小説《ラルゴのスケルツォ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅲ…世界の果ての恋愛小説④/オイディプス
ラルゴのスケルツォ
Scherzo; Largo
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅲ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
死。…死?むしろ。
不死なるもの。
私は不意に想った。
理沙の指先が、活け上がったばかりの白い花弁の細長いひだひだの花のその白の先端に、触れようとしながらも。
むしろ不死。
死が、生の経験し得ないまったく生とは差異する他なる何かであるというならば。
花の匂い。
誰も、死をなど経験することが出来ないのならば、生はその本質において、死に獲ない。生の限界とは、むしろ不死にすぎない。
それ自身の留保なき限界として、生は永遠に不死にすぎないのであって、だから、いまだかつて、誰も死んだことなどなかったのだった。
不可能性。
それは単なる、その。あるいは。
…死。
それは不可能だったに過ぎない。
誰も、…ね?
死に獲もせずに、「好き?」
花が。
好き?
雪が。
好き?
僕が。
好き?
君が。
好き?
海。
好き?
空。
好き?
あふれかえった、
好き?
色彩。
好き?
すべて。
好き?
君の。
僕を見て。
君が、僕を。
見て。
見たいなら。
僕を。
君は。
見て。
そうしたい?
見る。
したいなら。
ほら。
見て、ほら。
見えるのは、雪。
君の肌の褐色の、向こうには雪。
散乱。
空間の中には、雪の散乱と墜落。
身を乗り出して、屈みこんだ理沙が涙を唇でぬぐってくれたとき、私は自分が涙を流してさえいたことに、気付いた。花。
いつか、君が活けた花のその花びらを、口に咥えて噛み千切ってあげる。
そう想って、意味もなく、私は理沙の唇によせる。
…唇を。私の奇矯な振る舞いにクラスメートたちが囃し立ててみせたそのお遊びも沈静化して仕舞って、もはや誰も想い出しもしなくなったその一ヶ月もたったころに、不意に目線を感じた私が振り向いた授業中の、午前の、晴れていたのかも知れないおぼろげな陽光の記憶の。その光が斜めに差していた教室の細部さえ想い出せない記憶のいわば未完成のタブローの中に、由香がめずらしくまっすぐに私を見つめていた眼差しには、私が、結局は忘れなかったそれ。強烈な憎しみがあった。自虐的で、執拗で、殺して仕舞いたいというよりは、彼を自死に追い込むことによって、自分自身を破壊に追い込んで仕舞おうと、倒錯した欲望に静かに、物も言わずに、何の暗示さえ示さないままに、停滞しきった。
その眼差しに、私が不意に微笑んで、小さく、ひそかに、手を振ってやるかわりに、二本の指を振ってやったのは、その、不意に感じられた軽蔑と嫌悪感と哀れみと、それら複合したごちゃごちゃの感情から、悔恨をだけはすっきりと欠落させて仕舞ったもの。
空白として、埋められることもない空間をすっぽりと内包した感情。あたりさわりもなく、とるにたりないかにさえ感じられた、私の。
なぜ、だったのだろう?それは。…暴力性?
破壊すること。
やさしい、口付けによって。
不意の。
唐突な。
意図されない、その。とはいえ、彼女を傷つけるつもりはなかったなどとは言獲ない。彼女が、傷付くに違いなく、傷つけられた彼女のその、いうなれば心が曝すに違いない傷は、いかにしても癒し獲ないことなど知ってはいたし、そもそも、それを望んでさえいたのかもしれない。意図されもしないままに。目の前で由香が、もっとも残酷な公開処刑に処されることそれ事態を。彼女への、直接的な憎しみなどないもないままに。不意に、なにかに落ち込むように。たとえば、天使が通ったあとの一瞬の空間の隙間に。ただ、どこかでやさしくやわらかい感情にだけ揺れ動かされて。知っていただろうか?美紗子は。
私に捧げられる無数の眼差し。
それら。
どこでつつましく、おとなしく内側に折りたたまれて、これみよがしに渇望したもの。
わたしに、ふれてください。そう誘惑しながらも殻に閉じこもる倒錯的な甲殻類。
女、と、あるいは、当時の、私の周囲に散乱していた少女といわれる年代の、いずれにしてもそれら、女たち。その、無数の、私の視界にかさなりあう一様な眼差しの表情。何の差異もなく。
発情した。
羞恥した。
自虐として軽蔑する。
煽情。
求められる、言葉もなくからっぽの了解。
…ね?
…うん。
開き始める瞳孔の捉えるもの。
黒眼の震え。
一瞬の、不意に失心に堕ち込んだような憑かれた凝視。
戸惑いの装い。
無数の、多彩な、一様に無差異なそれら。
選ばれてある無根拠な確信。
テーブルの上にコピー用紙を一枚広げて、理沙がそのちいさなビニール袋の口をあけると、指先で震わされて、ビニールの中に整えられる白い粉。華奢な指先で、とん、とん、とん、と。やめろ、といわれれば、理沙はやめたのだろうか?
用意される、きちんと消毒された注射器。たぶん、殆ど無菌のはずの、無数の雑菌に塗れているに違いないもの。ほら、と。
言った、彼女。理沙の不意に振り向かれた横顔に日差しが差す。いつもの昼下がりの。美紗子は犠牲者だったのだろう。漏らされる微笑の。たぶん、…その音声。たぶん美紗子は、そして。聞く。欲望?理沙の。欲望に突き動かされたとは言獲ない。声。…彼女の。ましてや。理沙の立てた声。…想い?美沙子の私への。つらなる。そうかもしれないけれど。つらなって、その。とはいえそれ以上に、声。…理沙の音声。美紗子は何かに傷付いて、声に。何かのまったきその。声になる前の。見出されたのは風景。崩壊の風景。そのなかで美紗子は。子供?あるいは未だに死んではいない子供のように、そして、美紗子は私を抱く。崩壊した、瓦礫の山の中にたたずんで。なぜなら。だって、…ね?「ん?」
何もかもが、もう終って仕舞って、完璧な滅亡を曝してさえいて、それでも生き残っているのなら、美紗子は何かをしなければならず、何かを愛さなければならなかった。…の、だろう。…か?
…どう?
「気持ち、…どう? いい?」…ね?
どう?「なに、」…ね。
「お前、…さ」いま、…ね。「なに、」…ん、…っと「見てるの?」んーーー。
…ね?
どう?
「あんた。」…あ(わ)たしの、と、理沙はろれつの回り始めなくなった声を立てて、「あんた…」ね?
わたしのあなた。
指の腹を私は舐めた。終ったばかりのその身体は、理沙のそれをも含めて、かすかに汗ばんでいて、匂い。
私たちのからだが立てた。私には終に嗅ぎ取られない私のそれをも含めた、そしてかすかにぬれた(…汗に?)指先に粉を付着させて、理沙の鼻先に近付けてやると、彼女は舌をゆっくりと出せば、舌の唾液の湿りを日の光はやさしく白く照らす。
舌から遠ざかった指先には目もくれないままに、私を見つめている理沙の微笑みは、私に見つめられてぶれもしない。愛すべき存在。美しいもの。ただただ。
ひたすら。
ただただ。
どうしようもなく。
ただただ。
むしろ。
ただただ。
ベッドに背を凭れて、身を脱力して投げだすしかない彼女の足を開脚させて、聴く。
頭の上で息遣われる、その。粘膜にぬってやれば、瞬いた理沙の眼差しは表情もないままに微笑む。
理沙の好きなモーリス・ラヴェルを流してやればよかったのだろうか?端整な顔立ちのフランス生まれのバスク人。たぶん、本当に愛しているわけではなくて、曝された、単に自分勝手な固着や固執のおそらくは、その残像にすぎないいわば習性にすぎなかったに違いないにも関わらず。あの。
…短い断章。
ソロ、(かさなりあう音の孤立)ただ、一台だけのピアノと、ただの十本の指先のためだけの。
差し出されたままの、理沙の舌が、ゆっくりと、かすかなふるえを刻んでいるのを見た。なにを。
どうして?
見てるの?
美しいの?
何を、その、私だけを見つめた眼差しは。
あなたは。すでに
そっと、舌にはふれてしまわないような繊細な注意を持って、私のつき立てられた
壊れて仕舞って、たぶん
曲がった指先の曲線の、その先端が理沙の唇に触れると、何も
ここには
反応を示さない理沙は目の前に
もう
生きている。
いないはずなのに
明らかに。彼女は。
感じたのだろうか理沙は、指先の。私のそれの、その、かすかなふるえ、そして、何のきっかけも明確にはないままに、理沙の唇は不意に私の指先を咥えた。
子供のように、大人の理沙はしゃぶりついてみせて、むさぼってみせて、その、戯れの煽情。
渇望。
ほら。
もっと。
ほら。
見て。
想う。
なにを?
風景。
君の見た、その。
見て。
もっと。
ほら。
風景。
君の。
なにを?
風景。
もっと。
見せて。
もっと、…と。もっとしますか?と、フエの眼差しがつぶやく。
あなたは、私が欲しくて仕方ないはずです。もっと欲しいんですか?なぜなら、あなたは。
ほら
愛しているから?
飢える
もっと。
愛するわたしに
…音。
愛しているから。焦がれるほどに。永遠に、だから。
…ピアノの。
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