小説《ラルゴのスケルツォ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅲ…世界の果ての恋愛小説⑨/オイディプス
ラルゴのスケルツォ
Scherzo; Largo
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅲ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
ひざまづけばいいのに。
「…やめて」
どうしても欲しいなら。
なに?…そう、振り向きもせずに、接近しようとしてもいなかった私を押し留めようとするに由香に、「なに?」
こないで。
由香は言った。
「なんで?」
こないで。
何が欲しいの?言ったとき、私は侮蔑じみた笑い顔を、彼女に曝していたに違いなかった。「頭、おかしいの?」
聴く。
「*ってんの?」
由香は。
「**喰ってる?」
声を、私の。
「なに、勘違いしてんの?」
無数の、その。
「お前、ただの**じゃん。」
私の、矢継ぎ早の。
「俺がお前なんかに靡くわけないから。」
かけられる声。
「…違う?」
罵倒。
「**じゃん」
罵詈。
「くさいよお前」
声を立てて。
「自分でもわかってるでしょ?」
私は最早、声を立てて笑っていた。
「むしろ、死んだら?」
由が示さなかった、その、由香は何の反応も示さずに。
「無理でしょ?」
聴く。
「女やめたほうがいいよ。」
彼女が聴いていることは知っている。
「うざいから。」
ひざまづけばいいのに。
「穢いし。」
ひざまづいて。
「もう俺のこと見ないで」
そして、乞い願えば?
「いっつも、さ。」
せめて、あなたの。
「もの欲しそうな、さ」
せめて。
「発情してんの?お前。」
あなたの家畜くらいにはなりたいのだと。
「馬鹿なの?」
せめて。
「ちゃんとさ、…」
虐待される**ぐらいには。
「自分の顔見てみなよ」
願い、と、ひざまづいて。
「死んで。…本当に」
そして、当然のこととして。
「おかしいから」
結局は何も与えられずに。
「生きてる価値、あるの?自分で、」
ひざまづいたままに。
「自分、分からない?」
壊れて仕舞えばいいのに。
「人生すでに失敗だからね。」
壊れて。
「百万回くらい死んだほうがいいよ。」
不意に振り向いた由香は、いきなり大量の涙を流す。膨大な。表情のないままに。悲しみも。なにも。
屈辱も。
怒りも。
絶望も。
悲嘆も。
落胆も。
悔恨も。
詠嘆も。
苦痛も。
葛藤も。
逡巡も。
何も。
わずかにも。
一切の感情のない、ただ表情を欠落させた単なる透明な、あるいはみずからが透かせた肌の色にだけくすんだその水を、滂沱の。
唇さえ震わせずに。
瞳孔を相変わらずあからさまに開かせたままで。
何も言わない。
それに、何の意味を付与できるわけでもないままに、美しい、と、私はただ、そう想った。美しい。
もう
持て余す。
なすすべもないと
私は。美しさを。
想う
留保もなく。持て余しているもの。
私は
私が。
立ち尽くして
それは単純に、フエのいなくなったくらい空間。心象風景として、ではなくて、何の比喩も含まずに、単純に暗い空間の中に、たたずむしかなく、持て余しているばかりの、なに?
何を?
何を私は持て余していたのだろう?
時間をか。
空間をか。
事実をか。
あるいは、私自身の物理的な孤独を、と、そう言って仕舞うべきだったのか、いずれにしても、持て余されている、それら。
居間の、過剰な飾り彫りが彩った木製の椅子に座ってみ、不意に想い立ってシャワーを浴びて、からだに水流を打ち付けて、這うように濡らした生ぬるい水滴を、やがては拭きとれば、ベッドルームに帰って、ちゃんと服を着る前に、涙さえ。
そんなものさえ流しようもない、打ち棄てられたような、不安になる以前の、悲しみとしか言いようのないうすらべったい感情の散乱に満たされて、ふいに。
そのまま、正面広間の巨大な木の扉の傍らのちいさな木製の窓を開いてみたのは、少しでも空間に光を与えてやるためだった。
何も見獲なかったのではない。
暗さに馴れて仕舞った眼は、結局はすべての形態を、色彩を、完璧に捉えてさえいたし、そんな必要などないままに、空間に、今が朝であることを知らしめる光に触れさせる必要がある気がしたのだった。
窓を開いたそこには、ピンク色のいつもの寝巻きを着たままのフエが、いた。たたずんで。
何事もなく、正面の広大な庭の、すみの鉢植えの花々に水を遣っているのだった。待ち望んでいた、そして、捜し求めていたに違いなかったフエの姿は、私の心に何の感情も与えなかった。
私はただ、数秒間見つめ、ややあって振り返ったフエが、短い一瞬私を、離れたそのまどごしに確認して、微笑をくれた、その、まるで何事もなく。
昨日起こったこと事態、なにも存在などしなかったような、単にありふれた普通の微笑をくれてそのまま作業に戻って仕舞うのを、私は眼で追って。
感情など何もない。私には。
喜びも、なにも、かたちをなさない感情以前の何ものかをさえも持たないままに、私はただ、微笑み、やがては声を立てて笑った。その笑い声はフエには聴き取られなかったに違いない。その、距離のせいで。
少しの時間をかけて、入念に水を遣って、その前にしゃがみこんで、その指先に花弁を触れてみながらも、フエはその花々の何かを確認しながら、背中を向けた彼女の丸まった形態そのものに、朝の光が上から覆いかぶさって、見る。
私は、照り返す、ピンクの粗い布地の、そして束なった彼女の髪の黒に点在する洪水を起こしたような反射光の氾濫。
彼女が家屋の外に出てしまったあとに、木製のドアはいともしないままに堕ちて仕舞ったに違いない。
いつものように。いつもの逃亡の完全犯罪。かつて、存在したことのない逃亡者のための。
朝の、いつもなら休日の日課だった、その長い長い水遣りの仕事を終らせた彼女が、明確な表情さえもなく、私に近づいて、そして私を見つめた彼女が目にしたのは、ただ、当たり前のように涙を流している私だった。
その、鉄格子のはめ込まれた、開け放たれた窓の向こうに。
どうして?
Tai sao ?
フエはつぶやくように言って、その音声は明確に私の耳に触れるが、私には感情など芽生えもなしない。私が確認するのは彼女が目の前にいた事実にすぎず、鉄格子の間から伸ばされた指先が、私の頬の、涙にふれようとして届かない。
何の意味もない。
流れる涙には。
何の感情をさえも表現できないそれは、そして、フエはしずかに案じる眼差しをくれて、何事もなく、もう、と。
もう忘れて仕舞ったの?
私は想う。
子供が死んで仕舞ったことをさえ。あなたは。と、そう想っているのかもしれない、私の、感情の、あるいは夥しい喚声の群れそのもののからっぽの空白は、想った。
私は。初めて私は嘘偽りも泣く、本当の涙を流している実感に、ただ、心が震えた。
何の感興も呼び起こしはしないままの、そのたんなる震えが、心臓と喉元にある。唇さえも、震えはしない。
…美しい。
十年前に実家に、七年ぶりに戻ったのは、仕事でベトナムに行くからだった。当分の長い間の渡越になるはずだった。
もともとは、ベトナム進出するという縫製企業のための、現地コンサルが私の仕事だった。日本に飽きていたし、あの東北の地震のあとに繰り返される、一連の日本人の雰囲気から、逃げ出したかった。
変わることなど出来ない日常のルーティンの中で、何とかしてそれ以前と以降の違いを、必死になって自分の中に造ろうとしているようにさえ想われた。
地震から、ではなくて、日本人から逃げ出したかった。帰ってこないですむ口実さえ作れるなら、そのまま海の向こうの流れ者になってしまいたかった。
さらに、倫理のように喧伝される絆のフレーズに、ではなくて、それをさかんに消費しながら何を変えるわけでもない日本の、日本人の風景自体が、いたたまれなかった。
それは、私にとっては、あまりにも孤立して、いじましすぎていたたまれない風景だった。
実家に帰ったのは、両親に会う必要があったからではない。マンションを引き払った後の住民票を移転させる必要があった。
それだけに過ぎない。
父親が脳梗塞で倒れたことは知っていた。
大学を出た年に、ちょうどかぶって倒産した父親の会社の後始末が、結局は親族の殆どを敵に回すことになって、彼らがいつのまにか孤立無援になって仕舞っていることも知っていた。
何度か帰ったときに、確認したのは、彼らの完全に和解した、お互いにささえあって二人だけで生きている、うつくしくもけなげないかにも夫婦らしい夫婦の姿だった。まるで、生まれて初めて、彼らはやっと結ばれたように。
あるいは、再び。あるいは終に。あるいは、…いずれにしても。
そこに私の入る隙はなかったし、入りたいとも想ってはいなかった。結局は、大学進学で親元を離れてしまえば、彼らを全く顧みなくなった私は、ひょっとしたら、彼らに傷つけられ、彼らを嫌悪していたのかも知れなかった。
もはや、そんな感情の生々しさなど、離れ離れになって仕舞った自由の故に、まったく無効になって仕舞っているにすぎないその時に、寧ろリアルにその感情のかつて存在していたに違い事実が、目の前にちらつくのだった。
私は、彼らを憎悪していた。だから、彼らを棄てて仕舞ったのに、違いない。
そうとしか解釈できないが、それが本当かどうか、私はわからない。いずれにしても、最早母親に求められることもない私の肉体は、魂は、存在は、結局はやにさがってしっぽを降るしかない女たちのために、きまぐれに濫費されるしかなかった。
ときに、心からの愛をも、彼女たちの誰かに捧げて仕舞いながらも。そんな私に対して、くそだよ、と、言われたならば、その通りだと、笑って承認をくれたに違いない。
広島。その外れの岡山との県境の町に、そのときの実家はあるはずだった。
初めていく場所なので、それがどこなのか、全くわからない。
福山駅で新幹線を降りて、そして、地上に降り立つ。空気に、記憶がある。当たり障りのない、いかにも日本的な、くすんで色あせたような光の色彩にも。
行き惑う。
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