小説 op.5-(intermezzo)《龍声》…①花と、龍と、そして雨。
これは、短いインテルメッツォです。
《シュニトケ、その色彩》に出てくる、大津寄皇紀という、右翼かぶれの「男装の麗人」と、Lê Thị Nhgĩa レ・ティ・ニア というベトナム人で、日本への留学生で、外国人だらけの右翼団体の主将、という人物の(…なんか、普通に書いていると、若干、頭が痛くなってきますが笑)物語です。
文体模写とまでは言いませんが、いかにも昭和文学的な、そういう文体を採用しています。
個人的に、この種の文体、今の時代なると、結構、反動的でおもしろいな、と。そのうちまた、こういう文体で、なにかもっと、分量のあるものを書こうと思っています。
2018.07.05 Seno-Le Ma
龍声
Lê Thị Nhgĩa レ・ティ・ニア は想いだす。光の温度、ベトナム、その、熱を孕んだ、見上げられた雨空の下で、東京の雨が Nhgĩa だけを濡らした。
大津寄皇紀にだけ傘を差してやり、Nhgĩa は殆ど体中の全部を雨に濡らすのだが、見上げられた眼差しに雨粒が落ち、小さな、その無数の痛みとまで呼べない、しかし確実な痛点のざわめきが、眼の周りを埋め尽くす。
ときに部厚いはずの皮膚さえも。
どうした?と、皇紀は言ったに違いなかった。その無言の気配に、皇紀を振り返って、顔を拭った手のひらが散らせた水滴は、皇紀の眼の下、頬の上部に撥ねた。
皇紀は立ち止まりもせずに Nhgĩa に、その上目遣いのうちに微笑み、何かへの返答として、うなづいた Nhgĩa を見た。
6月の雨は降り止まなかった。
あと数日で7月が来る。そんな事は、日付を忘れない限り、誰もが知っている。季節も、日付もなにもかも、無意味にしてしまわずにはおかない、むしろ永遠に降り続く気さえする細かな雨が、かすかな冷たさをはらんで、この一週間、わずかな中断をだけはさんで降り続いた。
桜桃会の軍服を着た皇紀は美しい。
人種としての美の好みを超えて、たしかに、それを美しいという感性があるに違いないことを確信させる、明確な美の根拠を、皇紀は曝した。耳の中に騒音が在って、それは、雨の群れが執拗に周囲をたたき続ける、その、微細な暴力の無際限なまでの集積であるには違いない。
高尾山散策は、明日の自衛隊員との合同合宿下見を兼ねた。もっとも、公式な合同合宿などではない。自衛隊の中の、ごく特殊な、汪たちへの賛同者の数名が、桜桃会の合宿に参加するに過ぎない。
合宿は自衛隊本部に対してはもちろん絶対に秘密だったし、非公式のものに他ならない。とはいえ、本部の何人かが知っていることも、皇紀たちは知っている。黙認するどころか、非公式に推進させるそぶりさえあった。
これは、桜桃会の剣道大会を参観したある陸上幕僚部の人間が匂わせたことだった。汪はめいっぱい、その誰にも本名を名乗ろうとしなかった男に媚を売ったが、自衛隊にも、見せてやりたいくらいだ、と、その《ユキオ》は言った。「この、君たちの、本気の修行をね」声を立てて笑い、それが本気での言葉でないことなど誰にでもわかる。
かならずしも、剣道としては大したことが行われているわけではない。奇声を上げ竹刀を振り回したちゃんばらごっこに過ぎない。「…もっとも、そんなことは絶対に、出来ませんが、…ね?」念を押して目配せを、汪に、そして皇紀に流した、彼の真意は測りかねた。
知ってるんだな、と、それだけ皇紀は確信した。
雨が葉の群れをうち、樹木をうち、草をうち、土をうち、山の匂いと、雨の水それ自体の匂いとを、おもしろいように掻きたてる。
目の前で、大気は倦んでいた。樹木と、土と、水の、夥しい臭気の群れにむしろ埋没し、それらは沈殿するしかなかった。
Lê Thị Nhgĩa、その、汪たちが Nhgĩa-義人と呼んでいたベトナム生まれの男は、相変わらず故国を愛していた。それは、強烈なまでの愛だった。すくなくとも、Nhgĩa-義人はそれを自覚していた。
日本に対する憧れがなかったといえば嘘になる。初めて成田の到着ロビーの床を踏んだときに、その、自分が踏みしめた一歩に、確実に到達した先進国の息吹を感じた。ささやくような日本語の高速度の音声の群れが周囲の低いところに漂って、端整で、独特のくせがある建築と照明が視界を埋めた。枯れたような、澄んだ匂いが空気にあった。海外旅行帰りの、いかにも高級品めいた女たちが、つま先だって歩くような早足で、標識に迷う Nhgĩa-義人を置き去りにしていった。
国の方針がそうだったから、と言えばそうであるには違いなかった。日本は、アジアの中で唯一まともな国であるべきだった。中華人民共和国と、その現在を名乗った国家は、何千年にもわたって、ただ緊張だけを故国に与えた。朝鮮半島は、半分は縁もゆかりもない外国に過ぎず、半分は、ふしだらでさえある軽蔑的な眼差しを曝した観光客たちの母国であるに過ぎない。
結局のところ、消去法で日本しか残らないだけ、と言えばそうとも言える。
いずれにしても、日本に留学して帰ってくれば、それ相応のチャンスに、故国でありつけるのはまったき事実だった。
小さな国だった。
巨大といえば巨大なビルが立ち並び、大きいといえば大きな車道が都市を分断するが、人々はその大きいはずの都市の中に、むしこ小作りに生活していた。
その日も、東京は雨に濡れていた。
いつも、雨の降る日に、Nhgĩa-義人は故国の熱を帯びた光を想いだす。東京の夏の日差しにもない、光それ自体の発熱を。ベトナム、それは留保なく美しい国だった。
茂った松の木の下に、皇紀は宿った。自分の軍服に散った水滴を撥ねるしぐさをし、Nhgĩa-義人を見て笑ったが、もはや吸えるだけ雨を吸った Nhgĩa-義人の軍服は黒ずんで、重量をただ、その身体に預けた。
向うに見える渓谷を、皇紀の指先は差していた。あそこだよ、と。明日、谷間にロープを張った、ロープ渡りの訓練をするのは。
雨。日本は、雨に濡れたときが一番美しい、と、Nhgĩa-義人は想う。細やかな雨も、霧のような雨も、大粒の雨も。むしろ、視界のすべてを白濁させてしまうほどの、土砂降りの中の風景を、Nhgĩa-義人は愛した。
樹木の下にあっても、傘を外さない Nhgĩa-義の、その手にさえ触れながら皇紀はそれを制して見せたが、どこかしらの遠くに、水流の音が立つのは、清水が立つからなのか。
探し回れば、岩を割った水源が、にごりようのない清水を曝していたかも知れない。
傘の水滴を掃っていれば、背後に、樹木の下に立った皇紀の、龍笛の鳴るのが聴こえた。空間を切り裂くような、細く鋭利な音響が、山間に木魂しを作って、それらは連鎖のうちに、それぞれに消滅しては、重なり合いながら生成した。
竹の笛は、湿った空気の中でこそ、よく鳴り響く。
それを、Nhgĩa-義人は確認した。
桜桃会の日野市道場に帰って、濡れた体を洗い流す。寒気が、体の中のどこかに巣食う。雨に当たりすぎたかも知れない。Nhgĩa-義人は、脆弱な自分の肉体を、ただ、自分に恥じなければならない。
日野市の外れ、多摩川沿いの小柄な一棟ビルを借り切ったその道場の、食堂に下りるとラオスから来たサックが賄い飯の準備に追われる。
会員は、道場で思い思いの鍛錬に耽る。午後十八時、基本的には自由時間だが、なにか遊興に耽るには、時間が惜しい気がする。
Nhgĩa-義人は黙って、バーベルを上げた。
自衛隊員たち有志十一名の合流は、夜の九時のはずだった。まだ時間があった。それに、何かの期待をいだいているわけでもなかったが、彼らに顔を合わせる前に、もう一度自分の肉体を、限界まで苛め抜き、精魂尽き果てておきたい気がした。
自衛隊と言っても、所詮は飼いならされた日本人たちの一人に過ぎない。日本人に多い、いかにも温室で育ったひ弱さを、彼らも総じてさらしている気がした。
自室に篭ったきり、皇紀は姿を現さない。
笛の音さえ聴こえない。花でも活けているのかもしれない、と、Nhgĩa-義人は想った。そして、あの、実際には女性のものに過ぎない身体が、明日の合同訓練の中で、痛めつけられ、なんども悲鳴をあげるに違いないことは、すでに予測がついている。これまでいつもそうだった。いつだったか、崖に張った長いロープを上りながら、その中ほどで皇紀の肉体は汗に塗れた。苦し紛れにもがく四肢が、誰のものよりも激しくロープを揺らし、下から、無意味に突き出されて、無様にもだえる尻を見上げた。暴れるたびに細かいものも、それなりの大きさのものも、剥離した石片が転がって落ち、土が落ち、ほこりさえ舞う。乱れきった荒い息が、耳にまで聞こえる気がした。どうやっても、その頂まで這い上がることは不可能に違いなかった。
他の会員は次々に、それぞれの時間と、それぞれの体力を消耗させながら、崖を上がる。最早ぶら下がるようにしてロープをつかんだまま、身体全体を小刻みに痙攣させることしかできない皇紀は、一人、取り残される。一瞬ずり下がって、手を放しそうになって、再びつかむ。
そのとき立てた、苦し紛れの奇声が、力なく、それでも山を響かせた。あの日は晴れていた。午後の、容赦のない日照が、皇紀の体全体を灼いていた。
結局のところ、引き上げられるに違いない皇紀には、もちろん会則に基づく制裁が待っているのだし、それをするのは Nhgĩa-義人の仕事だった。
その、体罰は皇紀の消耗しきった肉体を、崩壊寸前にまで追い込むに違いなかった。
崖を上る Nhgĩa-義人が追い越しざまに眼差しをくれた皇紀は、もはや失神しそうになりながら、汗なのか、鼻水なのか、唾液なのか、とにかく膨大な、直射日光にさえ乾かない水を垂れ流して、黒眼の焦点を喪失させていた。
Nhgĩa-義人は自分の肉体をいたぶる。その自虐に容赦はない。あえて軽めのバーベルを、ゆっくりと、一秒に一ミリ程度の速度で、上げていった。筋肉は最初の一回の途中で、すでに、内側から発熱していた。
汗が皮膚をふやかせる。
慣れきっていたはずの自分の体臭が、汗に塗れてこれみよがしなほどに匂う。
もはや、精神そのものが、発狂…精神疾患などではない、純粋で無慈悲な破壊そのもののすれすれで、ようやく持ち堪えていることを、Nhgĩa-義人は自覚している。
手放してしまえば。バーベルを、あるいは精神を。Nhgĩa-義人はすぐさま、破綻してしまうに違いなかった。無慈悲なまでに、取り返しようもなく。
筋肉、そして、骨格さえもが、そのやわらかい軟骨をも含めて、苦痛にわななく。
バーベルは持ち上がらない。
沈滞したその、震えながら、目を凝らせば確認できるに違いない上昇は、いつまで立っても達成されず、Nhgĩa-義人はむしろ、もっと、と想う。もっと、遅く。
時間を逆流するほどに、もっと遅く。
頭の中では、とっくに、叫び声があがりっぱなしになっている。骨を打ち砕こうとするかのような、それが。
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