小説 op.5-03《シュニトケ、その色彩》下 ①…オイディプス王
これは、ここ一ヶ月ちょっとくらいアップしている《シュニトケ、その色彩》の最終章です。
これのあとは、短いエピローグがあって、とりあえずは終わりです。
Trang チャン という、ベトナム人の少女の、かなり荒んだ物語、と言うことになります。荒んでいる、というのは、話を要約してしまえばそういえてしまう、と言うだけで、どこか、一般的な社会倫理の埒外を自由にふらついている、そういう明るさと暴力性を両方持っている風景、と言うべきでしょうか。
内容としては、《上》から直接続いている物語です。時間的にはこれが、《上》の前、つまりは、時間的には、小説全体の一番前に来る部分、と言うことです。
作品の原案になっているのは、ソフォクレスの《オイディプス王》です。私は、この戯曲に強烈な影響を受けたのでした。
たっと一人だけお前の好きな文学者(究極的に広義で)を挙げろ、と言われたら、柿本人麻呂。
作品を三つだけ挙げろ、と言われたら、ソフォクレス《オイディプス王》、ドストエフスキー《悪霊》、《浜松中納言物語》…です。
この《下》は、かなり毒々しい内容になっています。
もっとも、読むと、毒々しいというのとはちょっと違う、奇妙な感情が生まれてくるのではないか、とは想うのですが。
…どうでしょう。
なので、まず、修正版からアップしておきます。
完全版は、後ほど、と言うことで。
2018.07.21 Seno-Le Ma
色彩 下
…オイディプス王
Oἰδίπoυς τύραννoς
必ずしも、雨が降る必要も無かった。十分に潤っていたから。旧正月周辺の時期に、雨は一日中降りしきるものだった。曇った空が斑らな白濁した気配の中に町を包み、必ずしも泣く必要も無かった Trang チャン の涙が、その瞬間一気にその両目から零れ落ちたのを、Mỹ ミー は最早見逃す事ができずに彼女にしがみつくように、そして Trang はその腕に抱かれた。Âu アオ は不在だった。どこかで、誰かと遊び歩いているに違いなかった。眼差しの向こうに雨に濡れた街路樹が道路の尽きるまで広がっていたが、雨から守るように抱きしめた Trang を屋内に連れ込み、シャワールームで濡れた体を洗ってやった。カフェに客はいなかった。濡れた Trang を誰にも見られずにすんだことに Mỹ は満足した。美しい Trang は濡れても美しいので、見られることには何の支障も無かったが、濡れた Trang を見せるのだけはいやだった。みすぼらしく、ふしだらだから。濡れた服を脱がそうとする Mỹ に嫌がる仕草をした Trang の頬を軽くひっぱたいたとき、彼女はふたたび泣き出すかもしれないと思った。Trangは Mỹ を見つめるだけだった。泣きだしてしまっていたのは Mỹ だった。Trang をひっぱたいて仕舞った時、そのどうしようもない暴力の痛さそのものが直接彼女の神経に触れて、涙を決壊させた。
Trang の美しい身体をシャワーで撫で廻しながら、Mỹ は彼女の絡みつく腕に気が遠くなる。接近しすぎた近さの中で、最早 Trang の身体の形態はぼやけた色彩として濁る。Âu が最初に手を出したのは Trang の方だった。いつだったか死者のための記念日の祝いの準備で朝早く起きた Trang が薪に火をつけようとしているときに、かがんで息を入れる Trang を後ろから抱きしめようとしたが、Âu が何を求めているのか Trang は知っていた。汗ばんだ体が自分の体臭を発散させているに違いないことを恥じながら、Trang は身をもがいて拒絶したが、Âu が不意に立てた笑い声に軽蔑的な表情が混ざっている気がして、Trang は彼をひっぱたきさえしそうになった。ただそれだけだったものの、Tuyệt トゥイエット か Thiên ティエン が見ていたに違いなかった。隣の家の鶏が翼をばたつかせ、啼き、なんにも、まったく無関係なのに、と彼女は笑った。Âu が立ち去った後に出てきた Tuyệt の責めるような無言の眼差しが、もはや Trang を監視しているのに Trang は気付いていた。Âu が自分に触れたときの体温の記憶があった。Mỹ に気付かれるだろうか、それを回避しなければならない思いと、単純に彼女に打ち明けてしまいたい欲望とに駆られ、Trang は Mỹ の、Âu への気持ちは知っていた。美しい男だった。男性的な肉体は筋肉の硬い繊維を張り巡らして、彼の手は彼女たちの手の倍近くで、血管を浮かび上がらせていた。その手が嫌いだと Mỹ は言ったが、Trang は好きだった。他人のそれとして彼女は愛し、Mỹ の嫌悪は、Âu のそれが自分のそれだったらと言うありえもしない妄想が作り出した感情に他ならないことに、Trang は気付いてさえいた。Âu の浮かび上がった血管には暴力の匂いがした。なにかを破壊するための、なにかだった。Mỹ が彼と関係を持ったことを Trang に告げたとき、Mỹ の、自分にわびるような眼差しと、勝利者の矜持がない交ぜになった表情の恍惚に、我慢できなかった Trang は、一瞬のみじかい沈黙と、執拗な凝視のあとで彼女をひっぱたいた。彼は、と Trang は言った、私の夫です。Trang が駆られた憎しみのただならなさを Mỹ はひっぱたかれた後で上目遣いの眼差しの中に確認し、Âu はあなたのものだ、と言ったのは Trang の方だった。あなたが好きにすればいい。あなたのほうがより多く愛しているし、彼もあなたのことが好きなのだから。そう、いつだった。そう遠くはない過去に。Trang は彼女を黙って涙ぐんだまま見つめる Mỹ の裏切りを許すことができなかった。Mỹ の眼が涙をこぼしそうになった瞬間に、彼女の髪の毛を引っつかんでテーブルにたたきつけた。Mỹ の母親が喚声を立てながら彼女たちを引き剥がそうとしたが、Trang の俊敏さがそれを許さなかった。穢い体だ、と思った。男を欲情させるしか能の無い Mỹ の体に触れることさえいやだったが、それを殴りつけるたびにその穢い体温に触れた。Âu はどこかへ逃げて行った。目を背けたまま、自分の関わり獲ないものから逃げ出そうとするかのように、そして Trang は彼の存在にさえ気付かなかった。Thanh タン が何もわからないふりをして、ただ、カフェの椅子に座って彼女たちの喧嘩を見ていたが、Mỹ が自分を守ろうとして振り上げた左手が Trang の鼻を殴打し、流れ出した鼻血を Trang は、唇に感じた。Thanh はすべてを知っていた。明け方の、同じベッドで寝ている姉が何をしたのか、彼は全部見ていたのだから。寝た降りをしたまま、閉ざされたまぶたの向こうで、彼らは声をさえたてずに、Thanh はただ重なり合わない息遣いが空間に漂うのを聞いていた。Mỹ と、Âu のそれを。Thanh は自分が、いつかそうなるものだと思っていたことに気付いた。海岸をバイクで走る。そのたびに視界の端に触れる海岸の風景は光の中に白濁して、青さを寧ろ遠ざからせてしまう。波立って、その海の色彩が空の色彩を移したものにすぎないことには、Âuは、気付いている。水滴と霧の中に白濁した雨の日には、海は向こうまでもひたすら白のグラデーションを曝すのだから。戯れて、わざと企んだ笑みを作りながら Trang が、仰向けになった Âu に************、Trang と Mỹ は顔を見合わせて笑った。声は立てなかった。Âuのまぶたを塞いだMỹの手のひらと接触した自分の皮膚が汗ばんでいるのをÂuは気付いていた。******************、Trang は微笑みながら幼児のように Âu を抱き、********************、窒息させてしまいそうなほどに抱きしめてみる。間に挟まった Mỹ の手が汗ばみ、Thanh は向こうを向いて寝た振りをしている。いつか彼も Âu のように女を抱くのだろうか、Trang は訝しかった。小さな子どもの、未だ何も知らないThanh。ベッドルームの開け放たれた窓から入り込む風が蚊帳を揺らす。夏の温度が肌を汗ばませる。三人の体臭が混ざり、時に Mỹ はもう一人、Thanh の匂いがすることにも気付いた。Trang が先に馬乗りになって、Âu の**********。体の中にその存在感が重ったるく在った。Mỹ に眼をふさがれたまま、敏感なÂuはもがくような仕草を見せた。Trang ****口付けたとき、彼女が息を飲んだのを Mỹ は聞き逃さなかった。眼を開けようとした Âu に Trang が見ないで、という。見てはいけません。なぜ?いつもそうだった。二人は二人の裸を Âu に見せようとはしなかった。本当の色を曝せ、と、Trang は思った。海を見るたびに。********************************************************、Mỹ は Âu の手のひらが自分の手のひらをつかんだ瞬間に、不意に恐怖した。海の本当の色彩はどんなだろう? Mỹ は彼が引き剥がさないようにいよいよ強く手のひらを押し付け、馬乗りになった尻の下で、Âu が************************************************、Trang は自分が何かの被害者であるかのような、どこかで悲惨な顔を晒した。Mỹ が Âu の子どもを妊娠したかも知れないことをTrang に告げたとき、Trang はあの日本人を家に連れ込んで、一ヶ月たっていた。時に忘れた頃にやってきて、彼女と Âu を求めもする Trang は Mỹ にとってふしだらなだけの女にすぎず、いつか彼女の間違いを正さなければならない気がしていたが、自分の犯したことの重大さに比べればなんでもない気がした。耳元でささやかれたその告白に、まだ確定的な事実ではなかったが、Trang は耳を疑った。どうするの? Trang は沈黙の後、目もあわせずにいい、カフェの中の疎らな客に視線を投げた。自分たちが育てる自信はなく、それに現実味は無かった。子どもに対する愛着はすでに芽生えていた。単に生理が二ヶ月無いというだけの事実があるにすぎず、子どもはまだ居無いというのに。眼差しの中に、明晰な絶望を撫ぜた。Mỹ は、Trang の眼差しに侮辱されたような表情がある気がした。Trang は信じられなかった。これから何が起こるのか、立た無い予測に苦しんだ。Mỹ は表情をなくしたまま伺うような眼差しだけをくれていた。目の前の40歳ばかりの客が路上に煙草を投げ捨てた。コンクリートブロックの上で、火はなかなか消えなかった。赤い海を見た。十二歳の頃だった。ダナン市の海岸に押し寄せた赤潮の極彩色の赤に染まった海を見た。赤いまま浪立って、打ち寄せ、白濁した泡を巻き上げて足元に崩れ去る。空は青いまま、海だけが何の必然性も欠いたまま赤かった。Mỹ が Âu の頭を引っぱたき、Âu が立てた大袈裟な歓声を Trang は背後に聞いた。
Âu と Mỹ が波打ち際でふざけあって彼らの足に赤い海水がじかに当たる。砕け、散り、その舞い上がった水滴さえもが赤い。夥しい微生物の氾濫と共に、今、その色彩の中で多くの魚の群れが窒息しているに違いなかった。潮の匂いに、その命の明らかな息吹の匂いさえ、消し去られてしまいながら。あした、どれほどの魚の、窒息した死体の群れが押し寄せるのか、Mỹ は恐ろしかった。二人の笑い声を聞きながら、Trang は色彩に見とれたまま、海がついに本当の色彩を曝した瞬間を目撃した気がしたが、Mỹ はそんな風には思わない。にも拘らずそれらは海の色彩ではなかった。その、おびただしい繁殖の果てに自らも窒息してゆく微生物たち固有の色彩に過ぎない。背後に、横に、人々が海を見て何かを口走っていた。人々にとって初めてか、やっと、ふたたび見る風景だった。背後の海岸線を無数の人々が、立ち止まり、歩き、バイクで走り去りながら、それらの音声が連なった。何を言っているのか殆ど聞き取れない単なる音の反響に過ぎないそれに、耳をなぶられるに任せる。潮が匂う。本当なの? Trang は言いながら、Mỹ の髪の毛をいじって、Trang にされるがままに、路面に視線を投げたままMỹは最早言葉を返そうともしなかった。本当に、妊娠なんかできるの?その夜、日本人の美しい肌に鼻をこすりつけるように Trang は匂いをかいだ。Âu の体臭とは明らかに違った。年齢のせいなのか、人種のせいなのか、単なる固体差なのか、気のせいなのか、Trang には判断できなかった。差異する事だけは事実だった。仰向けになって、思い切り息を吸い込んで、腹を膨らませた。背筋を反り返らせて、膨らんだ腹部を誇示して見せた。横で、日本人は声を立てて笑い、Trang は両手につかんだ日本人の顔を*********************、Trang が、********** Mỹ の******、付けられた鼻が嗅いだ匂いは確かにいつもとは違う気がしたが、この日本人は嗅ぐのだろうか?いつもと同じ匂いを。Mỹ のそれとは違うそれを。****************、その舌が感じているはずの味覚は想像できた。Mỹ のそれと同じ、はっきりとした酸味のある生ぬるい味覚が、その舌が感じているすべてに違いなかった。Mỹ にしてやったとき、彼女は身を丸めて******を確認しながら、Trang は首をよじって Mỹ の、瞳孔の開いた眼差しを見た。同じ眼差しを自分も曝しているのを知っている。Mỹ の舌が触れたとき、Âu を、あるいは日本人を見つめるときに、その同じ眼を、そして Mỹ と見詰め合うときにさえ。双子の彼女たちの違いは肌の色の違いにすぎなかった。見つめあいながら、お互いに口付け*****************、舌が唇をなぞりあうときに、Trang は知っていた、自分が、そして Mỹ も、曝してしまうのは同じような、知っていた。彼女たちは、それぞれに、曝されたのは同じ眼差しに過ぎなかったことを。見詰められた眼差しに見えるものは、その彼女が見詰めるものに限りなく近いはずだった。*******、Âu と日本人が同じ同じような顔をすることを Mỹ が未だ知らないことを Trang は知っている。彼女は Âu しか知らない。Thiên ティエン はどんな顔をして Mỹ に抱かれたのだろう?彼は彼女に**したのだろうか?時に思い出す。走らせたバイクの上から、路上に突っ伏した事故を起こした誰かの身体が、たかった人々の隙間から見えたときに。突っ込んだ橋げたのコンクリートに血痕がついていた。手遅れに違いなく、どこかの店の前で、背後に赤ちゃんの悲痛な泣き声を聞いたときに。単なる空腹か不快感の連絡に過ぎない、悲惨を極めた音声が耳から神経を逆撫で、耐えられなくさせる。思い出す。射精した Thiên の表情は、絶望にまみれた人間の、完全な無表情を曝して、その無様さに目を背けたことを Mỹ は思い出したものだったが、Thiên は声さえ立てなかった。Thiên が自分の組んだ腕で顔を隠し、もがきもせずに仰向けのまま、Mỹ に**されたときに、そんなにまで拒絶しながら、*******ちゃんと******のが滑稽だった。**************。*****************彼は汚されたのだろうか?彼が屈辱にまみれているのは事実なのだから、そうには違いなかったが、Mỹ には違う気がした。それはあまりにも自然な行為であるに過ぎない。反社会的か、反道徳的か、背徳的であるに過ぎないだけで、どうしようもない自然さが付きまとう。彼が傷ついていることに彼のどうしようもないた易さを感じ、いまさらのように Thiên を傷つけることができているのか疑われ、見開いた目が彼の惨めな格好を見るたびに、少し遅れて再確認する。Âu にしてやるように****。まるで女のような Âu は自分で腰さえ振らずに、すぐに********。**************、屈辱をあらわに顔に曝して、そしてTrang は声を立てずに笑った。Thanh はいつも寝た振りをする。ベッドルームの暗闇の中で、天井にいつか誰かに張られた蛍光塗料の星のステッカーの群れが無意味な星座をかたちづくり、夜、Trang はいつも声を立てずに笑う。脅迫された Thiên は最早無抵抗に、股を広げた。垂れたままのぶよぶよした**を手のひらでもてあそび、息遣いさえ押し殺した Thiên の混乱を哀れんだ。口に含んで下で転がせばそれはすぐに****。そのた易さにあっけにとられた。***************************唇が触れるのさえ拒否しようとされたときに、Mỹ はまるで自分が穢れきっていると宣告されたような気がして、Thiên に対する暴力的な衝動に駆られた。いま、**********咬みきったら、彼は泣き叫ぶだろうか?尻の下にした Thiên の顔に自分の**************************************Trang の***同じ匂いと、同じ味覚が、彼に感じられているはずだった。日本人に強姦された、と言ったとき、Mỹ は Trang をひっぱたいた。Trang が最早自分たちのとの関係を断ち切ろうとしていたことを Mỹ は知っていた。Trang は言った。彼は私をひっぱたいて、抱きしめたのだ、と。Mỹ は Trang の髪の毛をつかんで壁に居投げつけ、背中を打った Trang は息を詰めるが、彼は私を自分の部屋に連れ込んで、服を脱がしてしまったのだ、と。Mỹ の振り下ろされたこぶしが Trang の後頭部を強打して、気を遠のかせた Trang が一瞬白目を剥いたのを穢くMỹは見いだし、彼は泣き叫ぶ私を四つんばいにさせて、つかまれた頭が Mỹ によって壁にぶつけられ、彼は私を何度も強姦したのだ、と。鼻血を流しながらベッドに倒れこんで、しわになったアオヤイ[áo dài]の匂いを嗅いだ。薄汚れた匂いがした。Trang を強姦した男のせいかも知れず、彼女がもともと薄穢れた穢い存在に過ぎないからかもしれなかった。乱れたベッドの上で、半ば失神して、寝乱れたような息を立てる Trang を殺してやりたいと思った。それは今ではなかった。いつか必ず殺してしまうに違いない気がしたが、Trang は恍惚としたものだった。やっと自分のほしかったものを手にした実感があった。部屋の中で日本人の服を脱がして、自分はまだ純白のアオヤイを着たままに、ひざまづいて、窓越しの斜めの陽光に差された産毛に唇を触れた。匂いを、わざと音を立てて嗅ぎ、彼に自分が匂っていることを伝えた。何の意味があるわけでもなかったが、彼は Trang のしていることを知っているべきだった。彼の名前さえまだ知らないままに、Trang は彼を愛していたし、彼は彼女を辱めてはならなかった。なぜなら彼女は彼を愛しているのだから。愛すると言う感情が、或いは、その行為としての意味がいったいなんだったのかわからなかったが、自分が彼を愛していることは、何かの破綻を感じさせるほどの鮮明さで温度さえ伴って、はっきりと認識された。のばした腕が彼の体に密着し、************************************************************ほしいのはこんなものではなかったが、目の前にあるのはそれでしかなかった。************************************舌で触れれば、Mỹ や Âu のそれと同じような味がするに違い事はすでに知っていた。あなたはお父さんです。Mỹ が Thiên に言ったとき、そうだ、それでいいんだ、と、いつまでそう思っていていいんだ。振り向いた Thiên の眼が未だにそう言っているので、あなたはお父さんです。Mỹはもう一度繰り返した。もうすぐテト前の雨季がやってくる頃に、死者の記念日のために墓に出掛けた。Thiên はもう一度言われて、同じ嘘をふたたび言い聞かせるみじめな、卑怯臭い表情に顔を持ち崩した後で、ふと、あらためて何かに気付いたような顔をして、そして Mỹ は振り返るしかない。山際に切り開かれた墓地は向こうまで広大な敷地を墓石でうずめ、朝の空が頭上に輝いているはずだったが、それさえ Thiên は忘れた。茂った草と樹木の匂いがした。墓の尽きたところに樹木の緑がうずめ、墓石はななめの光を反射した。線香に火をつけ終わった Trang が彼女を振り向き見、Mỹ は彼女の眼差しには気付かない振りをした。背中を向けたままの沈黙の、そしてややあって不意に逃げ出した Thiên の後を Mỹ が追う。林に入って、樹木の狭間を走るが、本気で逃げている気がしない。Thiên は逃げきってしまうことが怖かった。背後から飛びついた Mỹ に殴打され、口の中を切りながら、彼女の暴力を許した。
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