)此乎。宜(下)稽(二)故事(一)以定(二)其次(一)。兼論(二)所犯(一)。准法科斷(上)者。


三六。謹案(二)日本紀(一)。巻向日代宮御宇大足彥忍代別天皇五十三年。巡(二)狩東國(一)。渡(二)淡門(一)是時聞(二)覺駕鳥之聲(一)。欲(レ)見(二)其形(一)。尋(レ)之出(二)海中(一)。仍得(二)白蛤(一)。於(レ)是膳臣遠祖。名磐鹿六鴈[●髙橋祖也]以(レ)蒲爲(二)手襁(一)。白蛤爲(レ)膾而進(レ)之。故美(二)六鴈臣(一)。而賜(二)膳大伴部(一)。撿(二)其家記(一)略同。於(レ)此是髙橋氏預(二)奉御膳(一)之由也。


三七。及(二)輕島明宮御宇譽田天皇三年(一)。處々海人岨(二)呃之(一)不(レ)從(レ)命。乃遣(二)安曇連祖大濱宿禰(一)平之日爲(二)海人之宰(一)。是安曇氏預(二)奉御膳(一)之由也。


三八。又安曇宿禰等欵云。御間城入彥五十瓊殖天皇御世。己等僕祖。大栲成吹。始奉(二)御膳(一)者。仍撿(二)其私記文(一)。追注行下筆迹殊拙。不(レ)庶(レ)字姧詐之端於(レ)是見矣。


三九。然則考(二)之國史(一)求(二)之家記(一)。磐鹿六鴈委(二)質於前(一)。大濱宿禰策(二)名於後(一)。時經(二)五代(一)。「歳」逾(二)二百(一)。相去懸遠。更无(レ)可(レ)疑(二)先後之次(一)。事已灼然。理須(下)以(二)髙橋(一)爲(レ)先。安曇在(上レ)後。


四十。又繼成固執偽(レ)記。臨(レ)事爭(レ)先恣(レ)意遁去。遂不(二)供奉(一)。不(レ)承(二)詔命(一)。無(二)人臣禮(一)。此而不(レ)正何以懲(レ)後。仍案(二)職制律(一)云。對(二)悍詔使(一)而無(二)人臣之禮(一)者絞。名例律云。對(二)悍詔使(一)而无(二)人臣之禮(一)者爲(二)大不敬(一)。又云。犯(二)八虐(一)獄成者除名者。今繼成所(レ)犯准(レ)犯。依(レ)津處(二)絞刑(一)令(二)除名(一)。謹具(レ)狀奏聞者。奉(レ)勅。 宜(下)宥(二)其死(一)以處(中)遠流(上)。自餘依(レ)奏者。官宜(下)承知以爲(中)永例(上)。符到奉行。延曆十一年三月十八日






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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