《神皇正統記》巻ノ壱【原文及び戦時中釈義・復刻】⑯地神第五代彦波激武鸕鶿草葺不合尊
神皇正統記
原文及び《皇国精神講座(昭和十七年刊行)》より釈義
以下ハ昭和十七年公刊セラル『皇国精神講座』中ヨリ『神皇正統記』ガ部分ヲ書キ起シタルモノ也。是、許ヨリ歴史的書物ニシテ何等批判ヲ受ケズシテ読釈セラルベキニハ在ラズ。又『神皇正統記』ハ嘗テ謂ル皇国史観ノ歴史観ヲ支エタル書物ニシテ、日本ニ在ツテ最古ナル或歴史観ナルモノヲ孕ミテ編マレタル言説ガ一ツ也。(『記紀』等ニ読取リ得ル歴史観トハ当世政治的妥当性或ハ一般常識ノ類ニ過ギズ、其処ニ彼ノ固有ニシテ一般ニ真性ナル歴史観構築ノ意志ハ認メ得ズ。)
是、南北朝期ニ忠臣北畠親房ニ依テ編マレリ。[ ]内訓読ハ凡テ底本ニ隋フ。及ビ若干ノ注釈在リ。及、( )内ハ原典ニ在ル注釈也。小文字二段書ニテ書カレタリ。
第五代彦波激武鸕鶿草葺不合尊[ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと]と申す。御母豊玉姫の名け申しける御名なり。御姨[おんをば]玉依姫に嫁ぎて四[よ]はしらの御子を生ましめ給ふ。彦五瀬命[ひこゐつせのみこと]、稲飯命[いなひのみこと]、三毛入野命[みけいりのゝみこと]、日本磐余彦尊[やまといわれひこのみこと]と申す。磐余彦尊を太子に立てて天日嗣[あまつひつぎ]をなむつがしめましましける。此神の御代七十七萬余年の程にや、もろこしの三皇の初、伏犠[ふくき]と云ふ王あり。次に、神農氏[しんのうし]、次に、軒轅[けんゑんし]、三代合せて五萬八千四百四十年(一説には一萬六千八百二十七年。しからば此尊の八十万余の年にあたるなり。親経[ちかつね]の中納言の新古今の序を書くに、伏犠の皇徳に基[もとゐ]して四十萬年と云へり。何れの説によれるにか。無覚束なき事ことなり)。其後に少昊氏[せうこう]、顓頊氏[せんぎよくし]、高辛氏[かうしんし]、陶唐氏[たうたうし](堯也)、有虞氏[いうぐし](舜也)と云ふ五帝あり。合せて四百三十二年。其次に、夏殷周の三代あり。夏には十七主、四百三十二年。殷には三十主、六百二十九年。周の代[よ]となりて第四代の主を昭王と云ひき。其二十六年甲寅[きのえとら]の年までは周おこりて一百二十年。此年は葺不合尊の八十三萬五千六百六十七年に当れり。今年天竺に釈迦仏出世しまします。同じき八十三萬五千七百五十三年に、佛御年八十にて入滅[にふめつ]しましましけり。もろこしには昭王の子、穆王[ぼくわう]の五十三年壬甲[みづのえさる]に当れり。其後二百八十九年ありて、庚申[かのえさる]に当る年、此神隠れさせまします。すべて天下を治め給ふ事八十三萬六千四十三年と云へり。自是[これより]上[かみ]つかたを地神五代とは申すなり。二代は天上に留まり給ふ。下[しも]三代は西の州[くに]の宮にて多くの年を送りまします。神代の事なれば、其行迹[ぎやうせき]たしかならず。葺不合尊八十三萬余年ましまししに、其御子磐余彦尊[いはれひこのみこと]の御代より俄に人皇[にんわう]の代[よ]となりて暦数[れきすう]も短くなりにける事、疑ふ人も有るべきにや。されど、神道[しんたう]の事おしてはかりがたし。まことに磐長姫の詛とこひけるまゝ壽命も短くなりしかば、神の振舞にもかはりて、やがて人の代と成りぬるか。天竺の説の如く、次第ありて減じたりとは見えず。又百王ましますべしと申める、十々の百にはあらざるべし。窮まりなきをば百とも云へり。百官百姓[ひやくくわんひやくせい]などいふにて知るべきなり。昔、皇祖天照太神、天孫尊に御勅[みことのり※注記:二字ニテみことのりト訓ズ]せしに、宝祚之隆当与天壌無窮[あまつひつぎのさかんなることまさにあめつちときはまりなかるべし]とあり。天地も昔にかはらず。日月も光を不改[あらためず]。況んや三種の神器世に現在し給へり。窮り有るべからざるは我国を傳ふる宝祚[はうそ]なり。仰ぎてたふとび奉るべきは日嗣をうけ給ふすべらぎになんおはします。
【神代の終】
次には鸕鶿草葺不合尊の御時代のことをもうしてあるのですが、これは別に説明をするまでもなく、本文を読めばよく解ることと思ひます。
それから此の数字に就いては、何にしても昔のことで記録が更に無いのでありまして、どの程度までこれを信じて宜しいかといふことは解らぬのであります。また支那の年代と印度の年代とを考証してありますけれども、これも昔の記録の少なかつた時代の考証でありますから、今日の専門の研究家のと比べて見ると、当らない所も随分あるやうであります。此の歴史の研究は、後に至つて記録を方々から捜し出して之を比べ合せて見ると、昔よりは余ほど精密に出来るのであります。例へば孔子の時代とか、お釈迦様の時代なども、今日では略ば正確に判つて居るやうであります。それで今日になつて可なり正確に判つて見ると、昔の年代の数へ方が随分杜撰なものであつたといふことが解るのでありますが、併しそれは決して昔の人の欠点とは言へないので、詰り昔は交通も開けないし、方々の記録を集めて調べるといふことも出来なかつたのでありますから、さういふ時代に於て勘定の違ひがあつたといふことは巳むを得ないのであります。おのおの其の時代々々に於て長ずる所があるから、今の長ずる所を以て昔の短所と比べて、昔の研究が足らぬといふ批判も出来ぬ訳であります。これはたゞ昔の言ひ伝へとして読んで置けば宜いので、一々これに就いての穿鑿をするには及ばないと思ふのであります。
併しながら此の終りの方にある議論はまことに正しい議論でありますから、こゝだけは特に注意して置き
【百代といふ意義】
たいと思います。即ち日本では百代の天皇が続くといふ言ひ伝へがあつたのであります。誰が言ひ出したといふことは判りませぬが、既に平安朝頃から此の言ひ伝へがあつたものであります。そこで、百代天子様がお続きになるといふのであるから、百代が過ぎたらどうなるのかといふやうな議論をする者もあつたのでありますが、これに就いて親房は『百』といふのは多いといふ意味だと断定を下して居ります。これは如何にも健全な考へ方と思ひます。百官、百姓などといふのと同じやうに、『百』といふのは多いといふ意味で、十の十倍といふことではないと解釈すれば、洵によく解るのであります。それで『天壌と与に窮り無かるべし』と仰せられた天照大神のお言葉を信じて行くべきで、百も千もあつたものではない。天地が続く限り続く以上は、天孫の御位もまた限り無くお続きになるといふことを確信しなければならない。百であるか二百であるかといふ穿鑿は一切無用なことである。兎に角現在の日本の国の状態を見ると、何処までも発展して行くのでありますから、此の発展する国をますます発展せしめるやうに力を尽すことが、吾々に取つては大きな喜びである筈で、何時まで続くか続かないかといふやうな、その穿鑿は一切意味の無いことであると断定しなければならぬのであります。
今日の吾々には誰でも皆斯ういふやうなことを考へられるけれども、此の親房の頃、即ち正統の天子が勢力を失はれて吉野の山中に蟄居同様でいらつしやるといふ時代に斯ういふことを申したのは、実に見識の高い、立派な考へとして大いに賞讃しなければならぬことと思ひます。
その他のことは別にこゝに説明を要しない。何にしても此の皇室の血統といふものは遠い昔からお栄えになつて、今後も永遠にお栄えになるものと断定して、細かい穿鑿は一切省いた方が宜しからうと思ふのであります。
巻一了
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