ベートーヴェンの《エロイカ》交響曲は、果たして名曲なのか?









ベートーヴェンの《エロイカ》交響曲は、果たして名曲なのか?


ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)、

グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)、

そして《自然》の美しさ。









Ludwig van Beethoven

(1770-1827)









交響曲第3番変ホ長調…別名《エロイカ》。

直訳すれば英雄的交響曲。はたして、あれは名曲なのか?









Ludwig van Beethoven

Symphony no. 3 in E-flat major, op 55.(1804)



1. Allegro con brio

2. Marcia funebre. Adagio assai

3. Scherzo. Allegro vivace – Trio

4. Finale. Allegro molto





《エロイカ》全曲を通して聴いて、心底感動したという人は意外に少ないのではないか。

例えば、第一楽章は山あり谷ありの長編小説で、誰の演奏でもそれなりに興奮してしまう。いい音楽聴いたなという充実感が強い。第二楽章も、そもそもの音楽の好き嫌いはあったとして、ドラマティックだし、例えば真ん中へんの弦によるフーガのところなど、やっぱり感動してしまう。

第三楽章はリズミカルで楽しいし、次に来る最終楽章へのプロローグというか、大交響曲たる《エロイカ》における、へヴィーな前半二楽章を受けたインテルメッツオとしてすばらしいものだ。


…が。


全曲通して聴いたとき、結局は若干の不満と消化不良を感じてしまうのは、すべて、第四楽章のせいである。

これは、実はドボルザークの交響曲第9番《新世界から》にもいえるのだが、単純に、すばらしい前三楽章を受けた最終楽章としては、はっきりいって役者不足である。


《新世界より》はともかく、《エロイカ》の理由は単純。

変奏曲だからだ。


変奏曲と言うのは基本的には、演奏家の(ないし、作曲家の)自由なインスピレーションをひけらかすためのパーティ・テューンであって、そもそもクソ真面目に聞いてあげるべきものではない。

もっとも、そうじゃない変奏曲と言うのもあって、例えばJ.S.バッハの《音楽の捧げもの》、《フーガの技法》、《ゴルトベルク変奏曲》の三大変奏曲と言うのは、いまに聞いても新鮮な前衛音楽だといえないこともないが、あれは、そもそも作曲家自身が、ちょっと風変わりで変態的な作曲家だから仕方ない、といった感じのものである。

変態が、思いっきり変態趣味をひけらかしたのがあれらの曲群なのだから、留保無き変態テイストが人をときに意味不明な哲学的妄想に誘ってしまう。

哲学的な瞑想に淫したい向きには最高である。私もそのくちだし、《羊たちの沈黙》でもなんでも、そんな風に使われる。

そういうあくまでも特殊例は除けば、ベートーヴェンの《ディアべッリ変奏曲》op.120にしたところで、基本的にはやっぱりこれ見よがしなショーピースである。弾く方は大変だろうが、聴いている方は、難しいこと抜きにして単純に楽しい。


ところが、《エロイカ》第四楽章はそうでもない。途中まではかっこよかったり文句なく楽しかったりするが、後半、完全に盛り上がり不足になっていきなり序奏部が回帰して終ってしまう。


例えば、かの大ドイツ音楽芸術の帝王たるウィルヘルム・フルトヴェングラー氏による葬送行進曲や第一楽章を聴いて魂が奥底から震えた、と言う人は、結構いるには違いないが、第四楽章で感動した、と言う人は、基本、いないのではないか。

なんか、尻すぼみというか、曲が終った気がしない。


変奏曲なんだから仕方がない。


変奏曲と言うのは、最初にテーマを演奏して、それを何度も手を変え品を変えていじくり倒して、結局はしら~っと、何もなかったようにテーマをそのまんま演奏しなおしていきなり終らせてしまうから、ショーピースとしては無上の粋なかっこよさがあるのだ。

例えば、《ゴルトベルク変奏曲》からしてそうである。最後にテーマが何事もなかったように回帰した瞬間に、それまでの一切を否定された粋なカタルシスがある。


逆に言えば、《エロイカ》のような大交響曲の最終楽章にはふさわしくない。

例えば、マーラーの交響曲第2番《復活》が、第9番が、あるいはブルックナーの交響曲第8番や第9番が、第一楽章の2/3程度の長さの変奏曲でしれ~っと終ってしまったら?

満足できるわけがない。金返せ、いや、時間を返せ、と想い始める。

《エロイカ》は、もろにそれをやっている。

古典派交響曲のメインはあくまで第一楽章であって、後半の2楽章なんかつけたしに過ぎない、で、そのかたちをそのまま援用したから、こんなことになったんだ、と、よく説明されるのだが、そんな事はないよ、と、素直に想う。


実際、例えば、《モーツァルトの悲しみは疾走する、涙は追いつけない》と、小林秀雄をして言わしめたのは、交響曲第40番の第四楽章である。うろおぼえだが、一人で町を孤独にさ迷い歩いていて、突然耳に、まるで目の前でオーケストラが実際に演奏したかのようなリアリティでその音楽が想起され、鳴り響き、小林はそう独り語散るのである。

小林の魂に触れたのは、あくまで第四楽章だ。

個人的には、ト短調交響曲といえば、あの第三楽章のどうしようもない迫り来る孤独のメヌエットが好きだ。


その他、実際にクオリティが高いのは第一楽章なのには違いなくても、がつーんと魂に一発食らわしてくれるのは第三、第四楽章だ、ということの方が多い。

ハイドンでも、第三のメヌエットの、不意に転調した中間部に、心の一番柔らかい部分を噛み付かれ、第四楽章の、ソナタ形式だの何だの小難しいことは知ったことかと開き直った、もはや留保無き音楽の疾走に、魂のグルーブを鼓舞される、というのが、普通のパターンである。

何曲も聴いていると、クオリティが高いだけの第一楽章より、第三、四楽章にこそ噛み付かれた、と言うことのほうが多い。

実際の、古典派流儀とはそう言うものである。

実際、単なる埋草に過ぎないというのなら、主部たる第一楽章の終った後に、その2倍強くらいのヴォリュームなんか、そもそもいらないはずなのだ。

第一楽章でまぁ、ちょっと小難しく責めておいて、第二楽章で泣かせ、第三楽章で噛み付き、第四楽章でグルーブの炎で焼き尽くす、という古典派交響曲の四楽章構成と言うのは、実際、よく考えられている。

すくなくとも私が、有名交響曲というものを全曲聴きとおしてどうしても満足できなかったのは、この《エロイカ》と《新世界より》だけだった。

もっとも、個人的にはあまり好きなジャンルではないのだが。


変奏曲とは言え、ブラームスの交響曲第四番は、結局はおなか一杯にさせてくれる。

《新世界より》が、名前だけ有名な割にクラシックマニアに省みられないのは、やっぱり、あの第四楽章のせいだと思う。実際、前半三楽章はとてもすばらしい。

が、第四楽章は、序奏とテーマだけは有名で、あとはなんか焦燥に駆られたやみくもなスピードで一方的にまくし立てられるだけで、結局ドラマも何もなくいきなりテーマが回帰して終わり。

ストコフスキーが、《アメリカの血に染まったように真っ赤な夕焼けの光なのだ》といったところの、あれである。


いずれにせよ、物足りないには違いない。テーマのわかりやすいかっこよさとあいまって、これがお子様向けのポップ交響曲扱いされる最大の理由だと想うが、ともかく、この物足りなさはドヴォルザークの意図的なものだという気がする。

つまりは、これは本質的に未完の交響曲なのである。


作曲当時のドヴォルザークは、チェコにクラシック音楽の理論と形式を根付かせ、そのチェコ風の美しい旋律によって国民的芸術家になりおおせた《国民楽派》の巨匠にして、新興国アメリカはニューヨークの外国人、なのである。

そして、《国民楽派》の枠を超えて、黒人音楽の収集にも走っている。有名な第二楽章の《家路》のテーマも、黒人霊歌に由来する。

このときのドボルザークは、チョコに対しては、非=チェコ的なノイズに曝されきった、そして、新大陸アメリカにとっては、文字通り海の向うのなんだかよくわからない国から外国人であって、二重の意味で《異邦人》だったはずなのだ。

たんなる望郷の想い、とはいえまい。単なる望郷なら、ラフマニノフのように、いかにも白樺のロシアのロシア風情緒に淫すればよい。

《新世界より》は、永遠に、チェコとアメリカの間で、一種の《異邦人》としてさまよい続けることの決意表明のようなものだったのではないか。

故に、最期の大交響曲は、いわば未完の尻すぼみな夕暮れの光に目をくらまされて、唐突に終ってしまうより他にない。


…と、いうのは、ベトナムに移住してから、ふと想ったことなのですが、でも、外国で生きるというのは、そう言うものだ、と想う。ある種の《亡命》というか。無自覚的で自然な《日本人》《チェコ人》であることをやめてしまうこと、つまり、《チェコ》と《アメリカ》、《日本》と《ベトナム》の間で、終りようのない彷徨を続けること、それを選んだその決意表明、というか。

なんとなく、ドヴォルザークの見た風景と言うのが、最近になってよくわかるようになった気がする。


…もっとも、そんな個人的な述懐はどうでもいい。


ところで、《エロイカ》。

なにも、最終楽章が変奏曲だから駄目だといっているのではない。

例えば、交響曲第9番最終楽章だって、変奏曲である。

《エロイカ》の消化不良は、その変奏の内実による。

実際、途中までは文句なく楽しいのだ。しかし、最後の変奏、序奏部が回帰する、つまりはコーダに突入する直前の部分が、はっきり言って、いただけない。

この最終変奏は、明るいわけでも暗いわけでもなく、つまり、どっちつかずの状態で、ゆっくりと、何かのパワーが爆発寸前にまで蓄えられて、…あるいは、何か《途方もないもの》にゆっくりと接近し続けて、そして、いままさに爆発するかと…今まさにその《途方もないもの》に指先が触れようかとした瞬間に、いきなり音楽は失堕し、もごもごした弦のしょうもない独り語がつぶやかれて、なにが起こったんだよと想っていうるうちに、何事もなかったように根明な序奏部が回帰する。

で、おわり。

はっきり言って、古典派交響曲の様式がどうたらこうたら以前に、1時間近く聞かされた大交響曲の最後の最後にこんなことされて、納得できるやつのほうがおかしいのである。ごくごく単純に言って。

ならば、これはベートーヴェンの作曲ミスなのか、あるいは、逆に、そうでなければならない必然のもとに、意図的にそうされたのか。


実は、ベートーヴェンが同じような《尻すぼみ》に陥っているのは、なにもこの曲だけではない。

交響曲でいうと、《エロイカ》ほどではないが、《運命》もそもそもがそうである。まさか、といわれるかも知れないが、その失墜がよりエレガントかつ上質に描かれているから、そこまでいびつに感じないだけだ。

あるいは、単純に聴きなれてしまったから。


つまり、《運命》最終楽章展開部(中間部)。ここでも、《運命動機》由来の音型がすさまじ上昇線を築いてゆく。

明るいとか暗いとか、勝利とか敗北とか、なんかそういう問題ではなくて、とてつもない《力そのもの》とでも言うほかない何かが爆発寸前にまで膨れ上がる。どうなっちゃうの?と想っていたら、いきなり音楽は失墜し、なんと!第三楽章の終結部、つまりは第四楽章の序奏部が回帰して、何事もなかったように前半をまるごと反覆して終る。


むかし、1970年代に出版された音楽本には、この展開、勝利に潜んだ破滅をひそかに描きこんだのではないか、とか、そんな風に書いてある原稿があったのを、午後の図書館の隅で読んだことがある。


いずれにしても、よく聴かれすぎた曲のために、そのいびつさが聞き逃されてしまうが、普通に考えると変な展開なのである。

展開部へいたる展開がいたって自然であるために、《力そのもの》の生成は別に違和感はない。…ないながら、それが展開していくうちに、「あれ?どうなっちゃうの?」と想い始めるだけである。

結局失墜してしまって、最初から丸ごとやり直されたのでは、やっぱり変な方向に行っちゃったから、何もなかったことにして、最初からやり直しちゃいました(笑)と言われたのと一緒じゃないか。


勝利の凱歌である。他に、展開などいくらでもあったはずじゃないか。いかんともなれば、勝利の凱歌のフーガでも始めてしまえばよかったのである。あの、ベートーヴェン特有の、ハイドン譲りのエモーショナルなフーガを。


《ミサ・ソレムニス》も尻すぼみだが、あれは教会ミサそのものがその後に始まるからで、儀式の《序曲》たるミサ曲にふさわしく、その典型をなぞったに過ぎない。ミサ曲とはそう言うものだ。


が、この二曲の最終楽章の失墜というのは、それとは明らかに違うものだ。

ベートーヴェンが、かならずしも苦悩から歓喜へというモットーを表現したとは言えないのではないかというのは、前、書いた。そして、ベートーヴェンに特有な様式として、私はこの不意の失墜というのがあるように想う。

つまり、ベートーヴェンは、何ものにも触れえず、どこにも到達できない。

例えば、神だとか、世界だとか、存在だとかなんだとか、そんな《超越的なもの》に、である。


例えばブルックナー。交響曲第8番やら9番やらを持ち出すまでもなく、最初っから最後まで《超越的なもの》にべたべたびたびた淫した音楽である。…言い方は悪いが(笑)。

人智を超えた神なる大宇宙が、今、鳴り響いている。…!

…と、言ってまるごと受け入れてあげるか、それともアホかと笑ってしまうか、二つに一つしかない。申し訳ないが、ブルックナーに関して、私は後者だ(笑)。

マーラーも、ここぞと言うときには、しっかり《超越的なもの》の気配を匂わせる。

例えば、交響曲第6番第一楽章展開部など。熾烈な行進曲が上昇線を描いたさなかに、突然失速し、《失心》したようにカウベルが鳴り響くあれ。

あるいは、交響曲第9番、第一楽章、再現部、破滅の主題をこれ以上ない力を持って鳴り響かせるあたり、あるいは、未完の第10番、両端楽章、孤独なトランペットのロング・トーンに、全合奏の破壊的な和音が襲い掛かる瞬間に。


が、ベートーヴェンに、《超越者》に触れる瞬間はない。


この世界そのものの限界のその果てに失墜する瞬間も、ない。


結局は、《(言語がその能力的限界において、)語りえぬものについては、当たり前だが沈黙でもするしかないんだよ》といった、ヴィトゲンシュタインばりに、《超越者》に触れそうに鳴った瞬間に、さっさと撤退して、なかったことにしてしまう。梯子を外して、宙吊りにして、さっさと撤退してしまうのである。

ちなみに、《エロイカ》第四楽章の主題は、《プロメテウスの創造物》という、自作のバレエ音楽からとられている。

プロメテウスと言うのは、人間に《火》を使うという知性を与えてしまったが故に、人間に《破壊する》という知性の負の側面までをももたらしてしまい、地上を血に染めるそもそもの原因と、地上に知性と繁栄をもたらす両義的な原動力を与えた、というあの、プロメテウスである。

例えば、よく、原子力は《プロメテウスの火》だ、といわれる。繁栄と破壊、知性と殺戮、その両義的な存在、と言う意味で。

そして、プロメテウスはそのせいで、ゼウスに罰されて、永遠の命を与えられたうえで、永遠に磔にされて鷲に目玉を喰いとられ続ける、という刑罰を受けることになる。

…永遠の生存と永遠の刑罰。

いかにもギリシャ神話らしい、良くも悪くも心の柔らかい部分に咬み付いてくれる話なのだが、ベートーヴェンがつけたのは、そのプロメテウス神話に対して、ではない。

《…の創造物》つまり、人間たち、について、なのである。


プロメテウス神話を序章とする、その《創造物=人間》たちの物語。そこからテーマが取られた《エロイカ》最終楽章は、つまりは、その《人間たち》の変為流転、そして《超越者》への接近からの、《語りえぬもの》に対する必然的な沈黙、が描かれているのだ、といえるのではないか?

そう考えれば、もっとも辛辣な《ベートーヴェン哲学》が、この曲の第四楽章においてこそ、語られている、ということになる。あるいは、《運命》最終楽章でもう一度、わかりやすく語りなおされるそれが、もっと辛口に語られているということになる。


…どうだろう?


ところで、いきなり話は脱線するのだが、今、ベトナムに住んでいる。大雨だの地震だの何だのと言うのは、日本のベトナムでもニュースになる。単純に、映像としても、(被災者の方には失礼な言い方なのだが)見栄えがするし、基本的に日本以外では、ああまで自然災害が多くないので、ものめずらしいからだ。

けれど、日本人として、実は、自然災害って、なんかもう、生きていれば当たり前、という感性になる。

今回の西日本の大雨は、実家の方を直撃したので、いろいろな話を聴いたけれども、正直な話が、…仕方ないよねって。

でも、偽らざる心境だと想うんですよね。

いつか、日本に住んでいれば、自然災害にやられるときがくる。対岸の火なんてものは、日本には存在しない。毎年どこかがやられてるんだから。

よく、外国人に、日本人ってなんで宗教がないんだ?と言われる。オーストラリア人と話していて、そんな話になって、私の知り合いの日本人が言った言葉が、とてつもなく日本的だったので引用しておく。

「いいえ、違います。日本人も宗教があります。例えば私は仏教徒です。しかし、イスラム教のことも尊敬しています。また、キリスト教にも多くの日本人が興味を持っています。私も、聖書に大きな影響を受けました。キリストは私のロール・モデルです。」

オーストラリア人は、変な顔をした。私は、やっぱ、日本人って、宗教を持てない人たちなんだな、と改めて実感した。


宗教とはなにか?神の言うことに従うことである。故に、キリスト教徒にとっては、キリスト教の神さまの言うことが唯一絶対であって、基本的にはイスラム教も仏教も邪教である。

それらを文化として容認する、というのは、邪教だが、そういう後進国が(啓蒙されていない未開人が)存在していることは、人間として、あえて容認してあげる、ということだ。

基本的には、原理的には、…ね。

だから、仏教徒で、キリスト教に影響受けて、さらにイスラム教も尊敬するなんて事は、宗教的態度としては絶対にありえない。

キリスト教徒はキリスト教徒だし、イスラム教徒はイスラム教徒である。

なんで、こんなにも日本人に宗教的感性が欠けているのかと言うと、単純に、神様なんか、日本の世界一厳しい自然の中では生き残れないからだ、と想う。


日本人にとっては、ソドムとゴモラの話など、子どもだって信用しない。だったら、西日本の被災者はみんな悪人だったのか。東北人はみんな悪人だったのか。

日本では、あの、ちいさくて美しい自然が、毎年すくなくとも一回以上はどこかで荒れ狂って、すさまじい暴力そのものと化し、いい人も悪い人も無差別に犠牲にしてしまうので…たとえばギリシャ風の実存哲学は根付いても、宗教など根付きようがない。


そして、オカルト。

結局は、でも俺だけはなんとかなる、と、確信もなく信じていなければ、生きていけない。実際、今、この瞬間に生き残っている日本人と言うのは、災害で死ななくてすんだ人たちしかいない、のである。論理的な必然としては。

災害まみれだからこそ、なんとかなると考えていなければ、はっきり言って生きていけない。故に、なんらかのオカルトは常に蔓延している。

無宗教で、宗教のなんたるかの基本感性さえ持っていないにも拘らず、宗教詐欺は後を絶たない。

日本ではいまだにベートーヴェンが、何のかんの言って人気がある。それは、彼の苦悩から歓喜という物語が、ちょっと、いびつな構造になっていることに、うすうす感性のどこかで気付いているからではないか。そして、その感性が、日本人のそもそもの実存哲学に親しみやすいからなのではないか。

マーラーが人気なのも、何のかんの言って、災害が起こるたびに納得してしまう。日本人には、ブルックナーじゃない。交響曲第9番のマーラーの方が、理解しやすく、親しみやすい。





Gustav Mahler

Symphony No.9 in D Major

4. Adagio.Sehr langsam und noch zuruckhaltend.






私だって日本に関して、懐かしいなと想うのは、日本食でもなく日本文化でもなんでもなく、実は、あの、自然の荒れ狂う様である。ベトナムの中部や北部にも台風くらいは来るが、ほんのよちよち歩きの子どもみたいな台風に過ぎない。空が壊れたんじゃないかと想うくらいの、暴力的な風が吹き荒れたりはしない。

年に一回くらい、めずらしく接近した、ひ弱な台風の日に、いつも懐かしく想うのだった。

ちっちゃくて瀟洒なはずの日本の自然が、牙を剥いた瞬間の、あの荒々しい実存を、である。


自然は、そもそもが理由もなく破壊的なものだ。容赦なく、叩き壊す。そして、また、生成する。壊されたものの立場なんて、知ったことではない。

そして、だからこそ、自然は留保なくただ美しいと、言われなければならない。絶望?開き直り?…いや、そう言うのとはちょっと違う。

外国人には理解されにくいのだが、結局のところ、私の世界観は、日本の自然が与えたもの、に、過ぎない。


大雨のとき、母親と電話した。

もろに被災地のど真ん中だったのだが、小高い丘の上だから、母の家は別になんともないという。もっとも、周りはぐちゃぐちゃだ。朝からパトカーやら救急車やら走り回って大変だ、と言う。

「今年はもう、日本中がめちゃくちゃだ」と母は言った。そして、その後続けて、「…いや、今年も。」と。

「最近はもう、ずっと異常気象だ。…まぁ、前からずっとそうだけどね」

そうか、大変だね、と、私は言うしかない。

あっけらかんと、母は言う。

「…で、いつ帰ってくるの?」

「うーん。…」

「まぁ、大雨がかたづいたら帰ってきなよ」

「…そうだね。次にどっかの火山が噴火したら帰るよ」

私のブラック・ジョークに母親は声を立てて笑い、そして、これから友達の浸水した家の掃除を手伝ってくる、と、のんきに笑った。





2018.07.23

Seno-Le Ma





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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