小説 op.5-02《シュニトケ、その色彩》中(三帖) ②…地の果てで、君と。
シュニトケ、その色彩
中
三帖
「忘れられましたか?」皇紀が顔を上げて言った。Nhgĩa-義人が私をつれて入った路地の喫茶店の中に、「…奥さん、…だっけ?」皇紀は、別れたときそのままの姿勢で、じっと座っていた。スマホが、病院に入るために席を立った私が、「…じゃ、あとで。」そう、声をかけたときのままに、そこに放置されたまま、安っぽい、木のテーブルを、氷だけ溶かしたコーヒーが、グラスの肌を汗だくにし乍ら、濡らした。
水溜りのようなものをさえ作って。
「がんばって」言った皇紀は、私を見上げて、微笑んだものだった。なにを、私は、頑張ってほしいの? 微笑しかなく、なにを? Nhgĩa-義人が、どこかに連行するように、私の腕をつかんで、連れて行く。
お前だろう?私は想っていた。あの
病院へ、その後姿を、皇紀は
ビルに爆弾を仕掛けたのは。
見ていたに違いない。
一つの、まったき確信として。
なにを?皇紀は、なにを想って?一瞬、見ていたの?首を傾けて、君は、私を。「忘れられましたか?…もう。」もう一度私につぶやいた皇紀は、私が聞き取れなかったのだと想ったに違いない。
「何を?」微笑み。見た。皇紀の、その、「…忘れられたって、」あからさまに女の「何を?」微笑。
自分の表情はわからない。
「奥さんですよ。…見てきたんでしょ?」Trang の姿を想い出しそうになる。どっちの?「見てきたよ」生きていた頃の?それとも、あの「…どうして?」残骸を?子どもは、もはや「どうして、もう、」コンクリート・スラグの下に、その「俺が忘れたなんて、想ったの?」残骸さえ残ってはいなかった。「…ん?」いまは、「忘れてないんですか?」想い出したくない「まだ?」…え? どちらも。と、
生前の彼女も、言った。死後の彼女も。
そう、…と、その、何も。皇紀の声を聞いた。…何も。ささやきと、つぶやきの間の、小さな、声の断片。轟音が響く。
頭の中で、轟音が響く。
ヘリコプターの。そして、壁の向こうの、ささやき声の群れ。…いつ?
あなたたちが、俺を殺すのは、いつだ?
「一緒に、やります?」
「なにを?」
「革命ごっこです」
「…例の」
「そう。」
「首相官邸?」
「いや…」言って、長く伸ばし始めた
髪の毛を掻き上げて見せて、斜めにさした亜熱帯の
午後の光が皇紀の髪の毛に白い光沢を与え、舐めるように、そして崩れて、やがて、皇紀は一度、咳払いをして見せた。それが何かの意味を持った行為であるかのように、皇紀は自分の喉を撫ぜる。しかめられた顔の、その眉間に細かなしわが寄せられ、「柿本さんは、…」
なに?
「暇ですよね?」
…いま。…でしょ?違います?
私は笑っていた。Trang たちが死んで以降、私の生活のすべてはほぼ、寝て、起きて、寝るだけだった。
「なにも、やることないんでしょ?」
「ない、ね」
「生きていたい?」
「たい、ね」
「うそ。」
「なんで?」
「だって、それは、うそだよ」
「どうして、…ね」
「あきらかに、うそ。」
「俺だって、一応、」
「生きてたくないんだけど、」
「生きていたいよ、俺だって、やっぱ」
「死ぬ気にもならないっていう、」
「人間だから」
「…そういう感じ?」
「あいつらの分も」
「…じゃない?」
「なにが?」
言った私に、そして皇紀は不意に声を立てて笑う。その瞬間にとんだ唾が、私の左の頬にふれた。噴き出し、笑い転げるように、ダナン市の日本料理屋の中で、皇紀の背後の向うに座っていた、いい服を着たベトナム人の女が、振り向き、「…なにが?」
「だったら、死ねば?」笑顔をかみ殺し乍ら、皇紀は言った。私を見つめ、「死ねばいいのに。」その、「…え?」眼差し。「…ね。」彼女の眼差しの中で、どんな風に私が、「一緒に、」見えているのだろう?「…ね、」何かを「死にません?」見詰めた眼差しほど無表情な、「お前たちと?」無機的なものはない気がして、「他に…」いや、と。「他に誰か、います?」想いなおした私は、いつでも。「どう?」…いつでもそうだった。「便乗しません?」見詰められるとき。潤んだ、「革命ごっこ。」発情さえした眼差しであっても、「やだよ」それは無機物の、鈍い輝きだけを「…なんで?」曝した。いつも。「くだらないよ」なにもかも、「でも、さ。」拒絶し、「死ねるよ。」見下したかのような。「死にたいんでしょ?」
「らちが明かないって、顔、してるけど。」皇紀が笑った。
かしげた首が、細やかなしわを作った。そして、その影が。肌に。
その、首相であるには違いない、衣笠という、体ばかりが
大きな、鼻毛を二本だけのぞかせた男の額を
打ち抜いたのは、愛だった。「…ね、」…ね
と、耳元に声を弾ませた愛が、私の右手の拳銃に触れたときに、
「…なに?」
「ん?」
「どうした?」
くすっ、とだけ、鼻で笑って、ね?
「ばんって」
「ばん?」
私の手のひらごとつかまれた拳銃が火を噴いて、その男の左横を掠めた。その瞬間に
怯えた眼差しを、左右に震わせるしか出来なかったその
男は、叫んだ。衣笠は私を
睨みつけ、「殺すのか?
…お前、…お前たちは」
後ろ手に縛られたままで
「私を、お前たちは」
わめく。
「殺すのか?いい、」
わめくたびに
「い、」
声が熱を帯びて
「いー、」
自分では、最後の
「だろう、いいだろう、しかし」
名台詞を
「私を殺しても自由と」
吐いたつもりに違いない。
「民主主義は死なないぞ」
その、あからさまなほどに決然とした、男の最後の決意が
その挙動不審に震える力強い眼差しが、愛を
微笑ませ、最後の
言葉を言い終わった瞬間に、愛は
声を立てて笑った。…ねぇ、「いい?」
耳打ちする愛に、私は
そして、愛の髪の毛の向こうで、男は
まだ何か叫んでいた。私は、何も
愛には、何も言わなかった。むしろ
「…なに?」
独りごとをつぶやいたように私の口からその
言葉がこぼれる前にすでに
愛は私から奪った改造拳銃を男にくわえさせ、振り向き見た
眼差しが私を捉える。
愛はまばたく。
私は、…
私も。
愛は引き金を引いた。
男に、見向きも
しないままで。
窓の向こうに旋回するヘリコプターの騒音が、しかし、私はそんなものに耳を貸しているわけではなかった。もはや、すでに。あるいは、それが鳴り響き始めたその最初の一瞬以外には。
衣笠の脳漿が、壁に作った血の
黒ずんだ赤の、…深紅の?その、
私は戦慄を、哄笑に近い笑い顔の下で、
私は感じていた。わからなかった。私にはなぜ
私が笑っているのか?
Trang が微笑むのを、私は見た。もはや、彼女は疑いもしなかった。私が彼女を愛していること、そして、いつか、その時が来ること。
愛が、つまらなそうな表情を曝した後で、
…なんで?言った。
なんで?
私が彼女を裏切る最後のときが。そして、彼女が泣き崩れ、なにもかも、心さえもが崩壊して、溢れ出す涙と共に、すべてが、あるいはその肉体さえもが、崩壊し、
「…何が?」
なんで、みんな、
「どうしたの?」
穢いの?こんなに、なんで
「…ね、…何が?」
Trang はもはや、なにも疑わない。彼女が確信していることのすべてを。私に抱きしめられるときにさえも。匂う。Trang の髪の毛の匂いに、私の鼻腔は侵されるだけ侵され、
銃口を自分の左のこめかみに当てて、…左利き? 私を
見た愛が、左利きだったの? 引き金を引く
まねさえせずに、いつから? ばーん、そう
言ったとき、背後で皇紀が
笑った。声を立てて。皇紀は窓越しに、上空の
離れたところを飛び交うヘリの、数台の群れを
見ているに違いなかった。私の
眼差しは、愛の背後の、壁の脳漿の
穢れを見詰めたまま、…おいで。
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