小説 op.5-(intermezzo)《龍声》…②花と、龍と、そして雨。
龍声
4台のタクシーに分乗して到着した自衛隊員は、入り口で、わずかばかりに腕を濡らした水滴をはらった。雨はいよいよ、その勢いを増し、道場の中にさえ、その音響を響かせていた。
会員たちは一列敬礼で出迎え、それを隊員ははみかみながら大袈裟に謝した。
「心が洗われるな」
道場の正面壁に飾られた、《否定即肯定》《一殺多生》《破壊即慈悲》の書を左から順に眼で追い、真鍋英男は独り語散るようにつぶやき、その流された眼差しは Nhgĩa-義人を捉え、一瞬のお互いの凝視を確認した後で、快活を装って、二人は笑った。
その書は、皇紀が、知り合いのつてを手繰って、ある盲目の書家に書かせたものだった。
白内障で視力を失ってから、六十年以上たつと言う、その八十を超えた書家は、岐阜の山村のアトリエの中で、それらの言葉を依頼されたときに、煙草をすい、吐き、加齢のためなのか、褐色の濁りさえ帯びた白い黒目をそのままむけたままで、煙草を灰皿に棄てようとして、畳ちかくの低空を、煙をたゆたわせながらさまよわせ、見つけられずに、探し当てられないのを手にとって、皇紀が導いてやったその数秒後に、「君たち、右翼?」
言った。笑うように、陽気に、「僕、右翼、嫌い。」
思わず、単身書家を尋ねた皇紀さえ、つられて笑って仕舞ったのだが、「だからね、書けない。…帰って。」皇紀は懐の短刀を、書家の喉下に押し付けた。
その、もう少しだけ力を入れさえすれば、老いさらばえた皮膚なら血を流してしまうかも知れない、そのすれすれを維持し、「…困ります。」皇紀は言った。
書家は息を止め、その見えない眼は皇紀を無言で凝視する。「書くか、首を掻かれるか、どちらですか?」
書家の、数本の鼻毛を曝した、鼻の穴が、息遣うたびにほんのかすかな開閉を見せていることに、皇紀は気付く。枯れた、書家の体臭が、匂う。
「書きますよ。あなたは」首から刃をそっと放しながら、皇紀はささやき、「間違いなく…」あの…
皇紀の、思いあぐねたようなその声を、書家も聴いたに違いない。「見えますか?」
「何が?」
「これ。あなたの…」書家の目の前、こめかみすれすれにあわされた短刀の切っ先を、ゆっくりと、左眼の、白濁した黒眼にそらして、…ん?書家は言った。
「ナイフ?」
「そう、小刀…」
「いい、ナイフ、ね。手入、完璧、ね。」…見える?皇紀が、独り語散るようにつぶやくのを、書家は声を立てて笑って、「見えない。」けど、…「わかる。…なんとなく」
立ち上がると、一度、背伸びをして見せながら、奥に引き込んだ。ややあって、奥に控えていた介護士に手伝わせながら書家が持ってきたのは、墨さえ未だに生乾きの、その三点の書だった。
言った。「どう?」…傑作でしょ。
皇紀は、声さえ立てずに、微笑みを返した。
蝉の声は盛大に連ら鳴っていた。
サックが用意した食事が、道場に並んだ。手先の器用なサックは、新宿御苑近くの料理屋で、厨房係を勤めていたから、宴会の食事はいつも彼の仕事だった。
隊員に酌をしながら、中国から来た李浩然は敬礼して回った。受身の天才、と、Nhgĩa-義人は彼をそう呼んだ。綺麗な一本を決めかけても、畳にたたきつけられるどころか、彼の、水を流したような受身はすべての衝撃を流して、その痕跡をさえ身体に残していないはずだった。その代わりに、彼を投げた腕は絡みついた足に締め上げられ、指先から首にかけての筋はその全部が悲鳴を上げる。見事なものだった。
「重要なのはね、」と、加賀隆一郎が言った。「君たちが、ね、僕らの作法をどれだけ勉強してるかじゃないんだよ」道場にしつらえられた歓迎の宴は、「そんなのね、」静かな声がただ、とぐろを巻いて、「お勉強だから、…ただのね。」それは Nhgĩa-義人には心地よかった。「日本語のお勉強と一緒…」
お前が、天皇陛下のために死ねるかどうか、それだけ。…そう、目の前の隆一郎は「腹切れるのか。作法としてじゃなくて、」若干の酒気を帯びたその息を「本気で、陛下の御為、それだけのため、」好き放題に吐きかける。「最後の一線を、喜んで…」Nhgĩa-義人の顔に。「喜び勇んで、超えられるかと言うことなんだよ」
「精神の」しぇしんにょ「問題、ですね?」もんじゃいじぇっね Nhgĩa-義人の声に、うなづいて、「…そう。」
傍らに、フィリピン人のジョセフは相槌を打ち、「わかる?…俺の日本語、わかる?」不意に問うた隆一郎に答えた。えー「ええ、…」わかりまっ「わかります」
「御玉体ぬきの護国思想はね、まがい物だからね。」雨の音が、それらの「そんなものは単なる政治思想に過ぎんよ」話し声の低い連鎖の下に「まず、玉体、最後も、玉体」ざわめき続けていた。Nhgĩa-義人は「君たちのほうがよくわかるだろう?」その両方の音に「陛下に勤皇することの困難さが、だよ。」耳を澄まし、それらの耳の中の「日本人は、すぐに陛下は天孫にあらせられると、」奇妙な共存を楽しんだ。皇紀は「そう、すぐに勘違いするんだよ。」まだ、姿を現さない。「それは違う。」それは隊員たちに対する「断じて違う。」失礼には他ならないのだが、「陛下は人に過ぎない。」誰もが皇紀を特別扱いしていていたから、「神秘主義というかね、オカルトというかね、そんなものに、…ね?」隊員たちすらもが、気が向いたらその「陛下を穢さしめるのは、断じていかん。」姿を現して見せるはずの「神は神、人は人、」皇紀を、待つでもなく「これは事実に過ぎないんであってね、」待たないでもなく、ただ、心のどこかで「にも拘らず、陛下は神にあらせられるんだよ。」その存在を意識しているだけだった。「御玉体、神にあらせられず。」隆一郎にもう一度、「そんなことは当たり前だし、」Nhgĩa-義人は酌をしてやり、空になっていた「誰も緒が知っているんだよ。」その杯を満たしてやれば、一滴さえ「君にとってもそうでしょう?」こぼさないように、かすかな揺らぎを「外国人でしょう?君たちは。」その表面の張力に危うく「君たちのほうがよくわかるでしょう?」震わせながら、やがて、「陛下は人に過ぎぬ。」唇に触れた杯は「故に神なり、というのかな、…」一気に喉に酒を流した。Nhgĩa-義人は、微笑みつづけながら隆一郎を見、その傍らの吉沢家納を見、交互に見返し、彼らが結局は、自分たちが彼らの言っていることなど一切理解できてはいないことを、確信してさえいることには気付いている。
「大津寄を、呼んでまいります」不意に、おちゅきお Nhgĩa-義人は よんじぇまりまっ 言って、席を立った。いいよ、…よせ、いいから、と派手に気兼ねして制する隆一郎たちに一度頭を下げ、最上階の、居住階に上がった。
そこは、元のビル・オーナーたち家族の住居だったに違いなかった。5階建ての、その5階と、たぶん違法に建て増しされた屋上の一部屋が、桜桃会の、合宿時の居住スペースだった。
もっとも、道場の畳の上に蒲団を敷いてねるのを好んだから、もっぱら、食事と汗を流す用に供するにすぎない。
一応は汪のための社長室があって、皇紀のための個室も確保されてはいた。
皇紀は、そこで寝泊りしたことはない。
道場で起き、道場で寝た。
階段しかない事が、このビルが、空いていた主な理由だったかも知れない。交通の便に優れず、人通りもなく、店舗にも不向きだった。そして、築は50年近かった。
薄汚い壁を、無数のクラックが這った。
皇紀は部屋の中にいた。花でも活けているのかと想っていた皇紀は、ただ、開け放った窓辺に立って、吹き込むかすかな風と、撥ねた水滴に、自分を曝していた。
振り向きもせずに、…だれ?そう、皇紀が言った気がした。「Nhgĩa-義人です」
「義人?」
「はい」…そう、と、皇紀の唇が、その音声をゆっくりと吐いて、皇紀は気付かないには違いないが、この部屋は明らかに、女の匂いを篭らせている。Nhgĩa-義人はそう想った。皇紀の身体が、女のそれに他ならないことは事実であって、入浴後の、短パンとTシャツの皇紀の後姿は、皇紀が何と言おうが、たんなる美しい若い女のそれに過ぎない。
窓の外に、雨が匂った。
「雨がやまない」
皇紀がつぶやいた。
その、女声の、つややかな声が、Nhgĩa-義人の耳に匂う。あしたも、…そう頭の中だけで言いかけて、Nhgĩa-義人は沈黙した。雨だろうがなんだろうが、明日、土砂降りの中であっても、いや、むしろ土砂降りの雨をさえ喜んで、訓練は実施されるに違いない。泥に塗れる。容赦なく、肉体を穢れた、細菌をめいっぱい繁殖させた泥に穢す。
濡れた土の匂いさえ、匂った気がした。
振り向いた皇紀が匂いを残しながら Nhgĩa-義人の傍らを通り抜けて、使われたことのないベッドの上に放り投げられていた笛袋を取った。Nhgĩa-義人は胡坐をかいて座る。部屋の中には、見事に何もない。ただの部屋という空間であるに過ぎない。それが、ただ、それが部屋であるという事実だけを曝した。
「吹いてやる。聴け」皇紀が言った。
皇紀が吹いたのは、Nhgĩa-義人が何度も聞かされた、《蘭陵王》の《小乱声》だった。
狭い空間の中に、躯体を明らかに持て余した龍笛の響きが、四方にぶつかり合って、おもしろいように反響した。もはやそれは雑音そのものに過ぎない。
閉ざされた空間を嫌った音響が、のた打ち回って暴れる。耳を傷つけ、背後に降り止まない雨の湿気の気配の触感があった。
故国。そこは真新しい国家が統治していた。その国家を、人々は国体と信じて疑わず、ときに、現行政府への罵詈雑言が、酒宴において発された。
Nhgĩa-義人の祖父は戦争を語った。それは長い戦争だった。最初は日本兵との。そしてフランス軍との。やがてはアメリカとソビエトを、お互いの背後に睨んだ仲間撃ちが始まった。銃弾がベトナム人らしきもののお互いを射殺しあうが、それらはあくまでもアメリカ兵として存在し、あるいはソヴィエト兵として存在した。
お互いが、自分たちをベトナム人として語っていることは知っていた。もっとも、そのベトナムと言う国体の名前さえ、かつての名称を語った、とりあえずの名称に過ぎない。
いずれにせよ、どちらがどちらを敗走させ、どっちに勝利が転がり込んでも、それがベトナムの勝利であることには違いなかった。
中国が侵攻し、やがてカンボジアとの戦争が始まった。銃口が冷える間さえなかった。
多くの外国人たちが、自分のことのように、そのベトナムを語っていることさえ、彼らは知っていた。
カメラをぶら下げた外国人たちは、街中を徘徊し、吹き飛んだ死体と泣き叫ぶ子供たちにカメラを向けた。
いま、急激に解放された経済市場が、外国人たちに、もう一度その国を踏み荒らすことを許した。
美しい国です。Nhgĩa-義人は皇紀にそう言ったことがあった。一度、ベトナムに来てください。あなたに、美しいアオヤイをプレゼントします。言ったあとで、皇紀が男であることを想いだした。
龍笛が、上ずった音響を、耳の中にたてていた。
Nhgĩa-義人が桜桃会を知ったのは、日本語学校で知り合った台湾人の女が、生け花の教室に誘ったからだった。
受講料無料のその教室は、赤坂の氷川神社の一室を借りて行われていた。
講師は皇紀だった。着付けに身を包んで、女だ、と言っていた。事実、彼女は美しい女だった。
桜子、と言った。
何回か通って、正座に慣れてきた頃にころに、…いいね。桜子は言った。あなたの花には、芯がある。
「芯、…しん、…シン、…わかる?」
言った、至近距離の桜子の、着付けの絹が、衣擦れの音をかすかに立てながら、匂った。
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