小説《堕ちる天使》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ…世界の果ての恋愛小説①
以下はの《堕ちる天使》は、連作《イ短調のプレリュード》の第二編です。
基本的には、話者《私》の、19歳の頃の、ある破滅的な恋愛の話、と言うことになります。
日本生まれの、(人種上は)フィリピン人、日本語しか話せない。そういう女性の物語です。
作品中に、渋谷の道玄坂の居住用マンション、というのがでてきますが、あれ、本当にあって。
まえ、住んでたんですよね。非常に、住みにくくかつ’、愛着のある住居でした(笑)。
気に入っていただければ、ありがたいです。
2018.08.23 Seno-Le Ma
堕ちる天使
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
序
フエが胸の上で悲しげな眼差しを曝すので、私は彼女の頭を撫でてやる。
温度。気温と、その、重なり合った体温と。休日の昼下がりに、ベッドの上に寝転がった私の体の上で、昼寝を始めようとして、そしてときに私の顔の造型を指先にいじって見せながら、吐息。
吐かれたそれの、そして息。吐く。
生物の匂いがする。
かすかな。臭気までには辿り着かない以前の。その。いずれにしても、私たちは生きていた。フエの背中を撫ぜた。
たたずむ。
時間の中に。
無為?
あるいはそれ以前の。
だらしなくて、ふしだらでさえあって、為すすべもなくて、どうしようもなく、どうでもいい、その。
私たちの。
泣いていい?
その時間が、私たちにそれみずからを消費された。
…どうして?
不意に指先で私のそれをいじって見せて、フエは声を立てて笑った。
涙さえ、ながれないから
堕ちていく。
私は想い出す。…唐突に。
堕ちていく。
それはわたしではなくて。フエでもなくて。そして、誰でもなくて、彼女、その彼女以外の誰でもない、彼女の名前は理沙といった。冴木という苗字の、その。
本名は知らない。それが風俗店での源氏名に過ぎなければ。
堕ちていく身体。悲鳴さえ立てずに。
欲しいの?
理沙は言った。その
名前さえ名乗らない前に、なにが
欲しいの?
その瞬間、私はそれを黙認するべきだと想った。そうすればいいのだった。私が、その瞬間に彼女を見棄ててしまったのだとは、たぶん言獲ない。確実に。事実として私は彼女を愛していたのだし、(…その動詞。)願ってさえいた。私は(なんども想い出されながらも、)確実に願っていたのだった、彼女が(そのほとんど口にされることのない)その(動詞。)理沙が(好き、という、その)いつか、そして今(やや軽んじられて濫用されるあの)救われることを。救われて(形容詞とはたぶん、)あることを。…ため。(あるいは)彼女のために。(確実に差異する、その)私の?(動詞。)私のために。
私のためにも。
まばたく。
私は十九歳だった。
東京に出てきて、そして彼女と出会って、いずれにしても理沙のために、ビールを買いに行ってやって、コンビニに、アジアから来た留学生らしい、たぶん年上の、私より年下に見える幼さをいっぱいに残したその彼に金を払って、マンションに帰って行く並木道に繁殖した樹木の向こう。
わたしのなにが?
見あげられた青空があった。光。そして。
初めて会ったときに
瞬き、そして、私は息遣う。未来などすべて閉ざされて仕舞っていた気がした。ずっと、そんな気がしていたし、私はそれに馴れていた。飼ってさえいたのかもしれなかった。
音が聞こえた。
頭の奥のほうで、しゃ、と、じゃ、と、ぢゅ、と、しゅ、それを75%と13%と7%と43%混ぜ合わせたような音とともに、その、ノイズ。若干だけナーヴァスで、本質的に恥じ入るような、ひそめられたナイーヴさをもったその。
ノイズ。
私をしずかに食い散らしていく。その、音は。知っていた。
どうせ、私を食い尽くすことなどできはしないくせに。どうせ、なにも、歯を立てて噛み砕き、飲み込むことさえ出来ないくせに、その、咀嚼能力さえ欠いたささやかでナーヴァスでナイーヴなノイズが、その口いっぱいにに私を食い散らす。
知っている。それが本質的に抱えているくだらない無意味さを。唾棄すべき、と。なんども詰ってやることさえ、そして?
だから?
それで?
…光。
理沙の部屋の
私は、そして、なにより理沙はすくわれなければならなかった。横たわった床から見上げられたその、
当時の《合法ドラッグ》から始まって、…光。
窓越しの
やがてはお決まりの***に。
正午の
…旧日本軍が開発したの。
光。それを
知ってる?
ん?
これ。戦争のとき使ってたらしいよ。
なに?
まばたきながら
日の丸の旗の下で。
どうしたの?
見つめさえして
国産なの。
…ほら
撫ぜたのは
すごくない?
なんだよ?
彼女の頭部、そのかみの毛
「なにが?」
私のからだの上の
私がわらって答えるのを、理沙は聞いていたことがあった。フエと同じように、私の胸の上に顎をたてて。つまらなそうな眼差しを作って、「…なにって…」
言う。
「なにが?」
つぶやくように。
「なにが、すごいの?」…すごいって、…声。なにが?聞く。私は、私の立てた笑い声のその、声の響き。
アルト
理沙がやがてそこからいなくなる、理沙が道玄坂に借りていた部屋の中で。けばけばしい
低い
風俗広告に載せられた****************煽りの文字と煽情し、媚びて微笑み、修正された裸身の。そして、ピンク色のあざらかな氾濫の中で、じみな、人体の肌の色彩を曝すしかない
彼女の、アルトの
フィリピン人の女。
渋谷の風俗の女王様。雑誌を開けば、理沙は微笑んでいる。
いずれにしても道玄坂の街路樹越しに、見上げられたのはその街路樹沿いの高層マンションのいかにも歴史を帯びたたたずまいの、ルーフ・バルコニーから落ちそうなほどに体をのぞかせて、理沙は微笑み、私の姿を遥か下の路面の上に見出した、その。それは理沙だった。
理沙は笑っていた。その微笑みが、留保なく彼女が私を愛していることを、私に教えざるを獲なかった。その瞬間に、まるで世界は私たちが見つめあうためだけに生まれこそしたかのように感じられて、想わず、微笑む。私は。為すすべもなく。
手を振った。理沙は。
好き?
ショートパンツしかはいていない。
百合の花、…
どうせ、と、彼女は言うに違いない。
…とか?
だれも見てないからさ…一番、いいんじゃない?それは、…べつに。このあたりで一番、高い建物だった。その居住用マンションは道玄坂の上にあったし、70年代に変更された建築法のおかげで、地区でもっとも古いそのマンションは、周囲でもっとも高い建造物だった。合法にして、違法の。
…大丈夫だよ。
いつもそう言った。理沙は。…かまわないって。
別に。
彼女の部屋は、…だれにも。道玄坂沿いに唯一棟だけある大規模な、…見られやしないから、高層の居住用マンションの、…さ。最上階一個下の、ただふたつだけある巨大なルーフバルコニー付きの部屋の、そのひとつだった。築は古かったが、希少な建築には違いなかった。理沙は砂埃りをかぶったバルコニーに鉢を並べて花を育てた。
無数の。
見て
紫色の花が、私の好みだった。
好き?
なぜ、紫色の花ばかり選ぶのか、理沙は訝った。「…なんで?」花屋で。
どれが
花屋の店員は、(その、)声を立てずに(女が立てていた香水)笑った。
好き?
理沙の好みは、終に知らないままだった。
見あげられた空の、どうしようもない遠さのその、青の、曝された透明な青い部厚い光の洪水のこちらに、やややわらかな逆光の中で、理沙は私に触れようとしたに違いなかった。
バルコニーの手すりに身を乗り出して。
手を伸ばすことさえなくて。性急に、切迫した何かがそれを強制したわけでさえなくて、ただなんとなく、彼女は。
接近する。あるいは、より正確に言うならば。
接近、しようとする。
そのの手すり(白いペンキが剥げかかって、所どこに腐食のあったそれ)、それを乗り越えて、そのまま空を歩くように踏み出して。やがては。不意に。
微笑む
堕ちる。
こんにちは…ねぇ
なぜ?と、想う時の停滞さえなくて、音もなく。
好き?
音がする。
ナイーヴな、その。
理沙は堕ちた。微笑みながら。私を抱きしめてやろうとしたのだろうか?ふと、想い立って。重度の薬物中毒と、アルコール依存に実質破綻し、崩壊し、解体され、壊滅して、滅びきっていて、壊れ果てていて、再起不能で、いよいよひどくなるしくなくて、そして、つまりはどうしようもない*******************、理沙の。
海、見に行かない?
そのために、ビールを大量に買い込んでやって。
暇なとき
そんな私を。いい子いい子するために。
そのうちの、いつか
路上ですぐさま悲鳴を立てた女は、私の背後で立ちすくんでいた。二人の女。その片方。なぜか前方に急ブレーキが、そして、後れて、私は振り向く。後方でのささやき声が、至近距離に聞こえた気がして。そのときは、すでに路面が理沙の身体をたたきつぶした後だった。
その瞬間は、私の眼差しにだって捉えることが出来た。
すでに、ひとつの鮮明な記憶のように。舞い散ったちれぢれの血か何かの色彩。
カフェ店舗になっていたマンションのグランドフロアの、その前に止められていたスズキの白いバイクに頭からぶつかって、それをなぎ倒し変形させ破壊しながらみずからの柔らかい首をも破壊して仕舞って、変によじれてにもかかわらずふっとびもせずに、空中に一瞬の停滞を刻んだ後に、斜めに叩きつけられてその、撥ねかえらせられたアスファルトが彼女の頭部を叩き壊す。
空中で爆発したかのようにさえ見えた。脳漿?…と、かたい漢字で表現される柔らかそうで赤いそれら。飛び散って舞い、気付いたときにはアルファルトの上に、理沙の死体はうす穢いそのさまを、ふしだらなまでに曝していた。
あの、空間の一番上で微笑んでいた彼女のその身体は、そのとき、立ち囲んでざわめく人々のつま先の狭間に、数十メートルの眼差しの先で、しずかに動きもなく、曝されていたのはその褐色に灼かれた肌に過ぎない。
至近距離に彼女の死体を取り巻いて、人々は見たのだろうか?右足の先から始まって、太ももを這ったあと、腹部に一度とぐろを捲いて左の乳房を横断して、そして終にはその背中の肩越しに振り向いて牙を剥いた、花を体中に巻きつかせた龍のタトゥーを。
けばけばしい、極彩色の、そして、その、肌の褐色に自然にくすんで仕舞った、その。
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