小説《ラルゴのスケルツォ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅲ…世界の果ての恋愛小説②/オイディプス
ラルゴのスケルツォ
Scherzo; Largo
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅲ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
あなたに、…と。まばたく。あげよう。光に。何の抵抗もないままに、朝の。すべてを?いつも、結局は一人っ子だった私を腕に抱きかかえて眠る癖がいつのまにか美紗子に付いたのは、ほとんど日常の容赦もない慣性のなせる業に過ぎなかったのかもしれない。私が自分の部屋の必要を主張したときに見せた、その眼差しの中に捉えられて、見つめられた美沙子の見出す留保ない何かの崩壊と破綻のまったき息吹きの存在に、いたたまれなさ。
さらされた、おびえ、のような表情に対する。
私は目をそらして、うつむき、逆に恥じらいをさえ感じさせられたのは十一歳の頃だった。与えられた、もと父の妹、雛子のものだったはずの(三回も)そこの壁際に、(結婚した、あの)据え置かれたきしむ(小柄な)ベッド。(女。)どうしても修理できなかったあのノイズ。夜に、初めての一人寝の今晩だけはと言って、寄り添って添い寝し始めた美紗子は、何かにすでに気付いていたような、想わせぶりな眼差しをくれて、
知っている
背中から抱きしめられた私のそれに手を触れて、
私は
その仕方を教えてくれた。自分を愛する
すべて
その、すべ。戸惑いよりも先に、羞恥心と、
すでに
…愛していいのよ。美紗子への明確な裏切りの感情にさえ
知って仕舞ったから
苛まれながら、…恥ずかしがらないで。なぜ、
怖くない
…もっと。そんな感情の必要があったのか、…自分を。いずれにしても初めてのそれで…愛していいのよ。やがて美紗子が指を、初めてのそれに穢して仕舞ったときには、鼻でたったかすかな、満足げな、やさしい気遣いにあふれた思いやりにただ満ちた消えて行きそうなふるえ。笑い声の、その音声と気配を、頭の後ろに私は聴いた。空気の。感じた。ふるえ。嗅いだ。…なにを?
匂う。美沙子の肉体が、とても大きなものに感じられた。とてつもなく大きくて、そして強靭で、執拗で、許し難いがまでに健康で、衰えさえしはしないだろうところの、そんな。それは明確な実感だったに他ならないものの、彼女は一度も、何ものによってさえも、傷付きはしなかったばかりか私は美沙子のために、私を恥じるしかなくて、彼女に振りむいてしがみつければ満たすのはそのからだの鮮明な触感、私の皮膚の触覚を。確認する。
体臭。確認された、そこに存在する彼女の存在。戯れに、無意味な…んという音声を立てたのが、それは彼女への裏切りへの悔恨に
私を
いたたまれなくなった、ぶよぶよした感情の塊に持ち堪えられなくなって仕舞ったからだと、
恥じ入らせるばかりだった
美紗子は果たして察することなどできたのだろうか?いずれにしても。…どう?
その
聴く。
どう?…、と、理沙が言ったので、…声。私は彼女を見つめた。ささやかれて、聴き取られた、…。
あるいは。
そして。
いずれにしても。
その。「なにが?」と、意図しないままに若干鼻にかかって仕舞った私の声を、私が完璧に吐きおわって仕舞う前に、…花。
理沙は言った。
「私の…」…綺麗?と、「…花」
...花
やや低めの、…はな。アルトの声は耳の中に響いて、うなづいた私を、理沙は見ていたに違いない。
いつのまにか微笑まれていた眼差しの向こうで。
「きれい。」
言う。わずかな、距離。
「きれー?」
手を伸ばしても、とどきはしないが、言葉。…わずかな。
「きれー」
言った。
…ね?「好き?」それらの言葉。
なにが、と、それは私の想っただけの、…なにが?「花、…」言わない。私は。なにも。「…好き?」聴いた。その、理沙の声を。いとしの。美紗子は、…愛する。満足したように、あのとき、美紗子は起き上がって、…愛した。ティッシュペーパーで指先を拭き取り、いとしの理沙。綺麗に処理して見せて、「…だいじょうぶ。」言った。理沙のタトゥー。私は何が大丈夫なのかわからないままに、いずれにしても母が私に許しを与えたことだけは事実だった。否定しようもなく、そして、だいじょうぶ?そう言った。初めてフエを抱いたとき、フエはやわらかく、やさしい、媚びるような、あくまでも意図された拒絶を曝してみせながら、私のからだの匂いを嗅いだ。そうして、確認しなければ存在など確認しおおせはしないのだと、そう訴えていさえいるかのような、彼女の閉じられたまぶたが、その下に不安げにうごめかされている眼球の震えをそのままなぞり描いて、嗅ぐ。頭を撫ぜてやれば、首筋に押し付けられたままのフエの鼻は。彼女の唇の触感がある。首筋には。部屋が欲しいと言った時に美紗子が認知した、彼女にとっては明確な理由だったに他ならないものは、実際には私には一切意識などされないままだったにも拘らず、例えばそれは、小学校の友人が自分の部屋くらいはちゃんと持っているという事実が、あの空き部屋を私にくれとせがませた、それがその理由のすべてに他ならなかったが、美紗子は教えたのだった。その年齢にもなれば、そうした欲望に突き動かされて仕舞うものなのだと。それは仕方のないことなのだと。
だいじょうぶ
彼女がそれを望んでいたのか、望んでもいなかったのか、そんなことはおそらくは彼女自身も知り獲はしなかったものの、美紗子は私にそれを許可して、
なにも
容認して、そのすべを与えて、つぎに彼女が与えなければならないものへの逡巡と葛藤に、あるいは。
おびえていたのだろうか?美紗子は。
なにもかも
明らかに。
再びベッドにもぐりこみ、すがるように私を抱きしめた彼女の眼差しはかすかにゆれたが、戸惑わされなければならないのは私のほうでこそあった。美紗子を、
すべては
傷つけて仕舞った…う、…って、仕舞う、のかも知れない予感におびえた。すくなくとも苦しめたには違いないのだろう実感が悔恨のようにいつか鮮明に芽生えて、罰せられたも同じことだった。彼女に。そう想うより
光の中に
他にてだてはなく、私は気付かされるのだった。彼女に。彼女を求めていたことに。明らかに。彼女が明示したもの。自分が求めていたもの。飢えて。それに。飽くなくも飢えて、それを。渇望し、そして。焦がれて、どうしても、
たとえば、朝の
と。ここにあるのよ、と、痛々しいまでに私を羽交い絞めにして抱きしめる美沙子の腕と、足が、あるいは息づいて生々しい身体の触感は、ただ、私に知らせてやまない。夢。求めていたのよ。思い出すことが出来る。
光の中に
…あなたは。ある程度には鮮明に、…あなたは。その、夢みられた夢。理沙が…あなたが。死んで仕舞うことになる日の朝早くの、…求めていたもの。たぶんまだ6時前のどこか、無意味に醒めて仕舞った眠りの持続のやわらかな途絶えのなかに、まどろみながら生起し始める意識の中で、夢。夢を見た。零度。
凍えるほどに、寒いには違いなかった。
零度の。
夢の中の。…温度。夢の中には、…感じられた、その。そして、それが夢であることをは自覚されていて、目醒め始めた意識がその夢を中断して仕舞いそうになるのを、私は。
いけない、と。
必死になって私はそれを維持し続けようと懸命に、そうやって集まり始めた意識を必死に再び拡散させて仕舞おうと、かさねられるその矛盾した努力に笑って仕舞いそうにさえなりながら、見つめられたのは雪。
降る。
その色彩。
白?
夢でさえなかったなら、その伸ばした指先に触れた雪の、一瞬に水滴に崩壊してしまう前の冷たい温度を確実に、感じとってあげられるのに、と。その、
感じられないままに
鮮明すぎる涙さえ伴えない悲しさに、
鮮明な
体中が引き裂かれて仕舞いそうだった。
純白であるはずの
どこまでも視野の彼方に拡がるしかない、
色彩
ありえないどこまでも続く水平の永遠の視野の果て獲ない向こうにまで、永遠。雪はただ降り続け、どんなに、と。永遠に。
どれほど、僕は、永遠の。こうして待っていたのだろう、と…雪は、想う。どれほどまでの永遠の長さの中に、つぶやく。舞っていたのだろう。…ここだよ、と。ここで。孤独に。誰も返り見るものさえないのに。ここ。
雪は。
どこに?
ここにいるよ、と、つぶやいた私の背中に、不意に予兆さえなくふれて見せたのは、
夢の中に?
十二歳くらいのどこかで見たことのある少女だった。
私の見開かれた視界を埋め尽くして、一度たりとも見たことのないその少女は、明らかに私には懐かしく、確信されたのは、もう出会って仕舞った以上あとには引き返せないに違いないという、そんな。
降る。雪は。降ったのだった。それは、降り続けて、音もなく。まばたき、少女は微笑んで、まだ、かならずしも美しいとは言いきれない、その褐色の肌の少女は微笑むしかない。
幼すぎるから、なのだろうか。
綺麗ではあっても、にわかには、その美しさを確信することは出来なかったのは。
まるで、異国の少女のように。
少女が瞬くたびに、心が震えた。
あるいは美感覚をかならずしも共有しているわけではない、その、異国の?
ゆがんだ、視界の不意の屈折にしか想えないほど、やみようのない震え。どこかで、…。
屈辱的な…で、さえ、ある?
逢った。どこかで。
何も起こらないのだし、何も起こしようもない、ただ見つめあうだけの時間の経過は、夢の中で本当に流れていたのだろうか、それを疑う。
すでに、夢の中でさえも。
流れゆく、…そう感じられ、…時間。認識されただけなのだろうか?それとも。
とは言え。
終には、ゆっくりと墜落して果てたように醒められた夢の、開かれた眼差しが捉えていた天上の白いクロスへの光のおぼろげで鮮やかな反射に残り続けたその名残を、いつか。私が、やがていつか、ふたたび理沙と出会うことは確信されていた。その時には。生まれ変わったその理沙と。いつか。
雪の日に。降り止まない雪の中で。
必ず。
雪はその時、しずかに音を立てるだろうか?未来なのか、過去なのか、いつかは知らないいつか?
たぶん、もはやすべて忘れ去られて仕舞った記憶のすべてが、…きっと。結局は再び出会われた私たちを…いつかきっと。そうとは認識などさせないだろうにもかかわらず。理沙に、何とかしていますぐ教えてやりたかったが、あの、壊れかけの理沙はまだ店から帰ってきてもいなかったのだった。はきだされるそれを、何本分も処理してやりながら。壊れかけの…ている…た…て仕舞った?…ていた、その、彼女は。つぶやく。なに?と、美紗子が言って私は振り向いたが、いると想ったそこに美紗子いなかった。戸惑いの眼差し。そしてその、ややはずれた先のキッチンの壁際に立って目玉焼きを焼き、匂う。油の。焼け付く、卵の。
匂い。
鼻の中に、べたつてざらつく。
嗅ぐ。
中学生のときに、少女たちの明らかにときめいて色めき立った眼差しが私を捉えていたことに気付いたときに、私は私が美しいことに気付かされた。無理やり背後からたたき斬られたようなその認識がたたきつけられて、頭の中に認識となって鳴り響けば、穢いもの。私に認識されていた、穢らしい私。清武が、そう言ったから?あるいは、いずれにしても、何も言わなかった。醜い、とは。清武は、事実しては。私はただ、明確な無言の暗示として、清武のその穢いものを見るような眼差しを消費した。
本当に彼の子供だったのだろうか?いまだに、いつか芽生えた確信が妄想だったのかそうではなかったのか、私は知らない。明らかに、まったく似たところのない完全な他人に過ぎない容姿と、血液型と。なんで、と、十四歳の春の突端に、その桜さえ咲かないまだ、いまだに半ばだけの到来。春の。瞬いた眼差しの先の由香が言った。なんで、「…ね。」鼻先から笑いかけた吐息が漏らされて、「カノジョ、つくんないの?」言って、ふれるような吐息。聴き取られたその言葉の向こうに、…好き、と、あなたが。認識されていた。…好きです。た易く。彼女がつぶやきはしなかったその、明確な言葉。由香の願望。性急に、おしつけがましく、同時に腰が引けていて、ためらわれた、その言葉。隠し通されながら明示され、言葉。
聴こえはしない、それら。
なぜ、僕が?と、問い返したのは、「好きなの?」心の中だけだったが?…なに?聞き返した由香に、微笑むばかりで首を一度振った。
「へんな、ヤツ」…誰が?
…ねぇ、「…あんた。」…誰が?繰り返した。由香は、「あんた、女、一杯作れそうなのに、作んないね。」欲しいの?
由香のはにかむそらされた眼差し。
僕が?
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