小説 op.5-(intermezzo)《brown suger》⑧…君に、無限の幸福を。
brown suger
#6
バイクで疾走する。
午前5時ちょうどに家を出た。
未だに始まらない一日は、すでに、明るみ始めた空にだけ、無理やりこじ開けられようとしていた。対向車線にはみ出す車もなければ、併走するバイクもなく、追い抜いていくべきバイクにも数台しか出会わない。
ハンドルを廻し、エンジンに自由を与え、自分の肉体を限界近くにまで風圧に曝す。
あそこにしよう、と言った Duy が指さしたハン川近くの広い家に、一瞬、Thanh は拒絶しそうなそぶりを見せた。
どうしたの?
その、言葉が形成される以前の気配を、Duy の眼差しが示し始めた瞬間に、Thanh は声を立てて笑い、うなづいた。
それは Trang の家だった。
半分だけ開かれたシャッターが、中に誰かがいることを示していた。Thanh は、いま、なかに誰がいるのか、知らなかった。新しい日本人でも連れ込んでいるかもしれない。若いベトナム人が出てくるかも知れず、あるいは、Hà たちがいるかもしれない。
それとも、誰かに売り飛ばされていたとしても不思議ではない。
誰もいない。それは、入った瞬間に気付いた。誰かいたなら、一切の物音さえなくても、何らかの気配が感じられるものだった。
安堵と失望が重なり合った、微妙な感覚が、喉の奥に広がった。
せめて金めのものを探しに、二階に上がる Duy を捨て置いて、ただっ広い仏間の仏壇に、線香を立ててやった。
何かが匂う。
この家が空き家ではない、それを明示する。なにか。
人の気配とは違う、その残像のような匂い。
午前の十一時。遅めに、市場にでも行ったのか。あるいは、早めの昼食にもでかけたのか。
あるいは、いつも Trang は朝食を口にしないくせに、十時を回るといつでも空腹を、この世界の不義理の最たるものでさえあるかのような表情で訴えたのだから、朝昼を兼ねた食事に、一人で出掛けて仕舞ったのか。
あの日本人の昼食は、いつでも遅かった。
隣の家の鶏が鳴いて、羽撃いた。
開け放たれたシャッターから漏れ入る日差しが、緑色の御影石風のタイル、その床面一面を照らして、さまざまなものの影とかすかな鏡像を反映していた。
水の匂いがするのは、開けっ放しのシャワールームから漂ってくるものに違いなかった。
読みもしないくせに購買されていた新聞が、そのままテーブルの上に放り出されて、それが、机のニスにおぼろげな鏡像を置く。
住み着いていた猫の気配さえない。
もっとも、すぐそばにいたとしても、猫は気配など立てない。
彼ら、あるいは彼女たちが気が向いて、鳴き声をくれるとき以外には。
扇風機を回してみた。
振り向くと、Trang がいた。
Trang は表情さえ変えずに、ただ、Thanh の目の前に立って、彼を見つめるのだが、手に持ったビニール袋に詰められた鮮魚が水をたらした。床の上に。
魚の匂いを、Thanh は思い出す。
…なぜ? Thanh は訝った。こんなにも鮮明に、匂うのだろう?匂われもしない、その魚の匂いが。
Thanh が何か言おうとした瞬間に、そしてまるで盗賊に襲われでもしたかのように、声を立てかけた Trang を羽交い絞めした。棄てられた魚が Thanh の足の甲に撥ね、濡らし、Trang の体温は明らかに発熱していた。
温度。
腕に噛み付いた Trang を放して仕舞ったときに、Trang が嘲笑った気配があった。
あたたかい。
階段を駆け上がり、それは間違いだ。想う。上には Duy がいるし、そして、それは逃げ場所を自分から取り上げて仕舞う行為に他ならない。
それは間違いだ。
気配を悟った Duy が階段の上で抱きかかえようとしたが、身をよじってすり抜けて、Duy の指の間にだけ数本の髪の毛を残す。
Duy を押しのけて、Thanh は彼女の部屋の前で Trang を押し倒したが、床に打った肘の骨が、痛みに叫んだ。
声を立てていたのは自分自身だった。
うつぶせにされ、馬乗りになられた Trang が、後ろ手にねじ上げられた手をばたつかせるたびに、その筋の痛みに声を失う。
Trang は、途切れがちな、乱れた息を立てる肉体に過ぎない。その肉体が、むしろばらばらな断片のように、Thanh の体の中に暴れて、Thanh は、それが本当にあの Trang なのかどうかさえ、ときに疑う。
どうする?
近寄った Duy が、さっさと始末して仕舞うように、その気配で諭す。
どうする?
逡巡、ではない。それ以前の、単に透明な時間の猶予だけが、流れている気がした。
俺の姉貴なんだ、…そう、振り向いて言った Thanh に、Duy は肩をすくめた。
Thanh は後ろ手につかんだままで、無理やり振り向かせて、その鼻を殴打した。Trang は静かになった。
煙草を咥えた Duy が火をつけて、Thanh に咥えさせてやった。Thanh は吸い込み、吐いた。
Duy が、壁によかりながら、自分のために、指先が挟んだ煙草を口に運んだ。
Trang は、息を詰めながら、目を閉じ、閉じられた目から涙を溢れさせていた。
立ち上がった Thanh は、両手のひらで押さえられた鼻を、もう一度足の甲で蹴って、…好きにすればいいよ。言う。
数十秒の後に、Thanh が乗ったバイクが走り去っていく音を、Duy は窓の向う、背後に聞いた。
何か考えようとしながら、なにも考え付かずに、結局 Thanh はなにも考えない。ぐるっと回って、海岸線を走る。
誰もが、すれ違うたびに Thanh を見る。その、対向車線のバイクは。彼が、明らかに子どもに過ぎないから。
車の中のドライバーたちの表情はわからない。
すれ違いざまに、日差しがフロントガラスにきらめきを与えて、その反射光が、彼らの表情を曝されることからかたくなに守る。
煙草をすい終わったら、と、Duy は想った。
…痛み。鼻の奥を、火照らせ、涙にぬらす
窓の外から灰を落として、やがて、投げ捨てる。
その
鶏の羽音が聞こえる。その鳴き声と。
痛み。
無理やり***********、その全面に痛みがあった。Duy は自分を殺しはしなかった、その理由を Trang は、なにかにこじつけようとしながらも、その、こじつけなければならない必然性など、最初からありはしなかった。わたしは助かった、と、そう Trang は想い。傷?…*****************************************、
それは妄想に過ぎない
その現実を恐れるあまりに、そこにふれることさえ出来ずに、Trang は
単なる、ばかげた
股を開いたまま窓越しの陽光に差され、血さえ、流れてはいない。
壊れた
なにも。
妄想
壊されもせずに、傷さえほぼ
自分勝手な。…わたしの
負わないままで、Trang の首に記憶がある。ずっと、その
自分勝手な、
**の間中締め続けられた、その。気付いただろうか?
その
きざったらしい少年は、わたしの何度かのかるい失禁に。
首を絞められるたびに、そのある瞬間に、自動的に発生する失禁に、そのとき、一瞬だけ、Trang は命の存在を感じていた。
マリアが丸まって、猫のように、ひざの上に頭を乗せた。
Duy が笑いながら話した。もうすぐ。
彼の血管の中を流れ始めた**剤が、本当に覚醒し始めるまで、もうすぐ。Duy は誰も抱かない。いい女だった、Duy は言った。もうすぐ。誰を抱くのか、それは、彼が、最高だったよ、言ったその言葉に Hạnh が異議を唱える。彼が、決める。誰を?
わざとらしい嫉妬を曝した Hạnh なのか、マリアなのか。
お前、すこしも、似てないね?言った Duy の唇は、Trang の唇を奪っただろうか?その皮膚に?
Trang は、*******、口付けさえしただろうか?
Thanh は声を立てて笑い、嫉妬のような、嫌悪感。マリアが無表情のまま、彼の頭を撫ぜた。
下から伸ばした、その左腕で。
Hạnh が Thanh に、マリアのような*****をしてやった。
音。
唇と舌が口の中で立てるその音と、一滴ずつ水滴を滴らせるシャワーのその音、背後の、通り過ぎるバイクの音、それらが等価に空間に羅列され、Thanh は聴く。
マリアは Duy の上で派手な声を立てる。
*********************************************。
Trang もこの声を立てたのだろうか?…想う。
Duy に**されながら?
日本風に。
Duy だけが****。マリアは上に乗っているに過ぎない。髪の毛が乱れ打ち、身体が痙攣的な、不規則な揺らぎを曝す。
大柄な Duy の上に乗った、生身の小さな人形。***********。
褐色の肌が、影の中でいっそう黒く染まる。
***********、Thanh のそれは*******。あの男は言った。強くする、と。…なにを?
Hạnh が鼻から息を立て続けている
まどろみの中で、Trang は自分が Duy を強姦したと想ったに違いないと、Thanh は確信した。
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