小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説① ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
序
みずから屠殺した鶏の匂いを嗅いだ。…ふっ、…と。風に流された誰かの髪の毛の、その毛先の、そのわずか数本が意図もなくまぶたにふれたような。そんな、かろうじて感じ取られた気配はあざやかに、そして顔を上げたそこ、数メートル先のブーゲンビリアの樹木の下に、彷徨いこんだ緑色の軍服姿の男が立っていた。
ハオは、それに対して何を想ったわけでもない。そんな暇もない。男はかならずしもハオを見つめていたわけでもないくせに、その、眼差しの端に映っていた男の眼差しが自分を直射した瞬間に、自分の秘密をのぞき見られたような、恥らった表情を一瞬だけ曝したようにハオには見えた。男は不意に、片手にぶら下げていた機関銃の銃口を咥えた。それは直射した日差しに一瞬だけ、黒光りした。ブーゲンビリアの花々がそよぐ。
風に。雪が降っていた。私は、傍らに寄り添った16歳のタオを引き寄せてやった。…え?
と。
不意に、いまさら恥らったタオの表情の、その真意は分からない。
何をしているんですか?…あなたは。
と、それは鮮明なおののきを其処に曝し、その、不意の、降って沸いたような理不尽なおののきに、タオは、自分が戸惑ったことには気付いていた。
タオは、私に身を預けた。接触した暖房着ごしに、タオの体のあたたかさが感じられたものの、引き金を引いた男の頭がその後頭部を吹き飛ばしたとき、ハオはまばたく。後ろに吹き飛んだ血と脳漿が、彼の背後の樹木を穢した。その幹を。ずぶとく、しずかにのた打ち回る幹。ブーゲンビリア、そして樹木はいつものように、むらさきに近い紅の花々を咲かせ、見あげられたその身の全体に撒き散らしている。あるいは、匂う。
私は、その気もなくタオの髪の毛が立てた、その匂いを嗅いだ。
何に例えるすべもない、無機的で、有機体にしか在り獲ない臭気、の、ような、そんな、鮮明な香り。匂っていた。髪の毛の匂いが、そして、私は指先に、タオの額をなぜた。
仏間の床に座って、開かれた木戸から庭の、雪に埋もれたブーゲンビリの花々を私は見ていたのだった。そして、ベトナムに雪を降り積もらせた大気の冷気は停滞していた。
知っていた。私は。傍らを振り向き見れば、至近距離のそこに、さっき吐いたばかりの血を口の周囲におびただしくこびりつかせたまま、タオの体が発熱していることは。
防寒着の下の、彼女の肌は陰湿な、べたついた、汗に濡れているに違いなかった。匂い立つ気がした。
死にかけの、彼女が発散するおびただしい発熱。
血の匂い?…たしかに、嗅ぎ取ろうとすれば、髪の毛の匂いの豊かな束なりの向うに、それは、かすかに感じ取られるに違いない。
とどろいた銃声は、あるいは、裏庭でアボカドの苗木に水を遣っているに違いないタオを驚かせて仕舞ったに違いない。それとも、タオはもはやありふれた銃声など気にも留めなかったのだろうか。射殺されたのが、ハオであったかもしれないのに?乃至、日常的に、自殺などあまりにもありふれていた。ハオが咥えた銃口が火を噴いたのかもしれなかった。いずれにせよ生き延びることに疲れ果てた人間たちは、夥しい数の自殺体をそこら中に曝し始めていて、そして、もう半年近くも経って仕舞った。ハオが世界中に核弾頭をばら撒かせて、そして、ことごとくの《革命軍》兵士たちを自決させて仕舞ってから。
数年前の《破滅の日》の数日はむしろ祝祭的な高揚につつまれていた。
ハオはむしろ、不意にベトナム中部のこの観光しか取り柄のない田舎町が取り付かれて仕舞った狂騒に、ただ面食らうしかなかった。暴徒化した人々が、無意味に町を破壊して騒ぐ光景が時に、いたるところで突発的に散見され、人々は互いに、それぞれの口にそれぞれが想うがままの怒号を、乃至悲鳴を、あるいは歎きの声を、喚き散らし、ささやき、つぶやき、叫び散らした。それは自分がしでかしたことの顛末にすぎなかった。にもかかわらず、すべてはもはや自分の手を離れて、自分を置き去りにして仕舞っていた。ハオは、狂騒に対して、ひとりで醒めているしかなかった。狂騒的な祝祭、とはいえ、なにが起るというわけでもない。人々が片っ端から日々の営みを放棄し始めて、容赦なく降りかかってきた完全な自由におののきさえしながら、さりとて何をし始めることが出来るというわけでもなく日々の惰性の中に生き、その、ただ継続するだけの生を営む眼差しが、ひたすらに臨界点に達した狂騒の眼差しを曝していたにすぎない、と、それだけの話しだった。あくまでも、一般的に、十羽一からげに言って仕舞えば。
と。すくなくともハオはそんな印象のうちに、眼差しが捉えた無数の彼らの生態を、ひとりでそう認識しているしかなかった。
あの、町の中で銃が乱射され、多くの市民が銃殺されて仕舞った凄惨な事件の後始末さえ、未だにまともに片付けられてはいなかった。誰も処罰されなかった。尤も、ジウは掃射のうちに、マイもろともに射殺されて仕舞っていたのだから、それで片は付いて仕舞ったのかも知れなかった。公的機関は、もはやハオを追いかけもしなかった。《破滅の日》の連鎖的な核弾頭投下および暴発の数時間後から、数週間に渡った暴動まがいの乱闘騒ぎ、窃盗と強姦、所謂6.01サイゴン暴動を端緒に、ホー・チ・ミン市で多発しベトナムの都市中に拡大した、なにを略奪するでもなく町を片っ端から破壊して廻るバイクの集団走行を突破口に始まった、暴徒化した人々の、それぞれの、それぞれの流儀による、それぞれの必然の破壊行動の許で、ぞれぞれの眼差しに見い出されていた暴動の鎮圧に警官あるいは軍人たちは追われ、もはやたかがハオどころの騒ぎではなかった。
そもそもが、もはやハオにそれ以上の危険性など何もないのだった。《革命軍》を蜂起させ、核爆弾を爆発させるまでのハオは確かに危険だったには違いなくとも、いずれにせよそれは誰も知らないうちに進行された破壊行動に過ぎず、そして実際に為した行為自体の赦し難い、危険である以前の破滅性自体はともかくとして、やって仕舞えばハオにはもはやそれ以上の危険性など残されてはいなかった。ハオは使い古された破損したパソコンほどの価値さえなかった。《革命軍》の、その直後の集団自決。確かに、彼等以外の人々にとっては、あまりにも自分勝手な振る舞いだったに違いない。世界を支配しておいて、結局、なにも支配しようとはしなかった。破壊し、破損させ、放棄しただけの放棄だ。彼等の爆死、発砲、それら、《破滅の日》の夜が明ける頃には、彼等のものになった世界を掌握する瞬間に一瞬でもふれることさえも拒否して、綺麗に彼らはみずから全滅した。声明さえ、なにもない。ハオは、危険、というものが、それが発生する前の兆しが帯びる、在りもしない色彩の匂いのようなものにすぎないことを知った。そして破滅して仕舞えば、もはや、なにものも危険では在り獲ない。ハオはもっとも危険から遠い男で、ただ、彼の所業を知られたならば、街中の生き残った人間たちからの容赦のない軽蔑に曝されざるを獲ないというだけにすぎない。
町の人間はすべて、ハオを避け、忌んだ。単に、不可解で役にも立たない異国人として。まるで、…と。ハオは想った。自分がまさに、生まれついての不可触賤民であるかのようだ、と。ときに、たとえば、かつてのハンセン病患者たちが見い出していたかもしれない風景が察しさえ出来る気がした。永遠に穢れ、呪われていた。神様の、あるいは仏様の、それなりに理路整然とした教義にもとづくそれなりの論理的必然としてではなくて、そんな当てににもできない正当化さえ一切跳ね除けて、直接的にハオは穢れ、呪われていた。かりに、かつてプロミンの服用がハンセン病を差別含めて丸ごと根絶して仕舞ったというのが事実だったなら、ある日、聴いたこともない薬剤の開発が異国人である自分の穢れを払拭して仕舞うのだろうか。それまでに経験されたすべての経験のこの上もない切実さを嘲笑いながら。
一年前から、ダナン市を雪がつつむようになった。
その、気象学的な必然性はよくわからない。もはや、それを解き明かそうとする人もいない。その必然などなにも人には知られない、雪がただその純白に、このかつて熱帯だった町を覆った。私は、タオを抱き締めてやるべきかも知れなかった。
せめて。
死に行くしかないその、美しい、大人に成りかけて人類全体の滅びの経験と共に死滅していく少女に。
一体、その熱を帯びた眼差しが、どれだけの殺戮を、短期間のうちに見い出して仕舞ったのか、知れなかった。私が射殺して仕舞ったハオをも含めて。
彼のこめかみに銃口を当てたとき、ハオは不意に声を立てて笑った。…俺?
「俺なの?」
ささやきかける声が、そのささやき声を最後までささやきおおせて仕舞う前に、私は引き金を引いた。
至近距離に鳴った銃声は私の耳を聾すばかりか、ただ、鮮明な痛みさえ与えた。首の骨を見えない誰かに叩き折られたかのように、横殴りに吹っ飛んだハオの頭部に血が噴いて散り、ハオは屑折れる前に眼差しに、一瞬だけびっくりした子供じみた表情を曝した。私はそのまま、《盗賊たち》に向って、銃を乱射した。そして、男の、頭部だけ血に塗れたそれ。
痙攣をやめない死体に雪が降り積もる。近づいていくと、ある程度の距離をおいていても、その男の体は匂った。かならずしも、吹き飛んだ頭部以外はいまだに生きている肉体と変わらない。あるいは、まだ、一個の組織体としては、細部をいまだに死に切らし獲てはいないあくまで過程的な死体なのかもしれない。ゆっくりと、氷解するように時間をかけて、肉体のすべては自分の死に覚醒する。つまりは、生きてある事を喪失し、ただ、そこに食い散らされるためだけの残留物と化す。
生き物たち。時には野鳥、時には野犬、一般的には、それらに腐敗を与えるおびただしい微生物の群れ。解体する、生あるものたち。生きて生き、貪り喰って繁殖し、生きて生き延びるものたち。たとえ、突然変異に滅びと造化を同時に体験しようとも。種の、或る鮮明な滅びなど考慮さえしようとしない生ある生き物たち。…匂った。
死体の数歩前に立ち止まって、ハオはそのまま冷たい空気の中に、不思議な暖かさを持って匂い立つその生き物の生き生きとした臭気を感じていた。血は、まるで流れ出すことでそこに新たな架空の鼓動が生まれようとでもしているかのように見えて、新鮮で、ただ生々しかった。男は、もう長い間体も洗わずに、町を彷徨っていたに違いなかった。醗酵に失敗したチーズを腐らせて胡麻油をかけたようなぶあつい臭気。花々。
想い出す。…それら、…と。
それら花々は咲いていた、と、ハオは想った。私は花々を見ていた。あの、雪にうずもれたままに、月の光にその隠された色彩をほのかに、かつ、あざやかに暗示して、それら。
私は、あの日、ハオを射殺したときにも確かに。
彼らは呆気にとられた顔をした。あの、《盗賊たち》。かたわらに、彼等の首領なのかもしれないけばけばしい同国の女をはべらせたままに、仲間割れを起こした奇妙なふたりの男。…なに?
すみません。
なにか、手違いでもございましたか?
と。そんな、彼等の眼差しを見回して、次に私がしたのはハオが私に手渡した銃を乱射することだった。
彼らは、逃げ惑うしかなかった。時に、その腕、あるいは腹部、足、いずれにせよどこかしらを銃弾に痛めつけられ、そして致命傷をは負わせられないままに。
叫喚。
垣間見られていた花々。
ブーゲンビリア。その樹木、それを見遣りながら、ハオは彼女の首を絞めていた。想い出す。ハオは。…タオ。いとしい人、…と。そうもはや、最期の時には彼女に、そう呼びかけて、彼女をそう自分だけは認識してやらなければ、彼女があまりにも報われない気がしていた。だからこそ、そうつぶやこうとした。…いとしい人、と、ただ、そのひとことは、つぶやかれそうになるたびに、すこしの逡巡さえも捲き起こし獲ないままに、彼の唇の中、舌の上に匂いも残さず溶け去っていく。なんども。
くりかえし、なんども。そしてハオは知っている。もうすこし、ほんのすこしだけ本気でその華奢な首を締付けさえすれば、彼女は自分に殺されて仕舞うという事実を。その、もうすこしの、ほんのわずかな、つかんだ皮膚のわななく猶予を、ハオは自分が愉しんでいる気さえした。そんなはずがなかった。
ハオは、声を立てて泣き叫んでいたのに。獣じみた声を、あの、たとえばチャンのような、あんな声をさえ立てて、そしてだれも彼の声など聴いてはいなかった。もはや聴覚を失って、窒息しかけて失心寸前の、自分の意識の白濁した閃光と、そのはるか下方に鮮明に騒ぎ立っていた苦痛の荒れ狂った浪立ちに、鮮明に我を忘れていたタオも。
何よりハオ自身が。事実、なにも聴こえてはいなかった。ハオには、そのときには、もはや。
あらゆるものが切実で、そして、とっくに、なにものも彼にふれることをやめていた。
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