血まみれのオイディプス王たち。…日本古代史と万葉集および人麻呂について 一帖:山背大兄王、ある絶望。②











血まみれのオイディプス王たち。

日本古代史と万葉集および人麻呂について









一帖:山背大兄王、ある絶望。









Oἰδίπoυς τύραννoς









東漢駒には、こんなエピソードがある。この男は、暗殺後、馬子の娘、河上娘(かわかみのいつらめ)を奪って、勝手に自分の妻としてしまうのである。

もちろん、激怒した馬子によって、東漢駒は殺され、河上娘は奪い返される。

そして、この女こそは、上宮聖徳の妻にして山背大兄王の母、刀自古郎女そのひとである、という説がある。









考えられなくもない。河上娘という《名》は東漢駒に奪われて穢された時点で死んだ。故に、その名を清め=殺して、刀自古郎女という《名》が与えられた、のである。もちろん、肉体的には同じ女にすぎない。とはいえ、例えば言霊(ことだま)が町の中を実体として飛び交い、星は運命を表現し、方位にしたがって無数の龍が空を飛んでいた時代である。《名》を変えるとは、ある固有の肉体を、文字通り生まれ変わらせる行為だったかもしれない。すくなくとも、形式上は。


もし、河上娘=刀自古郎女説が正しいのであれば、いかに上宮聖徳が馬子の傀儡摂政だったかと言う事がよくわかる。

上宮聖徳ごとき、馬子にとってはいわくつきの娘を片付ける先でしかなかったのだから。


上宮聖徳は、推定生年574年~推定没年622年、馬子は推定550年~626年没。

いまで言う息子世代であり、当時で言う息子世代と孫世代の中間くらいの世代である。仮に上宮聖徳25歳のとき、馬子はだいたい50歳くらい。そうやって考えれば、馬子にとって上宮聖徳ごとき物の数だったわけがないのだ。

ちなみに推古帝の生年も554年。子どもを扱う母親のような、そんな年齢差が、この女帝との間にさえある。

逆に言えば、考えれば当たり前の事実を隠蔽し、推古帝とその摂政の留保無き傀儡性を隠すためにこそ、上宮聖徳の神格化は行われた、とも考えられる。

ひょっとしたら、上宮聖徳はただの凡庸なでくの坊だったかもしれないのである。


そもそも自分が直接支配している推古帝にさらに摂政をつけてそして彼らを支配する、というのは、権力の二重化どころか三重化によって、馬子の権力を絶対化することなのであって、上宮聖徳に実権などあったとは想えない。仮に彼が実権を持とうとしたならば、迷うことなく馬子は暗殺したに違いない。


622年 聖徳太子、死去(推定)

そして、その21年後、上宮王家滅亡のときが来る。


643年、蘇我入鹿主謀の斑鳩宮襲撃、山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族の自決によって、聖徳太子の血統(上宮王家)は滅亡する。

本当に根絶やしになったのかどうかについては諸説ある。いずれにしても、山背大兄王は死んだし、粛清された上宮王家は、《お家》としては再起不能になった。

理由は、もちろん、権力闘争である。

蘇我入鹿が推したのはは古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)。当時の天皇は皇極天皇(女帝)、皇極帝は、もちろん蘇我氏の傀儡天皇、そして女帝である。


この時期、まさに蘇我氏は全盛である。


山背大兄王について整理しておこう。山背大兄王は聖徳太子と、その妻、刀自古郎女(とじこのいつらめ)の子どもである。つまり、崇峻天皇の暗殺者、東漢駒の血をさえ、実は、引いていたかもしれない。

その可能性を、否定できない王である。

まず、太子の死後、そしてその6年後の推古帝没後に皇位継承問題が発生する。

もはや、物部氏との抗争のような、他族との抗争ではない。同族闘争、兄弟間闘争である。

田村皇子(舒明天皇)一派と、山背大兄王一派による政争。

それは、田村皇子一派(=蘇我蝦夷)と、山背大兄王一派(=蘇我倉麻呂;そがのくらまろ、境部摩理勢;さかいべのまりせ)の間で闘われる。

そして、蝦夷と倉麻呂は兄弟であり、境部摩理勢は馬子の弟である。

もっとも、倉麻呂は最終的に意見を保留する。


注意すべきは、田村皇子は蘇我系の血筋ではない。あくまで蝦夷が担ぎ出しただけである。山背大兄王は上宮聖徳直系、そして境部摩理勢とはその父の代からの深いつながりがある。

本来的に言うならば、蘇我氏が押すべきは山背大兄王だったはずである。


蝦夷が、にもかかわらず田村皇子と言う対抗馬を立てたことに理由を考えようとすれば、一つは蝦夷による蘇我氏一族の完全掌握のために、同族間における自分への対抗勢力を失墜させようとしたのか、あるいは、山背大兄王自身に、天皇たるにはふさわしくない、何らかの翳りがあることを、蝦夷が知っていたからなのか。例えば、その出生において、などである。

蝦夷による非=蘇我系天皇の擁立に、他豪族への配慮があったとは想えない。単純に、天皇さえ殺せる一族であり、女帝さえ気が向けば作ってしまえる一族なのである。

抗争は田村皇子一派(=蘇我蝦夷)の勝利に終わり、舒明天皇の即位、となる。もちろん、蝦夷による傀儡天皇である。突き詰めて言えば、天皇など誰でもいいのだ。蝦夷にとっては、ただ、山背大兄王でなければ、誰でもいい。

そして舒明帝の没後、その皇后が皇極天皇として即位する。


ところが、宮廷内の人気は山背大兄王に偏っていく。

皇極の後帝としては舒明帝の息子、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)が、蝦夷の予定だったが、人気の点で大きく山背大兄王に水をあけられている。

ちなみに、この古人大兄皇子の母親も馬子の娘である。

そして、それをもてあました蝦夷によって、山背大兄王は討たれることになる。


643年、12月20日、入鹿にさし向けられた兵による斑鳩宮襲撃。しかし、これによって直接命を落としたわけではない。一度は生駒山に立てこもる。

三輪文屋君は山背大兄王にけしかける。


「東国に一時、逃れましょう。そこで再起し、入鹿を討てばいいのです。」


山背大兄王は、しかし、うけがわない。


「私が挙兵すれば入鹿を敗ることなどた易いよ。しかし、私の身一つのために、農民たちを苦しめたくはない。それならば、この身など、入鹿にくれてやろうよ。」


そして、山背大兄王一族は山を降り、斑鳩宮隣の斑鳩寺で、一族全員首を括った。それは、12月30日のことだった。


上宮王家は滅亡し、斑鳩寺跡地に今立つのは、言うまでもなく、あの法隆寺である。


いかにも、人徳者による自己犠牲が花を添える悲劇なのだが、僕は怪しいと想う。

もはや山背大兄王側につくものは殆どいなかった。

その人望によって命を狙われ、やがては人望を向けた無数の人間たちそのものに棄てられてしまった、というのが事実だったのではないか。

さまざまな可能性を探ったが、すべて、道は閉ざされていた。

故に、もはや、死ぬしかなかった。


というのも、斑鳩襲撃が20日、下山・自決が30日である。その間10日間。再起が可能であるにもかかわらず、あえて農民たち(…ごとき)のために自己を犠牲にする聖人なら、なぜ、襲撃のその時すぐ、あるいは少なくとも翌日にでも、すぐに、身を差し出さなかったのか。

10日間の間、山背大兄王一行を捜し求めた入鹿側によって、一体どれだけの農民たちが迷惑をこうむったことだろう?

にもかかわらずの10日間の逡巡・逃亡は一体何の意味があったのか。

そこを、正当化することが出来ないのである。

入鹿を討つということは蝦夷を討つ事を意味し、要するに当時の蘇我氏主流派を粛清するということである。単なる王位奪回ではない。文字通り権力をひっくり返す革命を起こす、と言うことなのである。

規模としては、とてもではないが、農民など、農民ごとき、と言うレベルの瑣末に過ぎなくなる規模の話である。にもかかわらず、そんなものよりも目の前の小さな命に目を向けよ、といういかにも悟りきった聖人に、10日間の逡巡など必要ないはずなのだ。


そしてその二年後。

645年、蘇我入鹿暗殺。暗殺翌日、蝦夷自害。このクーデター、あるいは蘇我氏粛清の首謀者は、中大兄皇子(天智天皇)、そしてここで唐突に歴史に現れる男、中臣鎌足。

いわゆる乙巳の変~大化の改新である。

因果応報、といって終るものではない。

このクーデターにも、さまざまな血なまぐさい陰謀と宿命が渦巻いている。稿を改める。




* *



ところで、冒頭の万葉集の歌には、その歌が原案にしたのではないかとされる、ある原歌らしいものが存在する。

日本書紀に記された、上宮聖徳作とされる歌である。

では、もう一つの晩歌とは、どんな歌か。


その歌にはこんな《いわく》がある。いわゆる聖徳太子神話の一つ、上宮聖徳が片岡を訪れたときの、《異人乞食》にまつわる挿話だ。


聖徳太子が片岡に旅し、片岡山に登ろうとした。道端に、飢えていまにも死にそうな行き倒れ人を見つける。どうも外国人のようだ。すくなくとも、大和の人間らしくは、ない。彼を《あはれ》み、そして歌った歌が、





しな照る 片岡山に 飯(い)に飢えて

臥せるその旅人(たびと)やあはれ

親なしに 汝(なれ)生(な)りけめや

刺す竹の君はや無き飯(い)に

飢えて臥せる その旅人あはれ





片岡山に飢えて倒れたその旅人よ、《あはれ》なり!

親もなしに、お前も生まれたわけじゃないだろう?

傷ついた君はもはや食うものもなく飢えて臥せる、この旅人こそ《あはれ》なり!


非常に分かりやすい歌。すぐに意味はとれる。

ところで、上宮聖徳、この行き倒れの《異人乞食》に、食べ物と衣類を与えている。しかし、次の日、この《乞食》は死んでしまっていた。ところが、屍は消え、服だけが残っっていた、という。人々は、あの《異人乞食》は達磨上人の生まれ変わりだったに違いないと噂しあった。

達磨上人云々はどうでもいい。まず、この歌、重要なのは、ここではまだ、《旅人》は生きている、と言うことだ。


飢えて倒れ、臥してはいるが、まだ、死んではいない。


一般的に、万葉の《あはれ》歌は、この聖徳太子伝説の《あはれ》歌に基づく創作である、とされるのだが、単純に、万葉歌が伝説歌を作り変えた偽作である、というなら、それは違うと想う。

生きているものをいちいち死人に変える必然性は、かならずしも、ない。

くりかえすが、万葉《あはれ》歌は、死人のための歌である。

そして日本書紀《あはれ》歌は、生きている《乞食》のための歌なのである。


つまり、もしもこの二つの歌の《由来》が事実だったとしたら、(あるいは、少なくとも目の前に現実に存在する二つの歌が描いている物語は、)時系列でまとめると、こうなる。

1.上宮聖徳一行、片岡山に向かう。

2.道端に倒れた人を発見する。上宮聖徳、《あはれ》んで伝説《あはれ》歌を詠む。

行き倒れの人が今にも死にそうだ。何て《あはれ》な!

親さえいなかったわけじゃないだろうに、何て《あはれ》な!

3.片岡山あるいは龍田山に聖徳太子が登る。

4.その帰り、行くとき見かけた行き倒れ人を、今度は死体で発見する。

 上宮聖徳、万葉《あはれ》歌を詠む。

 家にいたら、妻が君を腕枕したろうに、この死人こそ何て《あはれ》な!

行きに出会って、食べ物も着る物も与えてやった行き倒れの人が、帰りの道中でふたたび見かけると、死んでしまっていた、ということになる。


つまり、上宮聖徳、行きと帰りに二回見た、ということなのではないか?


こじつけではない。普通に読んだら、そうなるのではないか。万葉《あはれ》と伝説《あはれ》の由来が同じである、と言うならば。二つにつじつまを合わせるならば。

そうして考えれば気になることが一つ出てくる。

伝説《あはれ》の行き倒れ人は何歳くらいか?

万葉《あはれ》の死人は何歳くらいか?


万葉《あはれ》の方は、家にいれば奥さんが添い寝してくれただろうにと言うのだから、つまり、その人を見たら、女といえば奥さんの顔が浮かぶくらいの年齢、要するに大人だ。子どもがいてもおかしくないくらいの。

伝説《あはれ》はどうか?

お前だって、親も無く生まれたわけじゃないだろう、と嘆くのだから、…子どもだったのではいか?

ひげを生やしたいっぱしの男に、親も無く生まれたわけじゃ…とは続かない。家にいる女と言えば、妻だろう。

いたいけない少年だか少女だかに、家にいれば奥さんが、…はない。家にいる女と言えば。もちろん母親である。

行くとき見たのは、子ども。しかも、親と行きはぐれたか、棄てられたか、早世されたか、いずれにせよ、孤児だ。虫の息だが、まだ、かろうじて生きていた。

だから、食い物と衣服を恵んでやった。

生きろ、死ぬな!…と。

帰るとき見たのは、大人の男。もう、死んでいた。

伝説を援用すれば、そのあと、その男の死体は、衣服だけを残して消えてしまう、ことになる。


この歌は、結局何を意味しているのか?

歌人は、彼が見たある風景を、その乞食=死者に託しているのではないか。

どんな?つまり血で血を洗う抗争に明け暮れたある国の血みどろの風景を、である。









この乞食=死者とはまさに、歌人によって擬人化された当時の朝廷そのものに他ならない。

最初は、まだしも虫の息くらいはあった。

救われる可能性くらい、すこしくらいはあったに違いないのである。だが、いまや完全に、倫理も何もかも崩壊し、誰がいま、どのように繁栄していようがいまいが、実際に拡がっているのは荒れ果てた焦土に過ぎない。

躍動するのはただ、人間のかたちをした餓鬼畜生だけだ、と。

法も倫理もなにもかも、もはや崩壊してしまったと。

救おうとしても救いえず、結局は救うために与えられたはずの衣服(=例えば仏教)の残骸だけを残して、あとは消え去る=滅びさることが出来るだけ、なのだ。

もはや何者によっても救いようのない滅びが姿を曝していることを悲しみ、ただ、《あはれ!》とだけ絶句した。


そんな風景が、少なくとも僕には見えてくる。


こんな荒れ果てた風景を、上宮聖徳その人はまだ、見ていない。蘇我全盛期を築いて死んでいった馬子ともに生き、36年にも及ぶ長期政権を築いた女帝とともに生き、その栄華の只中に死んでいったのである。

翳りがあるとすれば、妻の河上娘=刀自古郎女の過去、そして、疑いが残る山背大兄王の出生についてだけに過ぎない。

もっとも、所詮は政略結婚である。

それとても、馬子に与えられた利権を保障するものとしての根拠に過ぎないのであって、別に大した問題ではない。少なくとも、父にとっては。


では、子にとってはどうか?


王殺しの首謀者の家系に生まれ、王殺しの暗殺者の血を引くかも知れず、母さえもがその首謀者たちの直系にして、実父はその暗殺者そのものかもしれないのである。

…だいたい、河上娘=刀自古郎女の、東漢駒に対する本当の感情はどうだったのだろう?

まちがってもそこらへんに転がっているひと束いくらの女とはわけが違う。

時の最高権力者、血によって権力を獲得したばかりの男の娘なのである。

娘のほうに何らかの同意なくして、そこまでうまく奪えるものなのか?

その、呪われた子は、一度は担ぎ出された権力闘争に敗れている。彼は、敗北を知っているのである。

そして、いまや同族間での抗争の火種が、そこら中にくすぶっている。しかも、同族間闘争と言うことは、もはやいつ誰が誰に寝返り、誰が誰を陥れるか、もはや誰にもわかりはしないのである。


もはや、倫理は完全に滅びた、のだ。

父の時代には、少なくともその青年時代には、まだしも倫理はあったのである。虫の息ではあっても。

それは、仏教の教えなどではない。

繰返すが、彼らにとって、仏教など支配のための手段であって、その教義などどうでもいいのである。でなければ、どうして馬子が殺戮を重ね獲るというのか?

99人の兄弟を殺したというアショカ王でさえ、仏教の教えに帰依してからは不殺を貫いたというのに?

倫理とは唯一つ。単に、物部を殺せ、滅ぼせ、駆逐せよ、という倫理だ。

物部がいる限り、同族の誰も彼もが敵たりえる文字通り無明の闇、ではなかった、のである。

たとえ、それがいかに血に塗れた愚劣な倫理であったにしても、だ。

…すべては、今、滅びた。

そんな絶望を、その、呪われた子は見たのではないか。その、山背大兄王という名の、権力の中枢に生まれてしまった、呪われた子は。


まだ生きている《あはれ》歌は、例えば、舒明天皇との後継争いの後に詠んだとしよう。そして、その後、すべては砂塵に帰した斑鳩寺自決のときに、改めて詠み直した、最期の、いわば辞世の句が、あの万葉集の《あはれ》歌だったとしたら?…

その絶望のうちに吐き棄てられる《あはれ!》という声にならない叫びの凄惨さに、後に人はそれを、むしろその父、上宮聖徳の作として偽ったのではないか。


あるいは、偽らせられた、のか。


すくなくとも、この二つの歌には、救いようのない廃墟、…すべての滅びた凄惨な廃墟の風景だけが、ただ、広がっているように想うのである。




Seno-Le Ma






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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