小説《イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。》…世界の果ての恋愛小説
以下は、短い掌編小説です。
連作《イ短調のプレリュード》を書く中で、ふいに出来上がった短いものです。
物語内容の殆どない、心のひだのようなもの、そのこまかなふるえを捉えようとしたものです。
物語としては、桜が咲いていた、…と、それだけ(笑)。
読んでいただけたら、うれしいです。
2018.08.31
Seno-Le Ma
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913,
Joseph-Maurice Ravel
…欲しいんでしょう?と、うつろな、疲れ果てた、私を見上げる眼差しを曝す、それはなにかのまったき犠牲者のように。終った後のまどろみに、床の上にあお向けたフエの褐色の素肌。ベトナム、ダナン市、亜熱帯の町。腹部のやわらかな曲線は、差されていた。ベトナム人たちの廃墟のような家屋。そのガレージ、…二つめの居間のシャッターの網目を通り抜けた、か細い光に。
ふれられた光。素肌が、無造作にふれた、
指先に
光
ふれた彼女の腹部の汗ばんだ触感と、その体温と。…感じましたか?
想う。
あなたは。
見つめ。
わたしの。
フエを。
あなたも。
ながら。
わたしの。
みつめながら。
…温度。
私が。
…体温。
想った。
…匂い。
不意に。
いわば
生き物の生きてあることの留保もなき痕跡の群れ。何度も
存在証明
見た気がした。その息づいた皮膚の表情。ゆっくりと上下して、呼吸し、それがまさに生きていることを飽くなく表現して止まない、それら息遣い。時間の中に散乱する。
生存。
肉体がかたちづくって、かたちづくられた、棲息。
住まい、住まわれ、住まわしめて、ぐじゃぐじゃの。静まり返った中に。
何度も。その光の反射のやわらかささえ。いつだったのだろう?…いつの?と、その。その女が、ベッドの上に身を横たえて、息づく静かな呼吸を聞く。女。名前、その名前は理沙。
結局は本名は知らない。風俗店で働いて、そして、身を持ち崩していくしかなかったその。
女。私との、終ったあとのまどろみの中に、ひとりだけ**を打って、声を立てて振り向いて見さえしながら、いたずらな表情を作って、媚びてくれて、そして、笑う。声を立てて。深く、もっと。
もっと深いまどろみの中に入り込んでみる、その褐色の鮮やかな色彩。あお向けられた身体が曝した、その。皮膚。…色彩。
色付く。
彼女の腹部をやわらかく波打たせつづけた、彼女の静かな呼吸を、見た。たしか、十九歳の私は。聴く。
その、呼吸の音。理沙の、二十一歳くらいの?…その最期の年の。
その時。たしか、理沙が注射を打った後で、まどろんで、その、時々。
ほんの時々だけ瞬きをするまぶたに、私は口付けてやるのだった。もはや、理沙は死んでいるようにさえ見えた。その、うつろな表情は。
窓越しの陽光が差す。斜めに。午後の。
いつかの午後。まだ。彼女がそこから、飛び降りはしない前の、その、何ヶ月か前の。彼女が生きていることは明らかに、その身体のすべてに刻印され、何の主張もないままに明示されていさえしたが、触れた唇に、その体温と、うすく眠そうな涙をにじませたまぶたの、ぬれた触感があった。
髪の毛をなでてやっても何の反応も示そうとはしない彼女は、生き生きとしていて、そして、もう死んで仕舞ったものとしか想えない。どうしても。
私は知っていた。
理沙が何も気付いていないのではなくて、むしろその感性のすべては、私の、この私。彼女が愛しているには違いなく、それにもはや疑いようもなかった私の息吹。
気配。
息遣いの。ふたりの。
私たちの。
ふいに漏らされた声、…に、なる、その前の、ある、生き物の音声。
例えば。…ん、とか。
そんな。
それら。
ふとした挙動の一つ一つ、その群れを完全に感じ取って、理解した気にさえなって、もてあそぶように理沙の内側に享受されて、知っている。
私は、彼女がすべて、なにもかも感じ取っていることをは。
ただ、言葉を発さないだけで。
あえて、何の反応も示そうとはしなかっただけで。
理沙がよく聞いていたイ短調のプレリュード、その、モーリス・ラヴェルのそれをかけてやれば、窓の向こうに見えた陽光に、不意に私のまぶたは瞬く。
春先の大気、その、桜さえ沖縄で咲き始めたばかりに過ぎないその渋谷の高層階の部屋の中は、私の皮膚に鳥肌を立てさせた。理沙の褐色のそれとは似ても似つかない、白い、私の皮膚をは。
近くの、松涛のちいさな公園に桜を見に行ったことがあった。去年の春に。「好き?」
言った理沙に、私は微笑をくれて、…お前は?
理沙は一瞬、顔をしかめるより寧ろ、声を立てて笑いさえして、嫌い、と。「…嫌い」…なんか、ね。「なんか、…やっぱ、嫌い」
なんで?…と。その、言葉には出さなかった、単なる私の気配に、「…てか、ね?」
つぶやく。
「みんな、好きだからじゃん?」…飽きもせずに。
笑う。大袈裟な声を立てて。
抱きしめて遣ればよかったのだろうか?暴力的なまでに。性急に。
唐突に。
奪い去るように。
蹂躙して仕舞ったかのように。
その時に。後ろから、そっと。いまだに肌寒かった、その空気は比較的薄着で出てきて仕舞った彼女の皮膚を、その衣類の下でかさつかせ、鳥肌立てて仕舞っていたのだろうか?
想う。いつから。あるいは、いつまで、私は彼女を愛し続けたのだろう?愛。
愛、という、その言葉で表現されて仕舞うところの、夥しい行為の、時間の、会話の、感覚の、皮膚感覚の、気配の、感情の、それらの無際限なまでの広がりが、とは言え、それが終って仕舞ったときには、それはもはや、いかにしても存在しないのであって、例えば、この、命というもの。
生、それが、自分とはまったき彼岸の差異としてしか死をは認識できないならば、結局は生が死を自らのうちに体験など出来なかったに等しいように、ならば。
永遠
愛の存在がなくなることが愛の終わりであるなら、愛は、それ自体としては終ることなどできなかったことになる。
いだかれて
その限りにおいて、永遠の。単なるそれ自身の、絶望的な限界として永遠であったのでしかありえない、
永遠に
その。
ずっと。
ずっと、ずーっと。
ずっと。…とわ、…に。
いつ?
いつから、私たちは破綻し始めたのだろう?
ずっと前から、出会われる前から進行し続けていた破綻を、生きる。共に。花が舞う。理沙の、嫌いな桜の花が。
野太く、地表から屹立したはかなさのかけらもないその樹木の前に立って、その花々の舞って、散って、堕ちるのを、見るともなく見あげた理沙のかみの毛に付着した桜の花びらの一輪だけを、私は指先につかんで棄てれば、見た。
私は、振り返った理沙が、何も言わずに微笑みをくれるのを。そして、一分と、三十秒程度しか続かない、短すぎるそのラヴェルの前奏曲が終ったときには、空間は静寂を覚醒させる。
部屋の中の、白いクロスのかすかな毛羽立ち。
静寂、と。そう呼ばれるものが、ここにありますよ。…と。つぶやく。空間が。
実際には、さまざまなこまやかな物音、あるいはそれらノイズに低く彩られているに過ぎないにもかかわらず。
首を折り曲げて、理沙の唇に口付けたときに、彼女はかすかにだけ下唇を動かして、そのささやかな動きが、いつか、いっぱいにたまって、あふれそうになっていた涙をこぼれさせた。その時に。いずれにしても、何度繰り返すのだろう。
同じようなキス。
本質的に愛、と、仮定的にそう呼ぶしかなかったそれにたいして。本質的にすべてのものに対して留保なく無効であるに過ぎない、その。
見つめあい、時には罵りあうのだろうか?
抱きしめあって、そして、それら、どうしようもなく破損した、辱められた、唾棄すべき、その、愛、と呼ばれるそれそのものとは明らかな差異を刻むしかない、それらの行為。
事象。
ただ軽蔑すべき、無能で破綻したそれらの集積。
不安がらなくていい、と。私はそう想うのだった。
言葉にだしさえもせずに、…だいじょうぶ。
繰り返す。それだけを。あるいは、そのヴァリエーションを。
不安がらなくていい、と、涙をぬぐってやりながら、私などそこに存在してさえおらず、むしろ私という存在がかつて存在したことなど一度もなかったと、その冷たい認識を、拒絶も何もなくただ素直に曝したような、私を見上げたフエの、その表情の、あるいは沈黙。
剥き出しにされた、フエの褐色の肌が、息づく。
2018.08.8.17.
Seno-Lê Ma
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