《浜松中納言物語》⑤ 平安時代の夢と転生の物語 原文、および、現代語訳 巻乃一
浜松中納言物語
平安時代の夢と転生の物語
原文、および、現代語訳 ⑤
巻乃一
平安時代の、ある貴にして美しく稀なる人の夢と転生の物語。
三島由紀夫《豊饒の海》の原案。
現代語訳。
《現代語訳》
現代語訳にあたって、一応の行かえ等施してある。読みやすくするためである。原文はもちろん、一切の行かえ等はほぼない。
原文を尊重したが、意訳にならざる得なかったところも多い。《あはれ》という極端に多義的な言葉に関しては、無理な意訳を施さずに、そのまま写してある。
濱松中納言物語
巻之一
五、帝、女を召すこと、人々、楊貴妃を想うこと。
その、親王とおっしゃる方、顔かたちにすぐれ、才気あふれる方であったのだが、この方、かつてこの国と日本の間に、親交をむすばれたことがあった。
ある人が、選りすぐられた御使いとして日本にわたってこられたことがあった。
浪に流され筑紫の国にたどり着いたその御子には女児があって、やがてはその地でなくなってしまうことになるその幼い女児が、なんの力があるわけでもない乳母だけを頼りに、京に上ることさえかなわないで、心細くいらっしゃるというのを、語り聞き耳にお入れなさったときに、親王、言い知れず口惜しく、さらには、その女の、玉のような女児をお生みなされたというのをお聞きになれば、《あはれ》に悲しくお想いなさって、見捨てて顧みないわけにもいくまいと、あらためて、使団を率いて海をお渡りなるために、《させまろ》という者、《かなはじ》という者を率いて、お渡りになるのだが、海の中の龍王はこれを愛でて、安楽の海路、親王、船を止めるのにおいてさえも名残り惜しく、龍王に詫びて海にそのまま停泊して船上に居を構え、女を待つものの、通って来ようともしない。
どうしたものかと思い惑うものの、五年もの時間を筑紫にすごしてなおもこの上無駄に過ごすのも悲しく思いつつあれば、ある日の、海の龍王に多くのことどもを申し乞う夢の中に、《今こそ、わたれ。あれは唐の国の后になる女児なのだから、万事、無事にすむだろう》と、龍王のおっしゃいますのを見て、喜びつつ、その女児、五歳のときに引き連れて唐にもどり、大切に養い始めるが、類もなく美しく成長されて、帝の耳にも入られて、帝のお召しあそばされたにいたっては、帝の御子ら、東宮の母であらせられる一の后の父、一の大臣、これら、おそろしい人柄のものども、心おもしろくは思わない。
かのような類もない女を帝に差し上げれば、かならず世も乱れるに違いないと、はばかり、悔しんで申し上げれば、御帝、むりに行幸されて、女、十四の歳に《やうしう》の人として引き立てられてしまうのだった。
その後、他に人がいないとでも言うように引き立てられて、父の宰相も大臣になり、后も十六で御子をご出産になられれば、やがては御帝の正后にもなろうかと、並ぶものないほどに時めかれるばかりなのを、一の后の父の大臣、大いに怒りの心をなし、嫉み、妬み、この人が思いつくことごとくのさまざまな呪いの呪法をほどこせば、さまざまな問題の出てくること多く、もう二人の后も、十人の女御も、口々に罵って、楊貴妃の昔の話さえ持ち出してくるので、父の大臣、世の中を味気なく想って、大臣の位さえ返されて、唐の国の北の方の《しょくさん》という山寺に、興の深い屋敷を作って、篭られてしまった。
女も、なにを頼りにこのまま宮仕えなどできましょうかと、ともに引きこもられようとするのを、帝、大いに想い悲しまれるものの、この女、数多くの人に呪われたまま内裏のうちに出入りすれば、いつか大きな病になって、死んでしまうに違いないと、こと更に内裏に参上できなくおなりになるので、内裏にいるのも難しかろうと、程近い《かうやうけん》の限りなく趣のふかいところに三つ葉四葉の(三層、四層の)壮大な宮殿を造られて、そこに居を定めさせられて、御子を二、三にちづつお通わせになるのだった。厳しくさかしい物言いをするようだけれども、帝の御振る舞いなども、日本のように融通が利かないこともないので、お忍びされて逢引される折々、行幸されて逢瀬させる折々、重ねられるのだが、その逢瀬もなかなか月並みのもてなされ方でありえるはずもない。
ならば、いうまでもなく人の噂に上らないではおけないので、なんとも望みかないにくい世の中であることかと、厳しく生き辛い世の中を、帝も偲ばれて、ついには病いがちにもなってしまわれるのを、誰もかれもが祈祷に呪術にと、騒がしいほどにもてなされて、うるさく想われていた折に、中納言の御君のいらっしゃって、興深いところに詣でつつ、文つくりお遊びなされるほどに、心もお紛れになられているようなのも、果たして多くの人の祈祷呪術の賜物であったものか。
《原文》
下記原文は戦前の発行らしい《日本文学大系》という書籍によっている。国会図書館のウェブからダウンロードしたものである。
なぜそんな古い書籍から引っ張り出してきたかと言うと、例えば三島が参照にしたのは、当時入手しやすかったはずのこれらの書籍だったはずだから、ということと、単に私が海外在住なので、ウェブで入手するしかなかったから、にすぎない。
濱松中納言物語
巻之一
顔(かほ)容貌(かたち)、身の才(ざえ)すぐれたりければ、この国と日本に言ひ通はさゝ事ありけり。えらびの使にて、日本へ渡りたるなりけり。筑紫に流され給へりける御子の、やがて其処(そこ)にて亡(う)せ給ひたりける御女(むすめ)の、いとかすかなる乳母(めのと)につきて、京へもえのぼらでおはしけるを、語らひ聞え給へりける程に、言ひ知らず、玉ひかる女生まれ給へりけるを、あはれに悲しく。見捨ててかへらむ方なもなく又牽(ゐ)て渡らむには、させまろといひける者、かなはじといひける人を牽(ゐ)て渡りけるに、海の中の龍王(りうわう)のめでて、船を留めけるに侘びて、海の中に畳を敷きておきてける後、女はかよふ例なし。いかにせむと思ひわびて、五年が程筑紫にすごして猶留めむを悲しくおぼしけてば、海の龍王に、多くの事を申しこひける夢に、早く牽(ゐ)てわたれ、これはかの国の后なれば、無事(たひしか)に渡りなむといふ夢を見て、喜びつゝ、五といふ年に牽(ゐ)て渡りて、限りなく思ひかしづくに、生(お)ひたつまゝに、類なく優れめでたきを、帝聞(きこ)し召してければ、御子達、東宮の母にておはする一の后の父、一の大臣、おそろしき人なり。類なき我が女(むすめ)を奉るて必ず乱れあること出で来なむと、はゞかりてをしみ申しければ、俄(にはか)に行幸(みゆき)し給ひて、十四といふ年、やうしうの中に牽(ゐ)て入り給ひにけり。その後、傍に又人ありともおぼしたらず、父の宰相も大臣になし、后も十六にて御子産み給ひにければ、やがて后になして双(なら)びなく時めかし給ふに、一の后の父の大臣、大きに怒りの心をなし、そねみて、この人御思ひのつくべきよしを、さまざまいろいろに呪ひ、いみじき事ども出で来て、今二人の后、十人の女御、かたより給ひつゝ、皆人心をひとつになして、楊貴妃(やうきひ)というふ昔の例もひき出でぬべかりけるを、父の大臣、世の中あぢきなくて、大臣の位かへし申して、北の方にしよくさんといふ山寺に、おもしろき家を造りて籠(こも)り給ひぬ。后も何をかけてにか、おほやけにも仕う奉らむとて、共に入り給ひなむとし給ひけるを、帝大きに思し悲しむに、この后の、数多(あまた)の人にのろはれて、内裏のうちに立ち入り給へば、大きなる病になりて、きえ入り給ふによりて、更にえ参り給はねば、大きなる内裏にこそおはせざらめとて、程近きかうやうけんの、限りなく面白きに、みつばよつばの殿づくりして、居(す)ゑ奉り給ひて、御子をば二三日づゝ通はせ奉り給ふ。厳しくさかしきやうなれど、帝の御ふるまひなど、日本のやうに動きなくはあらざりければ、忍びて思し召し余るをりをり、行幸して逢ひ見給ふやうなれど、それもおぼろげならではあるべくもあらず。いと厳しく所狭(せ)き世を帝も思し召し侘び、御病になりぬべきを、、萬祈り奉(まつ)らるゝけに、あるにもあらずもてなされて、おはしましてけるを、このごろは、中納言とおもしろき所々出でおはしましつゝ、文作り遊ばせたまふに、紛るゝやうなるも、多くの人の御祈りのけなめり。
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