源實朝『金槐和歌集』春ノ部④松の葉の白きを見れば春日山/春日野のとぶ火の野守けふとてや
金槐和歌集
源實朝鎌倉右大臣家集所謂『金槐和歌集』復刻ス。底本ハ三種。
〇『校註金槐和歌集』改訂版。是株式會社明治書院刊行。昭和二年一月一日發行。昭和六年五月一日改訂第五版發行。著者佐佐木信綱]
〇『金塊集評釋』厚生閣書店刊行。昭和二年五月二十二日發行。著者小林好日]
〇アララギ叢書第廿六編『金槐集鈔』春陽堂刊行。大正十五年五月一日發行。著者齋藤茂吉著]
各首配列ハ『校註金槐和歌集』改訂版ニ準拠。是諸流儀在リ。夫々ノ注釈乃至解説附ス。以下[※ ]内ハ復刻者私註。是註者ノ意見ヲ述ニ非ズ。総テ何等乎ノ引用ニシテ引用等ハ凡テインターネット情報ニ拠ル。故ニ正当性及ビ明証性一切無シ。是意図的ナ施策也。亦如何ル書物如何ル註釈ニモ時代毎ノ批判無ク仕テ読ムニ耐獲ル程ノ永遠性等在リ獲無事今更云フ迄モ無シ。歌ノ配列ハ上記『校註金槐和歌集』佐佐木信綱版ニ準拠ス。
八。
屏風の繪に春日の山に雪ふれる所をよめる
松の葉の白きを見れば春日山このめもはるの雪ぞふりける
[※原書頭註。
このめもはる—木の芽
も張ると春とをかけたり。]
[※是『校註金槐和歌集』改訂版]
松のはのしろきを見れば春日山木の芽も春の雪ぞふりける(屏風の繪に春日山に雪のふりたるところをよめる)
松の葉が白くなつてゐるのを見れば、春日山には春の雪が降つたんだな——一首の意味はかうである。
ある人は「下の句この公の心に似ず初の頃の歌なるべし」といつてゐる[※附註。是賀茂眞淵]。一首の表現が粗雑で月並みに陥り過ぎてゐる。木の芽も張るが春の雪にかゝつてゐることは云ふまでもない。
[※是『金塊集評釋』文學士小林好日著]
(三)松の葉の白きを見れば春日山[かすがやま※是原書ルビ]このめもは
るの雪ぞふりける
『屏風の繪に春日の山に雪ふれる處をよめる』といふ詞書がある。『このめもはるの』は『このめ春雨かきくらしつゝ』などと同樣の句法で木の芽も張ると春とひ言ひ掛けたのである。繪に題した歌であるが、可哀らしい氣持のよい歌である。『松の葉の白きを見れば』などの無邪氣な句はどうして詠めるもので無い。かういふ無雜作で味ひある歌を詠むものは、當時の歌壇では實朝一人であらうと思ふ。實朝は雄大な歌、强い歌、眞率な歌を詠むがために褒められたけれども、他の一面に稚い純な處のあるのを世の人は餘り注意して居ない。實朝が當時にあつて只一人萬葉の歌人と相契合[※けいごう。一致]したのはおのづから彼の内性命[※是原書儘]が然らしめたのである。繪に向かつてこの様に簡単で而して題歌として面白い歌を平氣で詠んでゐるのはどう考へても見てもえらい處がある。
【附記】拾遺集に、やはり屏風に題した歌で『見わたせば松の葉白き吉野山幾世[いくよ※是原書ルビ]つもれる雪にかあるらむ』(拾遺/兼盛※是原書附註二段小文字書)といふのがある。また、『霞たちこのめも春の雪ふれば花なき里も花ぞちりける』(古今/貫之※是原書附註二段小文字書)といふ歌もある。實朝は此等の歌の影響をうけたのかも知れない。さうして此等の歌よりもいゝ歌を詠んでゐる。賀茂眞淵この歌を評して、『このめもはる』の處の言掛[いひかけ※是原書ルビ]が實朝の心に似ない、恐らく初期の歌であらうと言つて居る。なほ、『若菜つむ衣手ぬれて片岡のあしたの原に(原/は※是原書附註二段小文字書)あわ雪ぞふる』といふ實朝の歌もある。調子がしつかりしてゐる。
[※是齋藤茂吉著アララギ叢書第廿六編『金槐集鈔』]
[※註。
〇このめ春雨かきくらしつゝハ古今和歌集卷一春上ノ九≪ゆきのふりけるをよめる/きのつらゆき[※紀貫之]/霞たちこのめもはるの雪ふれは花なきさとも花そちりける≫
後撰和歌集卷九恋歌一ノ五四四≪女に年をへて心さしあるよしをのたうひわたりけり女猶ことしをたにまちくらせとたのめけるを、その年もくれてあくる春まていとつれなく侍りけれは/よみ人も/このめはるはるの山田を打返し思ひやみにし人そこひしき≫]
九。
春菜つむ所
春日野のとぶ火の野守けふとてや昔かたみに若菜つむらむ
[※是『校註金槐和歌集』改訂版]
[※原書頭註。
とぶ火の野守—飛火野の野守なり。飛火野は春日野の南につづけり。とぶ火は烽火なり。春日野は烽火臺置かれしこと、続日本紀和銅五年の條に見ゆ。この歌、古今、「春日野のとぶ火の野守いでて見よ今いく日ありて若菜つみてん」による。]
「※註。
〇飛火野ハ≪奈良市、春日山のふもと、春日野の一部。また、春日野の別名。元明天皇のころに烽火(のろし)台が置かれた。≫以上≪デジタル大辞泉≫引用ス。亦≪奈良県奈良市街の東,春日大社に接する林野。〈とびひの〉とも。池や沢などもあり,奈良公園(名勝)に属する。≫以上≪百科事典マイペディア≫引用ス。春日大社ニ公式ホーム・ページ在リ是≪世界遺産春日大社公式ホームページ≫其ノ≪ご案内/ご由緒≫ニ曰ク≪春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く茨城県鹿島から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)にお迎えした。やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年[※第46代孝謙天皇後重祚第48代稱德天皇](768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して千葉県香取から経津主命様、また大阪府枚岡から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが当社の始まりです。≫引用以上。
烽火臺ハ≪烽火台とは「のろしだい」ともいいます。「のろし」とは外敵に備えて警戒する信号の役割を果たした「通信施設」です。「のろし」自体は、その起源は古くて、「日本書紀(720年に完成。神代から持統天皇にいたる皇室中心の国家成立史)」にも登場します。≫以上引用≪長崎県西彼杵郡長与町≫ホームページ≪文化財≫引用ス。
〇野守ハ≪立ち入り禁止の猟地や禁猟の野の見張り人。野の番人。 「あかねさす紫野行き標野しめの行き-は見ずや君が袖振る/万葉集 20」≫以上≪大辞林第三版≫引用ス。
〇古今和歌集卷第一春歌上ノ十八≪題しらす/よみ人しらす/かすかののとふひののもりいてて見よ今いくかありてわかなつみてむ≫」
春日野の飛火の野守けふとてや昔がたみに若菜つむらむ(若菜つむところ)
むかし奈良に都があつた時分、春日野の飛火の野には烽火臺があつた。それは萬一の異變に對する警備の爲であつて、そこにはいつも番人が詰めることになつてゐた。燧人[※附註。すいじん乃至すいにん。燧ハ烽火のろし也。]を野守と云つたのである。類聚国史に「和銅三年始置大和國春日烽火以通平城」と見えてゐる。
けふは正月の七日である。この日は内藏寮に出仕する官人が雪間の若菜を摘んで志尊の御前に俱する儀式をあげる。そして下々でもこれにならふ風習になつてゐるから、飛火の番人たちもさだめし昔のことを偲びながら若菜を摘むことであらう。
この一首も措辭に無理があつて、けふとてやが莫としてをるのに昔がたみと續けた具合、拙劣のそしりを免れないであらう。
[※是『金塊集評釋』文學士小林好日著]
[※註。
類聚国史ハ≪編年体の六国史の記事を内容によって分類し、検索の便をはかった書物。 200巻。菅原道真撰。宇多天皇の命を受けて分類、寛平4 (892) 年奉ったといわれる。各記事を20前後の大項目に分け、それをさらに多くの細目に分っている。中国の類書の形態を継承。ただ神祇部 20巻の巻一、二は『日本書紀』の神代巻をそのまま転載したもので、本来編年体ではないため分類していない。分類した目的は、実際の政治の運用に資するためにあった。現存するのはわずか61巻。なお、目録2巻のほか,帝王系図3巻も添えられていたらしい。≫以上≪ブリタニカ国際大百科事典小項目事典≫引用ス。六国史ハ『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文德天皇實錄』『日本三代實錄』。≪平安前期の歴史書。200巻、目録2巻、帝王系図3巻。現存は61巻。菅原道真編。寛平4年(892)成立。六国史(りっこくし)の記事を神祇(じんぎ)・帝王・歳時・音楽などに分類し、年代順に編集したもの。「三代実録」の部分は後人の加筆。≫以上≪デジタル大辞泉≫引用ス。≪平安時代に編纂(へんさん)された史書。892年(寛平4)菅原道真(すがわらのみちざね)が勅を奉じて編集。『日本書紀』以下の五国史の記事を、神祇(じんぎ)、帝王、歳時、音楽、政理、刑法など十数部に分けて編集したものである。撰者(せんじゃ)道真の左遷後に撰修奏上された『日本三代実録』の文が『類聚国史』に載せられていることから、のち何人かによる増補があったとも伝えられる。六国史(りっこくし)の記事の検出に便利であるのみならず、『日本後紀』の欠失を補うなど、古代史研究には欠かせない基本史料である。本来は本史200巻、目録2巻、帝王系図3巻からなる大部なものであった(仁和寺(にんなじ)書籍目録)が、応仁(おうにん)の乱以降散逸し、現在は61巻を残すのみである。従来、仙石政和(せんごくまさかず)校訂本が善本といわれてきたが、「国史大系」本は諸本を校合し、その異同を知るうえでも便利である。[矢野建一]
『黒板勝美校訂、国史大系編修会編『類聚国史』全5冊(1979、吉川弘文館)』≫]
[※是齋藤茂吉著アララギ叢書第廿六編『金槐集鈔』]
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