小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑮ ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下、一部に暴力的な描写があります。
御了承の上、お読み進めください。
ハオは、噴き出して仕舞いそうなのを、必死に我慢していた。眼の前の少女、タオはすでに、とっくに堪え続けていた笑い声に、ときに我慢できずに、難く閉じてふるえる唇に笑い声の混ざった乱れた息を、もうなんどかこぼして仕舞っていたから。
指先が、膨らみかかる寸前の胸の、贅肉のやわらかく息づいた存在感をなぜて、そして、乳首にふれてみせた。タオはかたく眼を閉じ、まぶたを震わせて、…鳥たち。
もうすぐ、彼等の時間は終るに違いない。
もっと大きな、カラスたちが黒い翼を広げて舞い降りてくるに違いないから。
指先が、みぞおちを通って、腹部を一直線に落ち、そしてへその不意の窪みにはまり込んで仕舞った瞬間に、タオは終にするどい悲鳴を上げて身をのけぞらせ、それは笑い声。
タオの、邪気もない笑い声、そして、タオは声を立てて笑いながらその身をくねらせる。はしゃぎ、眼の前で、何もしていないのに抗うように暴れてみせて、不意に戯れの舌を出した次の瞬間に、タオは自分で服を脱ぎ棄てた。…ほら。
鳥たちはわたしをさえついばむだろうか?
と。ハオは彼女が、むしろ窓の向こうの鳥たちを挑発していた気がした。
走って逃げるハオを追った。一階の、かならずしも広くもない空間をタオは素肌を曝して逃げ惑い、空間には彼女の吐いた息使いの乱れと、あららいだ、その皮膚感覚と、発散された体温がほんのわずかな乱れをその周囲にだけ与えている気がした。
その、それ。
ハオの眼差しには。
追いつかないように、決して捕まえてしないように、こまかく繊細に気遣いながら追いかけるハオの呼吸さえ赤裸々な笑い声に乱れて、光。
さまざまな光が、いたるところから空間に侵入していたことにタオの眼差しはいつか気付いた。知っていた。
彼女は、そのとき、いま、自分の曝された皮膚のいたるところを、その光の雑多な群れが好き放題に投げかけた光沢と、翳りを、一瞬で崩壊させながら飾り立てているに違いないことを、そして、それは事実にすぎない。
やさしく、淡い濃淡の冴えた気配として。
階段を駆け上がるタオを追う。
立ち止まって、振り返って、そしてもういちど舌を出す。その瞬間に自分の顔が、わざと派手にしかめらたのは知っている。自分を追いかける男を煽情してやる意図もないままに。乱れた髪の毛が、いつか汗ばんでいたタオの額を首筋にへばりついて、あるいは、剥がれ落ちて皮膚の間近に撥ねた。
二階のキッチンの作業台をはさんで見つめあい、お互いの出方を伺って、あまりにも、と。
タオは想った。これは子どもじみた戯れに過ぎない、と、そして、あなたは子どもなの。
想う。まなざしが捉えたハオ。その、不意にやって来てすべてを破壊して仕舞った男。
あるいは、男のような女。女のような、そして、結局は子どもを生めはしないのだから男性だったに違いない。
いずれにしても、美しい男。あなたの体はいつも、発光したヨーグルトから酸味を取り除いて百合の花びらを塗りたくったような匂いがする、と。
知ってる?…想い、彼女は、そして声を立てて笑ったが、聴いていた。ハオは。
その、タオが鼻に執拗に立て続ける間歇的な笑い声、きまぐれに、立ってはあららぎ、消え去っていくそれら音響、息遣い、後れて漂う汗の匂い、光。
ときには陽光は眼差しに直射する。一瞬だけ。
あなたはどこから来たの?
タオは想った。たぶん、…と。
私の心の中からね、そう想って、その在り獲ない少女の妄想を自分で笑って軽蔑し、戯れに投げつけた皿が壁に割れて粉砕した。
大袈裟な声を立てて、ハオは皿が当った振りをして、それがフェイクだということなど誰もが知っている。割れた皿自身がすでに。おののいて、あられもなく声を上げたタオの駆け寄ってきた瞬間に、ハオは彼女が傷付かないように腕を伸ばして抱こうとした。
わざとかいくぐって逃げ出し、タオは声を乱して笑う。
上半身がへし曲がって、空間に乱れた髪の毛が、だれにも匂い取られなかった髪の毛の匂いを好き放題に空間に撒く。
背を向けたタオは尻を振ってみせ、駆け上がった。
階段を、再び、そして三階の廊下に遁れようと見せかけて、あるいは塞ごうとしたハオの傍らを背を曲げたタオが駆け抜ける。たわむれあって、立てられた声には、最初から何を伝えようという意味もない。
走りあがった階段の先に、最上階のなにもない白い空間が一瞬で開けた。
洗濯機しかない。天井熱のせいで、そういう使われ方しか想い付かれなかったに違いない。
白い、一面の壁がむざんなまでにあけすけな光の侵入に、文字通り発光して、線を引く青い影のあざやかな存在に眼差しは気付かない。
ルーフへ続く窓サッシュを抜けるとそこ、かならずしも広くはないルーフの真ん中には、幼児の死体が安置されていた。
吐かれた血の跡さえ洗い去られてはいなかった。
新手の出欠熱なのか、遠くから廻ってきた高濃度の放射能のせいだったのか。あるいは、それ以外の疾患のせいなのか。
いずれにしても、その1歳を超えるか超えないかの幼児は、いまだに何の弔いの洗浄もされないままに、いのちの尽きたそのままの状態でただ、天を仰いでいた。
眼窩さえ見開いたままに。
男の子か女の子か。
性別さえも認識できない着包みのままの幼児は、その眼差しにいまさら何をも見い出し獲はしない。もはや、その両眼は鳥たちが喰い千切って仕舞った後だったから。
カラスが、幼児の頭の先に止まって、そして、ハオを見てくちばしの中に濁音を鳴らした。…喰うのか?
そう言った気がした。
カラスの眼差しには、いかなる威嚇も、おびえも、警戒もなかった。ハオは、鳥たちにさえ自分が受け入れられて仕舞った気がした。鳥の一羽として。ひとつの、鮮明な認識として。
立ち止まって、その惨状を見詰めるタオの、汗に濡れ背中がハオのふれあいそうな至近距離にしずかに体温を発散していた。彼女の髪の毛と、汗に飾られた体臭が匂って、そこに、2羽のカラスは幼児をついばんでいた。
あお向けた体中に彼等のくちばしの痕跡は刻まれて、皮膚の内部のあざやかな色彩をさまざまに散らし、奇妙なほどに血は流れ出してはいない。口と鼻に乾いた、最期の時期に生きたまま吐かれたに違いない、干からびた血痕を除いては。
しずかな風景だった。悲惨で、そして、どこか諦めと、容赦もない切実ないじらしさを、むしろハオの眼差しは感じていた。
咽喉から甲高い濁音を上げて、タオが鳥たちに襲い掛かった。羽ばたく鳥たちは上空を迂回し、バルコニーの手すりに留まったカラスは身じろぎもしない。…あなたは、と。
わたしを傷つけはしない。
その、距離感による不可能性の容赦なさを、留まった鳥の眼差しは明らかに曝していた。ハオは想い出す。チャンの体を洗ってやっていたとき、ハオはいつか水浸しになっていた自分のTシャツを剥ぎ取って、そして水滴を落すチャンの皮膚を拭ってやった。
シャワールームの暗いオレンジ色の空間に、好き放題にチャンの皮膚は淡く複雑な翳りを散らしたのだった。
いま、この女は溺れ死んで仕舞いそうだ、と。
ハオはそう想った。
その、眼の前に広げられて、荒々しく、必死に生きてある事の現実に取りすがろうとしたかのように、明け拡げられたままにわななく唇の上下の皮膚。
色気を感じさせるほどに執拗になまめいたそのふくらみが痙攣をきざんで、そして彼女は必死になって呼吸しようと努力していた。いま、まさに。
その唇にふれているのは、星ひとつ包み込んだ大気の巨大な層が、そのままじかにふれているに違いない空気そのものだというのに。
大気圏の層のど真ん中の深層に、いま、彼女は沈み込んでふしだらなまでに、逃げ場もなく酸素の群れに囲まれて仕舞っているというのに。…助けて。
と。
息ができないわ。…お願い。
助けて。…そんな、声を聴いた気がして、見る。いかなる音声も発さない唇のふるえ。
そして、彼女の全身には、言葉など一切抜けおちていた。言葉にふられもしないままに、眼の前で無言の生き物が好き勝手にわなないていた。…死にます。
タオは言った。
その後、眼の前のそれを無視して、何事もなく階段を下りて、あの鳥葬されたみっつの死体の傍ら、素肌を曝したまま、床に座り込んだハオに、背を凭れて甘え、甘えた声を立てるわけでもなく、…私、ね
「…死んじゃうの。」
しにまっ
いつ?…と、言ったハオはタオの額をなぜるが、気付いているはずのその触感を、タオはわざと無視してやりすごすしかない。…と。
そして、タオは、自分がその後に何を言おうとしていたのか、すでに忘れて仕舞っていたのに気付いた。
綺麗な忘却だった。なんの、痕跡もなくすべて忘れさられていた。
まるで、最初から言いかけられた言葉など存在しなかったかのように。
不意にちいさく声を立てて笑ったタオの頭を、ハオはなぜてやって、ジウは、カメラの前で拡げた手のひらに刃物を突き刺した。
それは、ハオが与えてやった短刀だった。
切れ味はよかった。歌舞伎町のやくざの腹部を、三人分突き刺したことのあるそれ。「…アップしても、」と。
…すぐ消されるんじゃない?
伺うような上目遣いに、言ったジウにハオは答えた。…それがいいんじゃん。
笑って、…お前。
「伝説動画の主人公だぜ。」あきらかに、戯れているとしか想えないハオのにやついた表情を、ジウは嫌悪した。
いずれにしても、手持ちのスマートホンのカメラの前で、短刀を手の甲から突き刺したとき、さまざまな痛みらしき感覚の覚醒のうちに、ジウはいくつもの花々が咲いていく映像を、見開いた眼差しの中に見ていた。
それはハオが命じたことだった。痛みを、…と。感じそうになったら、…「…さ。」お前、…
「見ろよ。…」
なにを?
「お花畑。…」
なに?
「蝶ちょが飛んでるの」
なに、…
「蜂とか、…」
なにそれ。新宿の、ハオの事務所の椅子の中で、笑い声も立てずにうつむいて眼差しを伏せたジウの頬に、屈みこんでハオは唇を一度ふれてやった。…大丈夫。
「いいからやれ。馬鹿。」
眼の前で、短刀を突き刺したジウの左の眉が一瞬だけ、痛みの近くに傾いたのをハオは見逃さなかった。…嘘をついてる。
ハオは想う。…お前は、いま、…と。下手糞な嘘をついている。それは苦痛ではない、と、頭の中でなんども在り獲ない認識をつぶやき、それらの声の群れを繰り返し反響させるうちに、それは痛みなどではないことをジウは自覚し、確かに、それはもはや痛みとは言獲なかった。
あまりにもぶあつくぬり込められた騒ぎ立つ感覚の、それが痛みではないと連呼する声のこちらで、向こうに、自分の意識がもはや発熱し、発光しているのに気付いた。
…もう、と。
ジウは想った。俺はなにも、恐れなくてもいい、と、不意に鮮明にそう自覚されたときに、ジウは逆に、むしろ自分が恐れるべきだったもの、畏れていなければならなかったものを、探し出そうとする。
そんなものの残像さえも、無数の騒ぎ立って反響する声の壁のこちらでは見出す余地さえ残されてはいない。ハオは、閉じていた眼を開く。
そっと。傍らに、自分を膝枕に抱いた14歳のタオに気付かれないように。
その少女。ずっと、自分に寄り添って、フエの家に棲み付いてしまった彼女の眼を、不意に開かれた眼が見逃されなどしないことには、ハオは、気付いていた。なぜなら、タオはじっと、そのやわらかく閉じられた眼差しを見詰めていたのだから。
タオが何歳になった頃から始めた、戯れのような悪癖かは忘れた。
シャワーを浴びるハオの体を洗ってやるのはタオの仕事だった。眼の前に突っ立って、ノズルが噴出す水流に身を預けたハオの、その身体を素肌を曝したタオは、こまやかな手先で洗ってやった。
その、肌に確認される質感の向うに、タオの指先が、ハオの身体の健康的な異常のなさをいちいち確認している事はあきらかだった。
ときに、小さな吹き出物の存在がタオの眼差しを曇らせた。…奴隷のような、と、ハオは想い、タオの眼差しの中ではそれはあまく優しい妻の仕事か、おなじようにあまくいじらしい母親の仕事して、隠されもせずに愉しまれていることには気付いていた。
ふたつめの居間の真ん中で、立ったまま、タオルで自分の体を吹き上げるタオの指先の、為すがままにハオはまかせた。
いまだに彼女がその体内には知らない、それにわざとふれて、鼻先に、戯れて息をちいさく立てた。開け放たれたシャッターの向うには、ブーゲンビリアの樹木が見える。
晴れた日に、不意の高温に差しぬかれて降り積もっていた雪の層はつぎつぎに崩壊し、凝固して仕舞いながら水になって、それら無数にかさなった結晶を次々に崩壊させていく。
庭から、土の、樹木の幹の、濡れた匂いが執拗に漂う。家屋の中に侵入したそれは蒸れていた。シャッターの近くに歩み寄って、見あげれば空は青く、言った。
ジャンシタ=悠美は、茂史たちをハオが帰らせて仕舞ったあとで、ハオのベッドの上に、行為が終わって着乱れたそのままに寝ころがされて、…大丈夫。
「心配しないで。」
不意に、想いついたようにそうつぶやいたジャンシタ=悠美の言葉が、自分に向けられたものだとは、ハオにはその一瞬、想えなかったままに彼は…だれも、
ね?…
傷付かなかったから。戸惑った。
夕方の時間をとっくにすぎて、夜の八時。
窓の外は暗くなって、そしてそれらは鏡面として、室内に存在する自分たちを含めたあらゆるものを、白い残像としてそこに見い出させていた。
ハオと、ジャンシタ=悠美に以外には誰もいなかった。…なにが?
と、言ったハオの言葉に彼女が答えることはなく、そして、その、数秒の沈黙を、ハオは彼女の半開きの唇眺めることで過ごした。
ジャンシタ=悠美の曝された手首の傷痕が、そのまま電灯の光のなかに見せ付けられていて、…死ぬつもりなどは一切ない。
とはいえ、彼女のリストカットは、自死を偽装した狂言でもない。
彼女には自殺はもっとも重要な罪として禁じられていたからだ。
だから、彼女のそれは、留保なき自傷、単に、自分の肉体を傷付けるためだけの自傷にすぎない。
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