小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑳ ブログ版





ハデス期の雨


《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel


《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ


Χάρων

ザグレウス





以下、一部に暴力的な描写があります。

御了承の上お読み進め下さい。





狂気、…と。それ。

狂ってあること、それは時に圧倒的な突破であることを、ハオの眼差しは了解した。いつか、彼女の身体をこの宇宙空間の真ん中に棲息した巨大なブラックホールが飲み込もうとしても、彼女はその眼差しに好き放題に咲き乱れた美しい花畑に舞う蝶の羽音を聴くに違いない。

ささやかな、狂った地上の強靭な風景。

雪解けの、溶け残った雪の塊は水に帰しながらその見苦しく輝かしい純白を無造作に散乱させ、彼女は足を取られながら、歩行することそれ自体の容赦ない困難を素直に曝していた。

一瞬だけハオは見惚れて、傍らのタオは声を立てた。

それは、たしかにベトナム語だった。彼女の発した。単なる奇矯な音声は、あきらかに彼女を非難していて、そして、足元の雪を引っつかんだタオは、その塊を女に投げつけた。

女は驚愕していた。

それが、あってはならない、予測も付かない変事に違いなかった事は、素直に曝された眼差しの驚愕が痛いほどにハオに気付かせていた。

タオは声を建てて笑っていた。美しい少女。

そう、だれもが認めなければならない。

素直に伸びた身長は、彼女の身体の潤った流線型を具体化して、そこに、瑞々しい女性的な気配をだけ投げ打った。あきらかに彼女は女で、女はたしかにそうであるべきだった。あまりにも赤裸々に、女らしさを執拗に穿った造型は、容赦もなく彼女の身のこなしのすべてに滑稽さをだけ与えた。

16歳のタオは、眼の前の狂った女を、自分の国語でののしりながら、そしていつか、戯れながら彼女に雪の塊を投げつけて、そしてその女は瞬く。

なんども、驚愕し、そしてまばたき、何かを鮮明に確認し、疑いようもなく確認し、その都度彼女はあからさまに認識していた。ハオは声を立てて笑い、…知ってるの?

タオは想う。

それは、近所の廃棄された家屋の中に、なにか、

何も見ないで。…あなたが

いま

見ているこの私さえ。

使えるものがないか、せっかくの雪解けの晴れた日に

何も見ないで。…死んで

きみは

あなたは、永遠に穢れている。だから

ハオがむずがるタオを連れて外に出て、そして

死んで、お願い。いま

私の目の前で

わたしの見ているまで、この

物色に行ったその

瞬間に、…と。

帰りだった。取り立てて捕獲できたなにものもなかった。長い間放置されていた一区画で、使えそうなものはなにもなく、だいいち、放置され見棄てられたそれら、ほこりに塗れた物体の数々は、どう考えて彼らの触手を動かしはしなかった。…いま、と。

彼女は俺の眼の前で両手を拡げている。

ハオはそう想った。事実、そうだった。ハオの見開かれた眼差しの向うで、そこに、その、気の狂った女は両手を拡げて天を仰ぎ、見ているもの。

それは空。

彼女は立ち止まってその身体に受けた。

その、青。

投げつけられた雪の塊。

タオは容赦ない。もはや、それこそがいま自分の遣るべきたった一つの仕事だと、それを確信して仕舞ったかのように、彼女は投げつけた。両手を拡げ、何かを抱こうとした女に、雪。

それらは生きた肉体の皮膚にぶつかって、砕け、空間に散った。ハオの眼差しは、改めていま自分が見詰めているものの眼の前の存在におののき、驚愕していた。

まるで、生まれて始めて見る風景だったかのように感じ、そして、たしかに、それは生まれて初めて見い出した風景に他ならなかった。

眼の前に、素肌を曝した女が、ハオの眼差しの中で、一切の彼自身の理解を受け入れることなく、あるいは、受け入れ、拒否する余地さえ残さずに、ただ、そこにだれにも無関係に存在していた。

彼女の、安っぽい裸身は何をも兆さずに、日の光に差された。彼女はすでに滅びていた。

すくなくとも、ハオにとっては。…あなたに、と。

雪が投げつけられて、それはもはや

タオは想った。あなたにあげる。もっとも

すべてを破壊しよう

微笑ましい冗談のようにさえ、ハオの眼差しに羽

深刻な屈辱。そして容赦もない絶望。なぜなら

ぼくがかつて

映った。その、褐色の肌を、青空の青の下に

あなたは苦しまなければならないから。あなたは

触れ獲たそれら

好き放題に曝しながら、そして、彼女は

知らない。あなたがどれだけわたしに憎まれ

すべてを。なぜなら

その皮膚に雪を砕いて

軽蔑され、そして事実としてあなたが

それらは与えてくれたから。もはや

撥ねさせる。撥ねた

糞に塗れた汚い豚であるか、そして

嘆かわしいほどに膨大な愛も

雪の塊は砕けて一瞬に

あなたがいかに悲惨であらなければならないか、あなたが

憎しみも

砕けて飛沫にさえなって

もしもまだ気付いていないというのなら、教えてあげる。

欲望も、悔恨、逡巡、絶望、いずれにして

乱れた。それらは

わたしが、いま

考えられる限りの

空間に、

その耳たぶを噛み千切りながら、あなたに

すべて

飛び散る。

教えてあげる。あなたのどうしようもない愚劣さのその

だからぼくは君の息の根を

すぐさま、その、自らの結晶を崩壊させながら

すべてを

止めてあげる

もはや、…と。眼にふれるあらゆるものが滑稽で、そして、容赦なく美しかった。それ以外の何ものでも在り獲ない鮮明さを持って。女は、いきなりその眼差しにハオを認めた。

彼女が、ハオを見詰めていた。生き物に在り獲ないほどの鮮明さで、彼女がそこに、同等の視界の精度を持って、その眼差しが自分を見い出していることを、ハオは気付いた。彼女は

…ねぇ

そこにあくまでハオを、見い出して、彼女がそこに

壊れちゃえ。もっと

自分を見い出していた以上は、ハオはその

辛辣に。壊れちゃえ。もっと

彼女の

残酷に。壊れちゃえ。もう

眼差しのそこに

二度と眼に触れらないくらいに。壊れちゃえ。いま

見い出されて存在していなければならないというその

もう二度と取り返しのつかない行き止まりの

事実のその

破綻の果ててで、とはいえ

あからさまな明白さに、ただ

あくまでわたしを

ハオは、

振り向き見ようとしたその

おののく

一瞬に

…なぜ?

と。…ハオは。

想った。どうして、君は、いま。

僕を見たの?…と。

タオは笑った。ハオが、いきなり発砲したから。それは、久しぶりの発砲だった。タオは、この期に及んでハオがいまだに拳銃を肌身離さず携帯していたことを笑った。知っていた。至近距離で吹き飛ばされた狂った女の首が、はじけて自分の顔にその血と肉片をちいさく散らしたのを。

そして、続けて発砲されたハオの、引き金を引いた指先が噴き出させて仕舞った銃弾が、やがて、確実に頭部を傍らの死にかけの一瞬をそこに体験していた女の頭部をいきなり吹き飛ばして、その骨格、肉、脳、血、それらが一瞬にして派手にぶち撒かれて仕舞えば、粉砕。

身もふたもない粉砕の、その飛び散った無数の断片の群れはタオの顔面を赤く汚す。…ねぇ?

なにやってんの?

なにうぉ

ねぇ、

しまっか

馬鹿なの?…その、不意に口を付いて出た言葉は、誰にも聞きとめられはしなかった。背後の、数十メートル後方の歩道に、男たちがふたり、ハオを見ていた。

彼らは唖然としていた。…どうせ、と。

この狂った女で、お前らも愉しんだんだろ?

想う。…もう、…と。

救いようがないよ。…そう、自分勝手に独り語散てみたハオの眼差しの先に、その男たちが立ちすくんでいた姿は視覚にじかにふれた。

彼等はあきらかにおびえていた。この期に及んで、…と。

こんな悲惨な殺戮などあっていいものか。

彼らがそう、自分を沈黙した眼差しの中に避難していた事は知っていた。

ハオは、そのとき失心していた気がする。ほんの少しの間。あるいは、自分はすでに、自分こそが狂っているのかもしれないと、そうハオは想って、彼は知っている。すくなくとも明確な精神疾患の人間は、基本的に自分の正気を疑ったりはしない。

なぜなら、彼らの世界はいわゆる正気の人間に比べて、あきらかに容赦なく、あまりにも論理的過ぎる思考空間だからだ。狂気の疑いを挟みこむ余地さえもない、冷たく冷酷なまでのひたすらに正当な空間。耳を。

と。

その耳を乱れ、ささやき、連なりあうノイズに貸して仕舞うのは常に、完全に正気の人間だけだ。間違いない、俺は、…と。

完全に正気だ。そう認識したハオの眼差しに、自分をだけ取り囲んだ無数の、何人もの現地人たちの集団が見えた。

彼等はハオを取り囲んで、おびえきった細い眼差しに彼を見留めていた。彼等は一様にハオを恐怖していた。その、恐れがあまりにも鮮明すぎて、ハオは彼自身さえ、彼自身が一切感じてはいない恐怖をじかに感じて仕舞うのを、感じた。

ハオは恐怖していた。彼らに寄り添って、そして、雪解けの空の色彩は青。

明るく、美しく、いずれにしても青い。

彼等はいまだにベトナム人だった。あるいは、そして、彼ら、現地のベトナム人たちが見い出した、その眼の前の男は明らかに、いまだに異国の人種なのだった。

救いようがない大地の中に棲息する、滅びかけの彼等は、そして、その眼差しが執拗に咎め立てしていたハオは、間違いなく犯罪者に他ならない。罪もない、ひとりの女を容赦なく射殺して仕舞ったのだから。

彼らの眼差しは、彼の、自分自身の罪を見つめていた。…お願いだから、と。ハオは一瞬、想った。僕自身を見て、と。

もっと、赤裸裸に曝されているはずの、僕自身を。

彼等はハオに、一切の手出しをしない。

なぜなら彼等にとって、暴力的で容赦のないハオは。手をふれられない悪しき犯罪者以外の何者でもなかったから。

ハオは瞬く。

その、彼の瞬きさえ、群がった彼等は見ていた。確かに、彼には記憶があった。

あのとき、巨大な石版のうえで、彼の、生きたまま皮膚を剝かれた肉体をいくつものくちばしがついばんだ。

歓喜。飢えを満たした、その歓喜が明らかにそれら、ざわめきだったくちばしのひとつひとつに刻印されていていて、そして、それらは口走っていた。

さまざまな、彼らの固有の言葉を。

ハオは、見回した。彼等、異国の人間たちの眼差し。彼等は揃いも揃って歎いているように見えた。

手のひらに握られていた拳銃の、鉄と、グリップのやわらかいプラスティックの、その触感がなじむことなくばらばらに存在していた。

ハオは見ていた。眼を見開いて。鳥たちの翼は好き放題にわなないて、音響。

もはや、血に塗れた鼓膜に触れない、感じ取られるだけのそれ。見る。彼等は非難していた。

ハオを取り巻いていた人々、その、現地の人々の眼は、そして、ハオは息を吐いた。

おびえも、恐怖も何もなく、そんな気はなかった。むしろ、自分のこめかみに銃口を当てて、発砲して仕舞うつもりだった。あるいは、それが唯一正当な立ち居振る舞いだとハオは認識していたが、たしかに、彼はそのオートマティック拳銃が、自分勝手に彼等に発砲するに任せた。もう…と。

タオはつぶやく。眼差しに

為すすべもなく、その、自分が引いた引き金が

その発砲するハオの後姿を、顔を覆った指先の

撃ち殺してく、あるいはその

すき間に垣間見ながら、すでに、と

肉体の一部を吹き飛ばしていく、人々の

あなたはすでに滅びていたの

生き生きとした肉体の

なにも出来る事はなく、もう

痙攣。ときに

あなたは好き放題に自分の

硬直。そして

…ね?滅びを咬んで、そして

引き裂かれるような大音響の

ふれる。翼。羽ばたいた無数の

声。その

苦痛の翼に、あなたは黙って

群がったざわめき。ハオは

触れていた。その

知った。いま

暁の空に

俺は、彼らを虐殺していると、そして指先は容赦もなく発砲した。

気が付けば、確かにあまりにも荒廃した風景が拡がっていたのだった。為すすべもなかった。数人の人間が、ハオの足元にひれ伏して、頭から草をはやした泥に突っ込んで、そして、うめく口に雪解けの穢い泥は侵入する。穢す。その、彼らの自分の血を咬んだ粘膜を。こんなことが、…と。

こんな凄惨な風景が拡がっていいものか、と、ハオはただ非難をだけ感じた。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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