小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑲ブログ版







ザグレウスは憩う

…散文




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel




《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ

Ζαγρεύς

ザグレウス

 










行こう、と言ったのは私のほうだった。長居しすぎた気がした。どうせ夜も来るに違いなかった。一週間くらい続く、その毎日の葬儀の語らいの日々、最後の日の早朝の埋葬が終るまで、不在のヴーは好き放題親族たちを集め続け、無意味な会合は深夜にまで続けられ、ずっと。

太鼓は鳴って、銅鑼が鳴る。線香が立てられて、煙をあがり、ずっと。

時に奥の階段を上がった一番上の、あの日当たりのいい部屋でチャンが叫ぶ。忘れた頃に。楽団は音楽を奏で続け、その、聞き耳さえ立てられない垂れ流しの音楽はすでにだれにも忘れられていたに等しい。ものめずらしげな異国人の私にだけ、ときにその、空間に消えていくしかなく音楽は、看取られながら。

フエは、私に贖わない。葬儀に倦んだわけでも、持て余したわけでも、いいたたまれなくなったわけでもなく立ちあがった私に。…いいわよ、と、微笑まれた眼差し。貞淑な妻は夫にはただただ従順に微笑んで従うものだ。

なぜなら、夫は妻のためにだけに生き、妻のためだめに死に、妻の幸福のためだけにすべてを捧げなければならないのだから。…と。

その東アジア流儀の、女の貞淑の倫理と論理的根拠。

微笑む私に手を差し出して、私はフエの手を取ってやり、アンに微笑み返すと彼は、行けよ、

Đi chơi

その、振り上げた右手が行った。…ふたりで、どこか行って、愉しんで来いよ。

Anh

フエが、

đi chơi

周囲の眼差しに私を誇示した。ほら、…と。これが、私の幸せのためだけに死んでいく男よ。どこへ行くの?と言ったフエに、私がどこへ行きたい?そう、問い返すと、フエは一瞬考えて、やがて、言った。…任せるわ。


とはいえ、褐色の肌を十分以上にすでに曝しながら、執拗に日焼けを嫌ったフエのむずがりを笑いながら、私たちは海に向った。海に行くのは久しぶりだった。すくなくとも、海を目的として、そこに行く事は。

見慣れた風景ではあった。海沿いの町で、どこへ行くにも海は、眼差しのどこかしらにふれた。町をぶった切ったハン川を渡る橋の上をバイクで疾走するときにも、部厚い風にはあきらかに海風の強靭さがあった。どこにもかしこにも、意識するしないにかかわらず、海はその息吹きを曝して、その存在を明示する。

かならずしも、海が好きなわけでもなかった。いまでも覚えていた。岡山と広島の県境の街に育ったとき、たしか十歳にもならないいつか、父親と母親が、その従兄弟たちに誘われて、私を海に連れて行った。父方の従兄弟だったのか、母方の従兄弟だったのか、それさえも記憶にはない。いずれにしても、もう二十年以上、その従兄弟たちとはあってはいない。街であったとしても、お互いに気付きさえしないはずだった。

それとも、…あ。…と。

え?

ん。…

あれ?

…あ、ん?…え?

って、…

そんな、不意に蘇ったおぼろげな記憶が、次第に、あるいは一気に鮮明になって、終には記憶のすべてさえ取り戻される。…とか、そんな経験がありうるのだろうか?血を分けたと表現される、要するに遺伝情報の経路を共有をはしているに違いない近親者と言うものは。決して、内臓移植さえ容易にはままならない隔たりを、その肉体は鮮明に刻んでいたところで。

あざやかな空の、見慣れた色彩だけだった。家屋やビルや、蒼く霞んだ山陰に、もはや遮られることの叶わなかった空は、ただむき出しのその形態を見せ付けるしかなかったが、その赤裸々さがむしろ、眼差しに見出されたそれの、どうしようもない卑小さをこそ曝した。

確かに、それが、地球の球体と人間の網膜の現実的な限界によって、物理的に切断された、すべてを覆いつくす広大な大気の塊のほんの切片に過ぎなかったにしても、あきらかに大空という言葉を愚弄する、惨めで小さな単なるドーム状の円形を、空は、私の眼差しの先に曝した。

無残な気がした。こんな限界の下にへばりついた、その身の無慈悲なまでの卑小さを、哀れむ隙さえ与えない、無際限なまでに巨大な惨めさを咬んだ。

色彩は余りにも単純を窮めて、むしろ黄色味と赤味をその下地にしたような、光に特有の複雑な青のグラデーションを、いまやあやうく純白にさえふれる白霞みから紫がかる寸前の純粋な青にまでいたろうとする無造作な連続の中に曝して、にもかかわらず、単純なことだよ、と。

これは、青。そう言うしかないんだ、と。

捨て鉢にそうつぶやいて微笑みさえしない、それら、曝された色彩。空は、青い。

その青を、青としか言い獲ないことには、明らかな屈辱と、解消不能な葛藤がある。

その下に、海はあまりにもちっぽけで、その固有の色彩さえみずからの、浪立った無際限な刻みにふれた夥しい反射光に白濁させられ、きらめかされて、私は終に見い出せない。なにも。その、海の色彩さえも。

足元を濡らす海水は、ただの臭気を孕んだ潮の水に過ぎず、海にふれているとは感じられない。海は、眼差しに捉えられている、先に見えるそれであって、足元に戯れるささいな浪打ちの水の惨めなわななきなどではないはずだった。

あの海の真ん中にでも言ってしまえば、そして、海の上のただなかに遭難し、救いようのない孤立と危機にまみれでもすれば、ようやく海に触れることが出来るだろうか?

私は不意に、海を恐れた。その、真ん中の波立つ荒野の、留保ない孤独のうちに、たたずんであるいつか私が体験するかもしれない破滅の風景に、感じた。純粋な恐怖。

よく晴れ、文字通り晴れ渡った日に、遭難した私は一人で海の上に仰向けで浮び、見あげるしかない空を見つめながら身体に、皮膚に、鼻腔に、時に浪が濡らす口元の味覚にさえ、そして私は海を感じるのだろうか。

個人的な破滅が遁れ獲ず決定付けられたその時に。孤独と破滅の鮮明な兆しの中に、もはや憩うしかすべのない私は、そのままに浪にゆられて、…光。

そのときにも、私の眼差しは光を捉えていた。海を見つめながら、神々の、救済の光を、その意味さえよくわからないままに、満ち溢れた光。それらの容赦ない束なりに眼差しはもはや倦むしかない。

私はまばたく。ひとりで、他人に説明の使用のない、鮮明な恐怖に苛まれながら、傍らに美紗子の微笑を見た。…怖いの?

言う。その声を、

海が、

聴く。

怖いの?

初めてだからね、と美紗子がつぶやいて、声を立てて笑い、彼女は忙しい。馴れない海辺で、海辺の遊び方知らない私の世話をするのに。従兄弟が連れていた子供たちは、その兄弟だけで三人束なって、波が打ち水が撥ねただけでそれを遊びだとして消費する。私は眼差しの傍らに彼らの姿を見遣っていた。いまや、その性別さえ忘れ果てて仕舞いながら。

湾岸道路沿いで、バイクを預けた。狭くはない更地を埋め尽くし、路面をまで占領したバイクの群れを背に、バイク預かりの男は日差しに体を灼いたまま、笑いかけもせずに私たちに一瞥をくれ、彼が何をすると言うわけでもない。ただ、突っ立って、バイクの傍らに終日存在していることだけが彼の仕事だった。二十代半ば。まだ若い。

フエは直射する日差しに故意にむずがって、派手にすねてみせ、駐車されたバイクは疎らなほうだった。ほんの100台たらず。地元の人々は朝早くか夕方、日が暮れかかってから出なければ海には出かけない。海辺を歩いているのは、外国人か、遠方かきたベトナム人の、その一部の物好きな人間たちであるにすぎない。

ミーケー海岸。美しい海岸と言われながら、そんな気もしない。海岸は所詮海岸にすぎず、ベトナムの中では美しい部類なのかも知れない。大陸の海の、南海の孤島というわけでもないそこは、結局は人にあらされた穢らしさを洗い流しさえできない飼い馴らされた海辺に過ぎない。

砂浜は短い。砂には、温度がある。バイクにサンダルを残して、私たちは砂浜を歩きながら、いちいちその当たり前の温度に熱がって見せるフエを笑う。抱きしめてやった彼女の肌を、潤わし始めた汗の気配がある。海は、海にすぎない。あの、初めて海を見たときの記憶から、自分勝手に抜け出せないままに、海を同じ眼差しの中にしか捉えられてはいない自分の意識の限界には気付いていた。あるいは、その固有性には。

外国人を含めて、人々は、疎らに海に集って、何をすると言うでもない時間をただ、浪費する。潮が匂う。空は晴れ上がって、ただひたすらにその、空に固有の青を曝す。すくなくとも、私の眼差しの中では。例えば猫の眼差しにとって、それがどんな色彩を曝しているのかをは知らない。風に煽られてフエは髪を掻き揚げて、不意に走り出したフエを追った。

フエは、泳ぎもしなくせに海に向い、声を立てて、見て、と。

Anh

海よ。

…biển

まるで、そうつぶやき、初めて見る海におののきながらはしゃいでいるかのように。フエは立ち止まった。その波打ち際で。押し寄せては引く、それ、でたらめで予測不能な浪のわななきに、足をふれられそうになっては逃げ惑い、接近し、逃げ、音。

ふたりの耳に、浪の音が聞こえ続けていたことは知っている。その周囲に、彼女にふれもせずに戯れて声を立てた私を振り向いたフエは、…ねぇ。

戸惑う。

Anh

…海よ。

…biển

フエがその、眼差しいっぱいに曝した深刻な戸惑いに、私は甲高い、乱れた笑い声をくれた。

困り果て、懊悩するしかないフエの眼差しを、そして私は彼女を腕に抱きかかえると、海に入って行った。腕に、落ちないように必死に気づかいながら、わざと嬌声を立てて暴れるフエを、時には見やりながらも匂う。潮の。そして、彼女の髪の毛、あるいは汗ばんだ、そして、シャツからのぞいた褐色の肌が日差しに触れた。

空は相変わらず、青いままだった。構わずにそのまま海に入り、腰まで浸かって、…先へ。

もっと。

先へ。…と、もっと。歩いていく私の腕が感じた彼女の体重は、やがて海の水が拡散し、奪い去っていく。

もはや、胸に近くまで浸って仕舞えばその体重など感じられもしなくなり、腕と胸は、ただ彼女にふれているに過ぎない。そして、フエのしがみつく手は私の首を愛撫する以上の意味をもはや持ち獲なかった。もっと、と。

もっと。歩く私にフエは声を立て、見た。その短く刈った髪の毛の向こうに見えるのは空。浪が打ち、跳ね上がった男は海中でばたつきながらフエを支える。フエの顔を海水が濡らし、海水が嫌いな彼女があわてて手のひらに拭き取るその仕草さが男を笑わせている事をは知っていて…なに?と。

ほら

振り向いたフエは

海が

言った。その、

匂います

雨が降った日。自分が連れ込んだ日本人は、親族たちによいつぶされて、彼女の寝室で寝ていた。夕方の一瞬だけの夕立は、ほんの数分の轟音と雨の臭気を撒き散らせるだけ撒き散らしたあとで上がって仕舞い、すでに晴れ上がった空は紅蓮の夕焼けをその、片隅にだけ曝した。

フエは、家に帰ってきて、シャッターをくぐった瞬間に底にいたフエに戸惑って、立ちすくんだアンを見つめた。何の必然があるわけでもなく、出会いがしらに、二人は見つめあうよりほかにすべなどなかった。フエは、不意に声を立てて笑って、…なに?

その、眼差しにつぶやかれた気配の意味を、アンは探った。

ややあって、眼をそらし、そのまま自分の寝室ふさぎ込もうとするアンを、フエは追った。

フエが結婚する事は事前に、ダットから聴かされていた。自分の手柄か何かのように、娘の幸福を祝福するダットは、連れてくる男が乞食だったとしても自分の手柄にして仕舞うしかない。

ダットのために、アンはフエの婚約を喜んでやった。かならずしも喪失感があるわけでもない。姉は、いずれにしてもいつか、誰かと結婚でもしないわけにはいかない。

挨拶と煩雑な役所手続きのために、サイゴンからフエを連れてダナンにまで来た男を、アンは見るまでもなく知っていた。あの、色彩のない男の翳り。

彼がどんな人間なのかは、アンだって知っている。

寝室にダットはいない。どうせ、夕方の早い時間になど、あの男が帰ってくるわけは無い。用もなく友人の家に転がり込んで、適当に見つけた名目にかこつけて、いつものように酒宴を始めて仕舞っているに違いない。

窓越しの日差しが、オレンジ色に、その眼差しに触れた。不意に振り返ったアンが、自分を抱きしめるのにフエは抗わなかった。そうするほかなく、そうするに違いなく、だから、アンはそうするのだ。

姉の体臭が至近距離に匂い、アンがベッドに投げつけるようにして倒したときに、フエは息を詰めた。眼差しの先に、突っ立ったままのアンが居て、想う。なぜ、と、私を愛しているあなたは、、と、どうしてそんなに、…想った。絶望した眼差ししか、と、曝さないのだろう?…と。想う。

フエは。

それ以上のことをする気もないアンは、フエの上に身を預けて、その唇をむさぼり、…愛してる。

言った、その言葉を頬の至近距離に聴くフエの、眼差しの先には、オレンジ色の、あざやかな夕焼けの残像が打ち棄てられて、だれにも見つめられることなく彼女たちをただ照らし出す。

それら、ふれるすべてのものの形態を色彩に、自分の色を名残らせながら。






ザグレウスは憩う



雨よ。

…と、フエに

mưa

言われるまでもなく

rơi

それには気付いていた。確かに、と、そう

mưa

想う。私は、いま、

rơi

…と、今、

私は、

biển

濡らされる。私は、…と、雨に、いつか

雨が

私は

降っています

そう想った。

海に

事実、そうだった。

晴れ、少しの雲を白く光らせ、青の色彩を翳らせていたにすぎない、その美しい空は美しい青のいっぱいのままに、南部のスコールのような大粒の雨を私たちの肌に叩き付ける。雨は激しい。

鮮明な痛みと、雨粒の重さをさえ感じさせる、それら、ひとつぶひとつぶの落下。

空間は不意に降雨の轟音につつまれてそれは、けれども眼を疑うというほどではなかった。確かに、降雨の必然など、その息吹きさえも感じさせない晴れ空ではあっても、ときに私の預かり知らない上空の必然が、大量の雨を降らせることもあるに違いない。

在り獲ないほどの月日がこの惑星に廻り、在り獲ないほどの確率の中に生命体が目醒めたのなら、膨大な時間の中の些事として、ときには在り獲ない雨ごときいくらでも海に降りそそがざるを獲ない。人々は周囲に喚声を立てていた。肌を打つ雨の轟音。一度短く突然の雨を罵った後で、振り向きもしないままに声を立てて笑ったフエを抱きしめた、その私は見上げてひたすら晴れた空に、そこで雨が降るべき固有の必然を探した。






2018.11.5.-11.10.

Seno-Lê Ma







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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