小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑯ ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下、一部に暴力的な描写があります。
御了承の上お読み進め下さい。
ジャンシタ=悠美は、茂史たちをハオが帰らせて仕舞ったあとで、ハオのベッドの上に、行為が終わって着乱れたそのままに寝ころがされて、…大丈夫。
「心配しないで。」
不意に、想いついたようにそうつぶやいたジャンシタ=悠美の言葉が、自分に向けられたものだとは、ハオにはその一瞬、想えなかったままに彼は…だれも、
ね?…
傷付かなかったから。戸惑った。
夕方の時間をとっくにすぎて、夜の八時。
窓の外は暗くなって、そしてそれらは鏡面として、室内に存在する自分たちを含めたあらゆるものを、白い残像としてそこに見い出させていた。
ハオと、ジャンシタ=悠美に以外には誰もいなかった。…なにが?
と、言ったハオの言葉に彼女が答えることはなく、そして、その、数秒の沈黙を、ハオは彼女の半開きの唇眺めることで過ごした。
ジャンシタ=悠美の曝された手首の傷痕が、そのまま電灯の光のなかに見せ付けられていて、…死ぬつもりなどは一切ない。
とはいえ、彼女のリストカットは、自死を偽装した狂言でもない。
彼女には自殺はもっとも重要な罪として禁じられていたからだ。
だから、彼女のそれは、留保なき自傷、単に、自分の肉体を傷付けるためだけの自傷にすぎない。…秘密にした。
ジャンシタ=悠美は言った。「…わたし、…ね?」
なに?
「秘密にしたの。」
なに、言ってんの?…お前
「さっき、…」
…馬鹿?
「ふれた。…天使が。その」
頭、おかしいの?
「光。…でも、」
聴いてる?
「ね?」
お前、…
「秘密にしたの。…知ってる?」
壊れちゃった?…お前、むしろ
「聖母様にも秘密。…もう、」
死んだら?お願い、
「わたし、穢いから。だから」
死んで。もう
「ずっと、…生まれる前からずっと、だから」
むしろ、お前、
「罪を作ったの。もうひとつ」
いなくなって。
「作った。…嘘、ついたの」
この世から、お前、むしろ
「天使様の、ひらめいた翼の光に、…」
いなくなっちゃえよ。いま
「大丈夫。」
すぐに
「だから、大丈夫だよ。ハオくんは、」
死んじゃってよ。
「まだ、…ね?」
お前、…
「穢れてないの。…お願いする。」
…ね?
「ずっと、もう」
無理。
「ずっと、お願いしてるから。私だけを」
完全に無理だよ。お前、
「穢してくださいって。わたしで」
全部壊れるから。身も心も
「地獄の底を全部一杯にしてくださいって。…そうすれば」
魂も頭の中のケツの穴ののなかも
「救えわれるでしょう。だからわたしを」
完全に無理だからね。もはや
「いっぱい穢してくださいって。」
生き物ですらないよ、お前。…と、そう言ったハオの声を、ジャンシタ=悠美はしっかりと、鮮明に聴き取りながら、聴く、…声。殺しなさい。
それら、壁から壁に反響する、温度のない、その、「ころしなさい。」繰り返され続ける声、…あなた自身を。
…と、「いつ?」
ささやかれあう声の群れ、「いつなの?」
いつ、ころしちゃうの?…「自分を、その手で、」…と。
「馬鹿?」…いつなの?
聴き取られる、それらの声に音調の浪立ちはなになく、頭の中にじかに、あまりにも素直に聴こえるそれは、「見た?」
ジャンシタ=悠美が不意に言った。
はっきりと、ハオに。「羽ばたいた。」…もう一度、…
と。
「天使の翼が。…」その、かすかにふるえをもった音声を聞き取って、ハオは、そして彼女は見ていた。
その、数秒前に、確かに眼の前に、天使のひたすらながいながい翼が、かすかにだけひらめいて仰がれた、その息吹きを。ジャンシタ=悠美の半開きの唇に、ハオの指先はふれて、その、動きのない形態をなぞった。不意に、ハオは想い出す。あの《破滅の日》、自分の頭を打ち抜いて、のけぞって倒れこんだその男の仰向けの眼は開いたままだった。ジャンシタ=悠美と同じように唇を、やわらかく、どこで生物的なみだらさを曝して半開きにして、その息遣い。
その男は自分がもう死んで仕舞ったと想っていたに違いない。脳の上部を吹っ飛ばして、頭蓋骨の大半に深刻な破壊を加えながら銃弾は、それでもいまだに彼の息の根を止めてはいなかった。ハオは、その男の頭部の至近にひざをついて、俺は、…と。
彼は想う。今、俺は、…
為すすべもない深刻で救いのない後悔のうちに心を責めさいなんでいるように見えるに違いない、と、振り返ったその先、ブーゲンビリアの樹木の、夜の空間の中にもはっきりと、そのむらさき色に近い紅の色彩を兆したその花々の咲き乱れた散乱の下に、シャッターにもたれかかって、もはや呆然として自分たちを見ていたタオ。彼女は、と。
そう彼は想うしかない。俺が、悔恨にくれているとでも、…と、なぜなら。…ハオは想わず、口元に笑みを浮かべて、…俺はいま、泣きじゃくっているから、と、彼は想った。
事実、そうだった。タオは、はっきりと意識を保ったままに、失心したに近い白濁した視界の中で、彼女が眼差しに捉えたただ歎き、悲しみくれる男への憎悪と、嫌悪と、同情にくれた。そんな自分の感情が、まざまざと、いきいきと胸と、喉の奥と、頭の中の発熱のうちに目醒め、散乱している事は知っている。
男が、自分が唯一愛していた男を殺して仕舞ったのは事実だった。男は何もしなかった。ただ、ささやきかけただけだった。とはいえ、男は衝動的に、迷いなく一気に自分で引き金を引いて仕舞ったのだから、彼が殺して仕舞ったに違いなかった。
その指先が引き金を引いた瞬間に、彼女がジュウンDươngと呼んでいたその日本から来た男の頭部は横殴りに吹っ飛んで、一瞬持ち上がった気がした身体が空中で撥ねたのを見た気がした。…あなたは、と。
わたしに決して許されはしないだろうと、そのときタオの意識は鮮明に、呪詛の言葉など何もない、あざやかすぎる当然の認識としてその男を憎んだ。その、冷たく、冷め切った認識は、短い言葉になって無数の反響を頭の中にかさならせ、そして、その言葉をタオは聴き取れなかった。ハオは泣いていた。
身を捩って泣きじゃくって、眼差しが捉えたタオのためだけに浮かべた微笑さえもが、あきらかに泣き崩れた顔を一層泣き崩れさせただけに違いなかったことさえ、自分でも意識していた。…なんて、と。
ハオは想う。強靭なのだろうと、その、折り曲げられ、地にふれた、あるいは、流れ出した彼の血の色彩にさえ穢された膝の向うに、たたずんであまりにもこまやかな痙攣をひとりで曝すそれに、まだ、お前は死に絶えないのか、と。
それは絶命のときをいまだに迎えないままに、その魂はすでに自分の死を自覚していた。その最期の記憶を、ハオは覚えていた。男がみずからの即頭部に押し当てた引き金を引いたときに、炸裂した火薬が一瞬、その眼差しに幻を与えた。
蝶が羽ばたいた、と想った。
こめかみの至近距離に、ひとひらだけの蝶の繊細すぎる羽撃きが、幾十枚分もかさなって、その一瞬に皮膚を愚弄した。
そうとしか思えなかった。…蝶がいま、と。
羽撃いた。…そう想う暇など在りはしない。すでに意識など消し飛んでいたから。
崩折れるように足元に崩壊していく、脱力した身体を、ハオの眼差しはその視界の端の方に捉えていた。
ハオは瞬いた。耳が、コンクリートの地面が、男の身体を拒絶するように撥ねさせた、その、鈍い衝突音を聞き取っていたことを想い出していた。男は死んでいなかった。…安らぎを、と。
とりあえずの彼への弔いの感傷さえもが目覚め、ハオは自分が手に持ったオートマティック拳銃を、その男の額に当てた。
引き金を引こうとした。
引けなかった。…あれ?と。
そう想った眼差しが、意識を置いてけぼりにして確認した眼差しのうちに、ハオは、銃創が空になっていたことに気付いた。
どうして、死はこんなにも悲惨で、そして悲しいのだろう?ハオは訝った。
ハオはじっと、泣きじゃくった眼差しをその男の、壊れた額の上部の赤く汚れた穢い違和感を曝す部分を見詰め、どうせ、…と。ふたたび転生のうちに、この世界のどこかに、どこかの時代に目醒めて仕舞うというのに。あるいは、すでに目醒めて仕舞っているというのに。なんども経過する時間の流れの向こう側に、なんども繰り返し、無際限に、過去の、未来の、現在のどこかしらにでも、すでに、転生しつづける時間のなかに無限に転生し果てているというのに。
なぜ、…と。ハオは、反対に持った銃の尻を振り上げて、なんども男の額を殴りつけて破壊した。…こんなにも、と。
悲しいのか?
男の頭部が文字通り、その原形を失って肉と骨格の粉砕した塊になって仕舞うまで。…見た。
ジャンシタ=悠美は、不意に、その、8歳の眼差しははっきりと見た。
ルシアという名の彼女の母親を、彼女は決して愛さなかった。友達がときに言った。…なんで?
と。お前のお母さん、臭いの?
それが、ルシアが身に着けた、癖の香水と彼女の体臭が混ざり合って作られた匂いである事は知っていた。それはあきらかに、ジャンシター悠美にとっても大人たちに特有の異臭だったから、友達のその発言に赤裸々な真実を認めこそすれ、いかなる意味でもそこに差別など感じなかった。
ジャンシタ=悠美は自分が劣等種族であることを自覚した。なぜなら、母親は明らかに狂っていたからだった。毎日、彼女は胸元に十字を切った、主よ、…と。
感謝します。ジャンシタ=悠美が理解できる日本語と、そしてそのあとで、音節とリズムの音声的な戯れに過ぎないポルトガル語を添えて。
毎週、彼女はジャンシタ=悠美は渋谷の公園通りの、威圧感をだけ冷たく曝した教会に連れて行った。主よ、…と
哀れみたまえ。ポルトガル語は汚らしい。穢い母親の口が発する言語だから。ジャンシタ=悠美は、自分が母親を嫌悪していることを、必死になって自分には隠し通そうとしていた。その日、東京に雪が降った。
4月の始めだった。テレビをつけると、そのどれもが春の雪を報じた。
散りかけの桜の花々の上に雪がひそかに積もって、花々と、それらを蓄えた細い枝に白い重量を与えて、ちいさく、ひそかに、それらはただ輝いていた。
学校へ行くために、家の前の道を通って、すぐ近くの公園に出た。
それは近道だった。そして、雪に埋もれた公園の桜の花々を、自分の眼でしっかりと見出しておく必然が、彼女にはあった。
声が聴こえた。…穢い子。
ふれなさい
あまりにも穢い子
…あなた、
と。それ。ジャンシタ=悠美は
見出された
あなたは、いま
眼も当てられない穢い、
頭の中に、直接ささやく、それ。
その
自覚した。すでに
穢い、…穢い、
その、声を
命の光に
自分が救われてあったことに
とても穢い子。呪われた、
聴く。彼女は、かすかに
復活の命の
おののきながら。穢い子
誰にも愛されない穢い子。あなた
おののく余地すらもなくただ
その栄光の光の
永遠に穢れた穢い子は、
その声を聴き取るしかない。耳に
翳りの中に
永遠に、穢れた子
死になさい。いま
あまりにも心地よく
ふれなさい
死になさい。その腕の中に
永遠の命のなかに。
響いていた声。振り返ると、何も見えない、一晩雪を降らせていた事実の一切をみずからすでに忘却して仕舞った空が、ただ、青くきらめいていた。
空は青い。ただ、その事実をだけ容赦なく突きつけて、そして、見あげた人間たちの眼差しをそのまま放置して、にもかかわらず、空は青い。
そこには空しかなかった。ジャンシタ=悠美は、それらの声が、たとえ声が沈黙をむさぼっているときでさえ、饒舌に自分の肌に絡み付いていることを自覚し、ふたたび見あげた何もない空のうちに、そこに、空の真ん中に、眼差しを伏せて、ただ、歎いていた見知った人の姿を見た。
そこに、確かにその人はいて、ジャンシタ=悠美はその名前すら知っていた。ジャンシタ=悠美は、現実の、その人の髪の毛の匂い、あるいは胸にいだかれたときの肌の触感、そしてその皮膚が立てた体臭を、あからさまにすでに知っていた。
その人はそこにいた。確かに、あの人を産み落とした人に違いなかった。違わないからそうであるのではなくて、そうであるからそうなのだった。眼を開くと、眼の前に見たこともない男の人がいた。ジャンシタ=悠美は自分が失心から醒めた瞬間が、今なのだということに気付いた。自分は、あの一瞬に失神したに違いなかった。
体中が雪解けの公園の土の泥に塗れ、濡れた土の臭気を立てて、下着さえも濡れて仕舞ったに違いない。
体中のいたるところに痛みが在り、…神さま。
と、そうつぶやきかけた瞬間にそのあまりにも軽蔑的な言葉を恥じた。
そうではない、あの方、と、ジャンシタ=悠美はこの世界のすべての意味を自覚して、…殺しちゃえよ。
声を聴く。それら、耳に鳴る声。…ね?
と、それ。…やっちゃえば?「…じゃない?」
「殺しちゃえ。…」…死にたいんでしょ。「死んじゃえ…」
ね?…「んー…」…死んじゃう?
「やっちゃえ、…」…と、それら、無造作に鳴り響き続ける声。頭の中に、それら、声の群れが聴こえて、「…生きてる?」
と。
不意に、他人の声が聞こえた。その、あまりにも美しい響き。…お前、
「生きてんの?」そう言ったハオの、唇を見た。覗き込んだハオの、至近距離のそれ。
ささやき声が、それが何を言おうとしていたものなのか、その理解が一切拒否されたままに、音声は不意に、自然に、自分の唇から零れ落ちてしまいそうだった。
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